13 2月

「大日本地名辞書」 −吉田東伍編纂−

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「大日本地名辞書」上巻2 有田郡

明治39年12月1日に発行された「歴史地理」(第八巻、第十二号)に東日本大震災の発生後から注目されるようになった貞観地震、津浪に関する論文「貞観十一年陸奥府城の震動洪溢」を発表したのが吉田東伍である。十数年かけて完成させたとされる「大日本地地名辞書」(1907年に脱稿)の中には、以下のような広(現広川町)に関する記述がみられる。また、大正8年に発行された「故文学博士吉田東伍略伝」には、終焉の地(療養のため滞在していた)となった銚子に関する記述にも梧陵さんのことが含まれている。醤油伝播の歴史だけではなく、広と銚子に関わるもう一つの不思議な縁ではないだろうか。銚子を訪れる機会があれば、是非吉田東伍終焉の碑(編者撮影)に立寄り、氏の功績などにも想いを馳せて頂ければと思う。

廣(広)

旧庄名にて、東鑑(吾妻鏡)文治二年の條に「紀伊国広由良荘、蓮花王院領とあり。(由良は日高郡なり)今広村南広村津木村の三に分れ、広村は即広浦と云い湯浅湾の埠頭なり。安政元年十一月地大に震い、広村の全土殆ど破壊し、水退くと雖ども人心淘々、邑(むら)人濱口梧陵同族吉右衛門と謀り官に白して自ら費を出して堤防を造る、其の長さ凡そ十五町横八間なり、其他後陵の率先して業を導き利を興し、或は橋梁を修し、或は道路を治する等、一にして足らずと云う。

江隈竹枝詞     渓 琴
(詞 略)

 

 −編集後記−

ネット上にある「吾妻鏡」に関するHPから、吉田東伍が「大日本地名辞書」に記した通り以下のような広と由良(広川町の南隣になる現由良町)についての記述があることが分かった。

1186年 (文治2年 丙午)
8月26日 庚子 
蓮花王院領紀伊の国由良庄に於いて、七條細工字紀太謀計を構え濫妨を致すの由、領家範季朝臣の折紙並びに院宣到来するの間、今日下知せしめ給うと。 
   下す 蓮花王院御領紀伊の国由良庄官 
   早く銅細工字七條の紀太が妨げを停止すべき事 
右件の御庄、彼の細工の謀計を停止し、院宣に任せ、領家庄務を知行せしむべきの状件の如し。以て下す。 
     文治二年八月二十六日

廣由良庄濫妨の事、折紙これを進上す。奏し下せしめ給うべく候。七條の紀太丸の謀計殊に勝れ候。尤も重科に処せらるべく候なり。領家と称すは基親朝臣と。子細を知らざる田舎人、猶以て此の如きの狼藉を結構し候か。以ての外の事に候。就中、南山に臨幸の由その聞こえ候。彼の庄相違候わば、桧物具等叶うべからず候。年来垰田郷件の役に勤仕す。而るに高雄寺庄を建立せられ候いをはんぬ。片時と雖も急ぎ仰せ下さるべく候か。恐々謹言。 
     閏七月二十四日        木工の頭範季(上)

蓮花王院領廣由良庄妨げの事、領家範季朝臣進す所の折紙・證文案等此の如し。子細を尋ねらるべきの由、内々御気色候なり。仍って執啓件の如し。 
     後七月二十九日        太宰権の師経房(奉る)

尚、広の説明の最後に書き加えられていた「江隈竹枝詞」は、渓琴と云う人物の詞となっているが、梧陵さんとの交流も頻繁であった湯浅の栖原出身の菊池海荘のものである。梧陵さんより20歳年上であるが、梧陵さんに強い影響を与えた人物の一人である。また、由良の港を開いた人物とも云われている。