18 11月

大阪毎日新聞 明治29年6月19日付 「明治三陸大津波」に関する記事

旧サイトに掲載されていた「明治三陸大津波」に関する記事全文を、以下の通り転記します。尚、出典は明治29年6月に発行したものからの抜粋です。

海嘯の歴史

昨日の紙上に記載せしが右は多く天保以来の分なり依て今其以前の分を挙げて参考に供すべし、但し今回の如く区域廣く損害大なるは古来未だ曾てあらざる所なり

1、人皇四十八代稱徳天皇天平神護二年六月五日大隅神造新嶋震息まず海水溢れ民皆流亡す

1、清和天皇貞観十一年五月二十六日陸奧国地大に震動し流光昼の如く隠映す、少頃くして人民叫呼伏して起る能わず或は屋仆れ圧死し或は地裂け馬牛驚き走り或いは相昇踏城廓、倉庫、門、瑶垣、頽落顛覆する者、其数を知らず。海上哮吼の声雷霆に似たり驚涛涌潮淅海漲溢し忽ち城下に至り海を距る数百十里浩々其涯埃を知らず原野道路随て隠溟したり船に乗ずるに遑あらず山に登るに及び難く溺死するもの数千人資産苗稼殆ど遺なし

1、光孝天皇仁和三年五月二十九日七月二日同七日共に地震す此日五畿七道諸国の官舎多く損し海潮陸に漲り溺死するもの挙て数ふ可からず摂津最も甚し夜東西聲あり雷の如し

1、朱雀天皇天慶元年六月二十日地震す鴨川水大に溢れ京城に入り多く人家を漂流す

1、後村上天皇興国十六年六月十八日及び二十日地震す阿波雪港海溢れ居民廬舎千七百家を流出す同七月二十四日大に地震し難波浦海溢れ死する者数百人阿波鳴門潮涸れ陸となり巨鼓あり石上に見はる

1、後土御門天皇延徳七年八月二十一日伊勢地大に震ふ海水激し流死するもの一萬餘人国崎島没す此日鎌倉震する事一晝夜凡そ三十度江嶋地峡又海となる又此日伊勢、紀伊河海溢れ安房国海嘯あり内浦誕生寺為に破損す

1、後陽成天皇天正十八年二月十六日地震し 安房、上総、下総、常陸最も甚し山崩れ海埋り家屋顛倒せざる者稀れなり又慶長六年十二月十六日上総、安房地大に震ひ山崩れ海埋り嶽を海上に為し潮涸る事三十餘町明旦海大に鳴り潮水溢れて人畜死する者算なし同十八年十月二十五日地大に震ふ海溢れ死する者多し

1、東山天皇元禄十六年十一月二十一日関東諸国地震海嘯あり安房亦甚しく家屋一時に頓仆す相模、武蔵、上野等甚しく江戸城廓襲れ茅屋一も全き者なし箱根山崩れ海水暴溢し溺死数ふ可からず同時に安房国亦津波あり千餘家を流亡せり同四年十月四日伊勢國度會郡海水激す民家流亡し男女死する者八十餘人遠江國潮溢れ荒井白須賀二陸陥り人畜多く死す

1、光格天皇寶永九年四月得撫嶋地震し海嘯あり露船をして山上に至り後海に下す可からず露人船を棄てて去る

1、孝明天皇弘化四年十一月四日地震あり富士山及箱根山崩れ下田海溢れ十八箇所曠野となる溺死者多し紀伊国湯浅の民家千餘戸を破り大島を沈没し嶋民皆死す伊勢国は山田の町家数百を破り人多く溺死す和泉、摂津、播磨諸国洪波興り大阪の市民七百餘人道頓堀に溺死す

右は全国に通して大なる海嘯の歴史なるが更に細に東北地方の分のみ記せば前記貞觀十一年の大海嘯に亞ぐは慶長十六年十一月晦日松平陸奥守の政領所の海波溢れて人家流失し五千人溺死したると延保五年十月十九日夜常州水戸、奥州磐城に海嘯ありて領船破損し人畜溺死したると昨日記したる天保五年の大ツナミ等にして今回と災害殆んど相若く者は唯貞觀十一年の海嘯なるべし

海嘯東京の地震計に影響す
  東京にては人体には震動を感ぜざりしと雖も大学及び気象台の験震器は劇震の日本近海にありしを示めせりと云ふ人体に感ぜざりしは震源(ツスカローラ水深)の数百里外に在るに由るか

