10 2月

「蓮舟遺稿」

thumbnail of 蓮舟遺稿3

「田辺蓮舟遺稿」 国立国会図書館蔵

北総銚子港。有濱口儀兵衛。世以醸醤油為業。販(粥の下に鬲)偏(本文は、ぎょうにんべん)海内外。因以致富。儀兵衛王父。亦称儀兵衛。号梧陵。好読書廣交遊。在嘉永安政間。天下以鎖国攘夷為説。著之於書。騰之於口。粉粉擾擾。而梧陵独持開国論。毎哂比輩。為怯襦類婦人。予時尚少。以所見相同。為忘年友。過従談論。往往及夜漏過子。維新之初。應紀藩之辞。為其参事。後游美洲。年既七十。意気猶壮。遂死於客中。予之将游水戸。前数日。儀兵衛来訪。聞之請其帰途枉路過銚子。約為東道主。以故発水戸之夕。宿土浦。翌(にんべんに就)舟航霞浦。舟初解纜。而雨猝至。四顧濛濛。不辨咫尺。則歎雖云雨奇。而不如請好也。午(食部に卞)於午淵。又就舟直下刀水。昏黒雨益甚。加以風。沿道如潮来。不得萬目。至銚子港。夜己過半。投江月僂。僂臨刀水。臨眺頗佳。訪儀兵衛不在。盖予滞水戸日久。儀兵衛有事赴其本貫紀州。不及待也。停三日。雨不少歇。不能出門。近傍如鹿島香取神廟。不得一謁。而家信促歸。草草還京。此行也。地跨三州。為日廿有五日。又得好伴侶。可謂快游。乃輯其所耳目。拉雑為記。語無倫次。聊以為他日囘憶之資云。

「田辺蓮舟遺稿」の22頁に上記のような記載がある。「北総銚子の港に、濱口儀兵衛と云う人物がいる。醤油醸造を生業とし、富を得た。自身は、亡くなった祖父も名乗った儀兵衛を継ぎ、後に梧陵と名乗った。読書を好み、交遊も広かった。世の中が、鎖国、攘夷論を論じる、嘉永、安政の時代を生き。独自の開国論を持っていたのが梧陵さんである。自分と同じ意見を持ち、議論も尽した長年の友人であった。維新の初めは、紀州の参事を務める為、役職を辞したこともあった。その後、アメリカにも渡った、間もなく70歳と云う年齢にも関わらず、意気盛んな方であった。残念ながらその旅の途中で客死してしまった。」と思い出話も加え、梧陵さんのことを回顧している。

田辺太一(号は蓮舟。1831−1915)は、幕末から明治時代にかけて活躍した武士、外交官であった。若い頃から、海外視察の夢を持っていた梧陵さんとは、意気投合したことが想像できる。梧陵さんの銚子時代から友人であった蘭学医の三宅艮齊とも親しかった事から、梧陵さんとも交遊が始まったのではとも考えられる。艮齊の子息の三宅秀(復一。東大で最初の医学博士。)は、田辺から英語を身につける世話(当時の英語通訳第一人者立石斧次郎を紹介)を受けている。また、文久3年(1863)の第二回遣欧使節団の中心メンバーに田辺が選ばれた際には、三宅秀をその使節団に参加させている。不思議な縁でもあるが、その使節団の中には、梧陵さんの前任として初代駅逓正を務めた杉浦譲(幼名愛之助。田辺は、杉浦譲の結婚の仲人もする関係でもあった。)もいた。スフィンクスの前で撮られた侍姿の写真を知る方も多いかと思うが、それが第二回遣欧使節団のメンバー達であった。(但し、田辺は見学に同行していなかったために写真には写っていないようだ。)

尚、「蓮舟遺稿」にある「粉粉擾擾」という言葉は、梧陵さんとも交遊のあった佐久間象山の師とされる佐藤一斎の「言志四録」にも記されている。雑多な考え方があって、世の中が混乱状態にあったことが表現されている。(佐藤一斎の号が「担」であったことから、梧陵さんの子息の名前の由来になったのではないだろうか。)