稲村の火とは
稲村の火の物語とあらすじ
江戸時代末期の大災害で生まれた、命をかけた救出劇をご存知でしょうか。1854年に紀州広村を襲った大津波から村人を救うため、ある庄屋が自らの稲束に火をつけた実話があります。
この物語は、小泉八雲の英語作品をもとに、中井常蔵が翻訳・再話したものです。昭和12年から10年間、国定国語教科書に掲載され、防災教材として今も語り継がれています。
高台の庄屋が見た津波の前兆
地震の揺れを感じた高台に住む庄屋の五兵衛は、海の様子に異変を察知しました。海水が沖合へ退いていく光景を目の当たりにしたのです。
長年の経験から、五兵衛は津波の襲来を直感しました。しかし、村人たちは祭りの準備に夢中で、海岸付近にいる状態でした。
このままでは間に合わない。五兵衛は瞬時に判断し、大胆な行動に出る決意をしたのです。
私財の稲束に火をつけた決断
五兵衛が取った行動は、自らの田にあった稲むらに火を放つことでした。稲むらとは、収穫した稲束を積み重ねたもので、当時の農家にとって貴重な財産です。
火災を知らせる明かりは、瞬く間に村人の目に留まりました。「庄屋の家が火事だ」と考えた村人たちは、次々と高台へ駆け上がっていきます。
五兵衛の大胆な判断が、村人の命を救う第一歩となったのです。
村人を高台へ導いた結末
火を目印に高台へ集まった村人たちは、やがて海の異変に気づきました。巨大な津波が村を襲ったのは、その直後のことです。
安政南海地震による津波は、家々を飲み込む勢いで押し寄せました。しかし、高台にいた村人たちは難を逃れることができたのです。
村人の9割以上を救った五兵衛の行動は、後世に語り継がれる防災の教訓となりました。実際のモデルとなった濱口梧陵による救助活動では、広村の死者は30人にとどまったとされています。
実話の舞台となった安政南海地震
1854年に紀州広村を襲った大津波
嘉永7年11月5日(1854年12月24日)午後4時頃、紀伊半島から四国沖を震源とする巨大地震が発生しました。安政南海地震と呼ばれるこの地震は、マグニチュード8クラスの巨大地震でした。
この地震は、前日に発生した安政東海地震に続くものでした。わずか31時間の間に、2つの巨大地震が連続して発生したのです。
津波は紀伊半島や四国の沿岸を襲い、広範囲に甚大な被害をもたらしました。高知県では高さ20メートルを超える津波が観測されたとの記録も残されています。
浜口梧陵の人物像とヤマサ醤油
物語の主人公・五兵衛のモデルとなったのが、濱口梧陵です。梧陵は1820年に紀州広村で生まれ、12歳で本家の養子となりました。
銚子での家業であるヤマサ醤油の事業を継ぎ、七代目濱口儀兵衛を名乗りました。実業家としての活躍のみならず、社会福祉事業や政治活動にも尽力した人物です。
開国論者でもあった梧陵は、若くして見聞を広め、海外留学を志願したこともあります。1852年には、広村に稽古場「耐久舎」を開設し、後進の育成にも力を注ぎました。
実際の救助活動と被害状況
安政南海地震の被害は、伊豆から四国にかけての広範囲に及びました。死者は数千人、倒壊家屋は3万棟以上という大きな被害が報告されています。
広村では、梧陵が自身の田にあった藁の山に火をつけ、広八幡神社への避難路を示す明かりとしました。速やかな誘導により、村人の9割以上が救われたのです。
物語と実際の出来事には若干の違いがあります。地震の揺れは激烈で、瓦が飛び、壁が崩れ、塀が倒れたと梧陵自身が手記に残しています。津波が来る前に必ず潮が引くという描写も、実際には必ずしもそうではないことが後の研究で明らかになりました。
津波後の復興と広村堤防の建設
私財を投じた堤防工事
津波の被害から村を守るため、梧陵は大規模な堤防建設に着手しました。安政2年2月に着工し、安政5年12月に完成した広村堤防は、当時としては最大級の土木工事でした。
長さ約600メートル、基底の幅約20メートル、高さ約5メートルの堤防です。沖の突堤、海沿いの石堤と合わせて、多重防御のシステムを構築しました。
この工事に要した人員は延べ56,736人、費用は銀94貫344匁(金1,572両)でした。現代の金額に換算すると、米価換算で約3億7000万円、賃金換算で約18億6000万円になります。
被災者への住居提供と雇用創出
梧陵は堤防建設だけでなく、被災者の生活再建にも力を注ぎました。被災者用の小屋を建設し、農機具や漁業道具を提供したのです。
田畑は土砂に覆われて耕作できず、漁師たちは船と漁具を失い、生計を立てることができませんでした。住民が移住したり、親戚を頼って離散したりする状況が続いていたのです。
堤防工事では、村人を日払いで雇用することで、被災者の離散を防ぎました。仕事を与えることで、人々の生活を支え、村の復興を推進したのです。
後世の津波から村を守った防災遺産
梧陵は堤防建設の際に「住民百世の安堵を図る」との言葉を残しました。百世とは、永遠の未来を意味する言葉です。
堤防の効果は、完成から88年後に証明されました。1946年の昭和南海地震で津波が広村を襲った際、この堤防のために被害を減らすことができたのです。
広村堤防には1933年に感恩碑が建てられ、国の史跡にも指定されています。梧陵の遺徳をしのぶ「津浪祭」が毎年11月に開催され、災害の記憶と災害への備えが伝えられています。
現代に生きる防災の教訓
津波の前兆サインと避難行動
津波の前兆として知られる現象には、いくつかのサインがあります。強い地震、海からの大きな轟音、海水の急激な増減などです。
ただし、「津波の前には必ず潮が引く」という言い伝えは正確ではありません。地震を発生させた地下の断層の傾きや方向によっては、潮が引くことなく最初に大きな波が海岸に押し寄せる場合もあるのです。
もし異様に潮が退く現象を確認したら、ただちに避難することが望ましいでしょう。気象庁は、このような現象が津波発生時に見られることがある特異現象の1つであると説明しています。
11月5日が世界津波の日になった理由
2015年12月22日、国連総会本会議で「世界津波の日」を定める決議が採択されました。日本をはじめ142か国が共に提案したものです。
11月5日が選ばれた理由は、安政元年(1854年)11月5日に起きた「稲むらの火」の逸話にちなんでいます。早期警報と伝統的知識の活用によって人々の命が救われた成功例として、この日が制定されました。
日本では、2011年6月に制定された「津波対策の推進に関する法律」において、すでに11月5日を「津波防災の日」と定めていました。東日本大震災の教訓を生かし、津波対策についての理解と関心を深めることを目的としています。
稲むらの火の館で学ぶ津波防災
和歌山県広川町には、2007年4月に開館した「稲むらの火の館」があります。濱口梧陵記念館と津波防災教育センターからなる防災教育施設です。
記念館では、梧陵の生い立ちから晩年までの資料が展示されています。津波防災教育センターでは、3Dシアターやガイダンス、津波シミュレーションなど、体験型の展示が充実しているのが特徴です。
ゲーム形式で防災が学べるコーナーもあり、子どもでも応急や復旧、予防についてわかりやすく知ることができます。施設では、語り部とともに広村堤防を散策するプログラムも提供されています。