震源は陸に近し
  或人曰く単に東京に於ける震動の微弱なる故を以て震源を東京より数百里外なるツスカローラ水深に求むるは穏當ならず若し果して然らば千島の方に近き程震動も海嘯も劇烈なりしならんが事實は之に反して海嘯の劇しかりし三陸沿岸の中央は同時に震動も劇しかりしなり故に今回の海嘯は三陸の沿岸を去ること遠からざる海中の大地震に由るものならざるべからず又海嘯の打寄せたる形跡より推す時は今回の震源は陸地を距ること決して遠からざるべし地震に依りて海水の動揺するや輪をなして八方に廣がるが故に若し震源遠方なるときは海嘯を受くるの地は啻に三陸に限るべからず房、總、常の海岸は勿論北海道も甚しき害を受くべき筈なるに實際被害の惨憺たるに比して其區域の狭きは是れ震源の陸地に近き証據なり元来日本近傍の深海は其廣袤甚だ大なるが故に必ずしもツスカローラ水深點に限るを要せざるべしと今極て陸地に近く想像したる震源を圖に示す圖中海面に畫したる列點線は陸地を距ること遠からざる所より俄かに海水の深さを増す順序を示すものにして最深海底の區域は尚ほ南北に延長するものと知るべし

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海嘯襲来の種類
  古来海嘯の打寄せたる模様を考えるに、或は最初先ず大いに退汐したる後大潮の押し寄せ来ることあり或は一時に漫々たる潮水の空を覆いて来ることあり又或は来り或は去り一進一退遂に其の高さ山の如き海潮の寄せ来ることあり。安政年度八戸の大海嘯は最初甚だしく退汐して、沖の魚属など砂原に残されたるをば珍しがり、漁夫が挙って潮干狩りに押し出したる途端山の如き怒涛盛返し来って遂に市街過半を持去りしと。又紀州に起こりし海嘯は一進一退漸次に増水したるものにして、当時有田郡の住民は夜中の事ゆえ逃道に迷いたるを、土地の豪農濱口儀兵衛氏は早くも氣轉を利かして後ろの山に積みありし稲村に火を附けさせたれば、全村之を目当に駈け出して生命を助かりたりとぞ但し今回の海嘯は如何なる模様にて寄せ来りしか、未だ之を知ることを得ず

気圧と地震
 (中央気象臺馬場技師の談話) 気圧と地震とは密接の関係を有す勿論これ世界に於ける地震学者の既に識認する処なるが如何なる理由に依りて若くは如何なる作用に因りて気壓と地震とが斯く密着の関係を有するやと云ふに至りては盖し何人も道破せざる所なり然れども已に気壓と地震との関係が斯く密着の者なるを知らば今回東北の海嘯に就ても亦是れが異兆を気壓の上に示すは理将さに然るべき所なりされば去る六日より東北の海岸線に甚だ高き気壓を示し後ち次第に高まり来りて十二日より十三日に跨り殆ど過高の気壓に進み異兆は更に酷だ異兆の状を現はせり是に依りて余は無論一震動の東北海岸線を去る遙かの洋中に起る可きを豫知したり然れども海嘯の来るは未だ豫知するを得ざりき夫れ海嘯の起るや種々の原因を有す地震大風噴火洪水即ち是れなり而も地震必ずしも海嘯を呼ぶにあらず其海嘯を豫期し得ざる又止むを得ざるなりそは兎も角推測するが如く東北海岸を去る四十里の遠きにあるタスカロラ水底の断崖果して陥落したるものなりとせば如何にして其断崖の地層陥落せしかを究めざる可らず地質学者の説に依れば地面は活物にして常に運動すと盖し是れ一種の学説にして轤ク然れども地層に硬質軟質の別あるは吾人の常に断層に於て目撃する處なりタスカロラ断崖の軟層海潮に洗はれ潮水其弱點に對ふて侵入し軟層是れが為めに重力を加えて或る部分の軟層陥落し其陥落の震動是れ這回の強震にして海嘯を呼びし大原因なる莫からんや気壓今尚ほ平常に復せずされどイツシカ平常に復するの期ある可し其復するに就ても如何なる経過を採て復す可き乎是れ大に注目せざる可らざるの問題なりもしも順序を採りし経過ならんには毫も意に介するに足らず然れども過高の気壓時に或は急降せんか是れ亦再び孰れに於てか一大地震これなきを保す可らざるなり

