ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

koizumi
小泉八雲の略伝

八雲(ラフカディオ・ハーン)は西暦1850年(嘉永3年)ギリシャに生る。母はギリシャ人で、父はアイルランド人(当時は英国籍)で軍医少佐。2才の時父母に伴なわれてアイルランドに帰ったが6才の時父母は離婚したので父の叔母の許で養育され、17才の時又も不幸にも父に死別し、ついで大叔母の家も破産してしまった。

幼時は家庭で学び、13才で英国アショウ・カレッジに入学し、その前後にはフランスの神学校にも通ったが、19才の時米国に向って流浪の旅に上り苦しい生活の中苦学を積んだ。24才になって初めて新聞記者となり、その文才は漸く時の人に認められたが、熱帯地方への憧れが強く1887年、37才で西印度諸島に渡り一旦ニューヨークに帰ったが、明治23年3月(1890年)39才の時ハーバー誌通信員として日本に向い、4月4日横浜に上陸した。

同年8月松江中学校の教師となり、翌年3月頃小泉セツと結婚して初めて安住の基礎を定めましたが、明治24年熊本第五高校に転任し、ついで27年熊本第五高校を辞して神戸クロニクル新聞杜に記者となり、その翌年小泉家に入籍して小泉八雲となった。来日後の見聞記「知られざる日本の面影」「心」などを刊行、その印象的な筆致が新鮮で読者を魅了した。1896年東大講師に就任在職7年に及んだが、豊かな文芸の教養を生かした講義は学生に深い感化を与えた。1904年4月早稲田大学講師に、同年9月26日心臓発作の為54才を以って西大久保の自邸で長逝されました。

来日後に書かれた著書には「東の国より」「仏土の落穂」(1897年)などの随筆、「霊の日本」「骨董」などの奇談、怪談集等11巻の多数に及んでいるが、芸術的価値が最も高く、文人として彼を代表するのは短篇集「径談」(1904年)で浪漫的詩情が全篇を掩っている。八雲が日本のよき理解者、愛好者として、欧米の読者に日本の真姿を伝えた功績はまことに偉とすべきである。大正4年従四位を追贈されたのも宜なりと申すべきです。セツ夫人との間に三男一女あり、夫人もお子達も既に他界されたが、長男一雄、次男巌、三男清の子孫が、松江、横浜、東京に在住。