12 2月

「竹斎日記」

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従慶応三丁卯年拾月

五十九番 射陽書院日記 二冊之内

            陶隠居

1996年、松阪大学(当時)地域社会研究所が発行した「竹斎日記」(浅井政弘氏、上野利三氏編)9巻に、梧陵さんが射和の竹川竹斎氏を訪れた時の事が記されている。上野氏らが翻刻された記述を以下に紹介する。

(十一月)廿日 天気少し曇出
一、四ツ頃濱口義(儀)兵衛入来 今夜止宿閑話国分倍席家来共止宿ミヤケ
西洋釈書四冊 支那人くわし

廿一日 曇 昼後雨二成 夜二入降
一、濱口昼後迄 国家事議論 両人も昨夜参宮 相可廻り入来昼めし
一、濱口へ水滴箱入 太鼓ねつけ
   同 印□□□善斎 水滴
   同 急須遣ス
   (中略)
                    濱口へ 老翁雄(ごんべんに告)かし
                    護国前後論ハ二冊進ス

 −編集後記−
2010年2月、三重県史編集委員(松阪市文化財審議委員)の門暉代司氏にもお付き合いを頂き、松阪郊外の射和にある竹川隆子さんを訪ねた。70数冊遺された「竹斎日記」の中から梧陵さんに関することが記された部分の写真を撮らして頂いた。また、当時の松坂大学の地域社会研究会がから発行された「竹斎日記稿」も顕彰活動の為に寄贈して頂いた。

竹斎生誕200年を記念して出された「竹川竹斎」などから、竹斎翁に関して少し説明を加えたい。勝海舟の「氷川清話」には、医師として紹介されていたかと思うが、勝海舟を経済的に支援した3人の中の一人である。(他の二人は、日本橋で国会議員なども務めたとされる濱口家の人物という記載がされているので梧陵さんの可能性が高い。また、嘉納治右衛門という人物も記されているが、嘉納次郎作氏<加納治五郎のご尊父で、竹川家には竹斎翁と一緒に撮った写真や交友を示す昔の新聞記事が遺されている。>の間違いと思われる。)竹斎と梧陵さんを勝海舟に紹介したのが函館の豪商渋田利右衛門であり、彼等の三人を結びつけたのは日本橋にあった「嘉七」(勝がよく立ち読みに現れたとされる)という書店であったようだ。因に、日本最初の図書館が竹斎が創立した「射和文庫」と云われている。(日記や納本略記では嘉永七年、年表では嘉永元年の創設と考えられている。興味深いことに、嘉永七年であれば、梧陵さんが地震、津波からの郷里広村の復興に奔走する前後になるのだが。)現在、濱口家と嘉納家(前社長の毅六氏は10代目儀兵衛氏の子息)は姻戚関係にもあり、不思議な縁も感じる。

上記の日記にも記されているように竹斎が著した「護国論」(嘉永6年)は、勝にも送られている。梧陵さんとも関係があったとされる老中の外交方であった小笠原隠岐守もそれに目を通していたようだ。残念ながら、梧陵さんが遺した「梧陵文庫」の中には、この時に竹斎からもらったとされる著書は含まれていない。

尚、梧陵さんが竹斎翁を訪ねた、慶応3年11月20日と云えば、その数日前には勝海舟に近かった坂本龍馬が京都で暗殺をされている。梧陵さんや竹斎翁が生きた時代が維新の真っただ中でもあったことが分かるかと思う。