大海嘯の先例(火山と海嘯)
 安政年度の海嘯は其源因全く南米の火山破裂にありて之に依りて起りたる海嘯は全世界に及び海水の往来は二回まで變態を示したり就中世人を驚かしたるは明治十七年八月二十七日スマトラ嶋とジャワ嶋の間なるクラカタウ嶋火山破裂の結果にして之れが為め我国にては太陽銅色を呈し英国倫敦にて日没後天上の模様遠く火災を望むが如く殊に印度洋は一面に火を降らして濠州及び亞弗利加に及び世界の海水は皆クラカタウ嶋を中心として動揺を起し全世界に波及して十数回の變潮あり我国伊勢湾潮候所も慥に大潮の前後数回寄せ来りたる跡を認めたりと云ふ古来天變地異多しと雖もクラカタウ嶋火山破裂の如く満天下を驚かしたるは盖し殆んど罕なるべし

海嘯區域内の測候所は石巻、宮古の二ケ所にありて幸に災厄を免れたればき氣象及び地震上の観測は行き届きたるべきが潮候所は函館一ケ所のみにして之れとても海嘯の影響甚だ大ならず其外海嘯區域に最も近き潮候所は總州犬吠ケ崎にあるもののみなれども多少潮流の變動を知り得るは此二ケ所に依るの外なしと云ふ

被害地方は人口少なし  今回海嘯の為め惨状を極めたるは石巻以北八戸以南百餘里間なるが此等の地方は概ね漁猟盛にして又蚕業も大に進歩し殊に宮古の如きは富豪家少なからざるも人口は孰れも割合に稀少なりと

海嘯と釜石  釜石地方神戸新田付近は去る明治二十五年中一度び海嘯に襲はれたる事あり然れども当時は座床を浸されしまでにして大したる損害は無かりしも今回は全市亡滅の惨事を見るに至れり聞く海嘯なるものは其大小に拘はらず寄せ来る時は緩漫なるも退く時は急激なれば何人も姑息の考より或は二階に逃れ或は小距離の処まで奔りて油断を為すより案外に多く溺死を生ずるものなりとぞ

平地は被害少し  海嘯は其来る固より咄嗟の間に在りて澎湃として陸に寄せ来ること猶ほ洪水の如くなれども山岳の如き障害物に逢ふや反動の為め勢忽ち猛烈となり為めに人家其他を破壊流亡せしむるもののよしにて茫漠として数里の間山岳を見ざる平地は被害却て少なしとの事なるが今回の海嘯も気仙沼附近及び南九戸郡の災害少なかりしは此等地勢の関係によるものならんといふ

帝国大学の海嘯調査  帝国大学にては学術研究の為め理科大学地質科学生及同助教授神保小虎氏等を海嘯被害地に出張せしむる事になりたりと

※コメント
明治29年、岩手県の津波に関連して大阪毎日新聞に掲載されたこの記事を、ラフカディオ・ハーンが夫人小泉セツから読み聞かされて、「稲むらの火」の史実を知ったのが、原文”A Living God”を書く動機となった。

小泉 時氏(小泉八雲 孫)談
 【セツ自身が書き上げた『思い出の記』(『小泉八雲 思い出の記』、小泉節子、恒文社)で「食事の時にはいろいろな話をいたしました。パパは西洋の新聞などの話をいたしますし、私は日本の新聞の話をいたします。東京時代、新聞は永い間『読売』『朝日』を見ていました。云々、、、、」と触れています。また、小泉家の夕食事は八雲とセツの情報交換の時、場所であったといえます。 ですから、神戸時代に‘ごりょう’さんの稲むらの火の紹介が新聞紙上に載りましたら、ハーンが喜ぶ内容なので、必ずセツは解説していたことでしょう。ハーンの『仏の国の落ち葉』、“Gleanings in Buddha-Fields”は1897、9月にアメリカ版が発行されています。ハーンが草稿、原稿入れに使用した情報ボックス(特別引出の多い小箪笥)には、面白い情報や記事があれば、走り書きの草稿をつくり、分類して保管してありました。神戸時代につくった‘生き神様’の草稿を東京時代に引っ張りだし、原稿に書き上げて1897年に刊行したことも理解できます。】

 編集後記
明治三陸大津波の発生(新聞報道による)が小泉八雲に「生神」を書くきっかけを与えあたことは広く知られていることです。上記「大阪毎日新聞」の記事には、梧陵さんのこと以外にも2011年に起こった東日本大震災の時と同じく貞観11年に発生した貞観津波のことも記しています。「災害は忘れた頃にやって来る」と良く言われますが、新聞報道からも津波の歴史を感じることできると云うことでしょう。今年で、昭和南海地震からも70年の年月が経とうとしています。貞観津波(869年)が発生した18年後には南海トラフを震源とした仁和(にんな)地震(887年)が発生していることも、頭のどこかに留めておくことも必要ではないでしょうか。