07 12月

東京日日新聞 明治18年6月 世界一周の空しく米国に客死した。

世界一周の空しく米国に客死した。(明治18年6月3日 東京日日新聞)

世界一周の素志を果たすこと能わずして、去る四月二十一日を以て米国丑育府、に病死せし故濱口梧陵氏の遺骸は、兼ねても記せし如く去る二十八日に横浜に着きしたりば、親族故旧は付き添いて一昨一日横浜を発し神戸に送り、其故山なる紀州広村に送らんとせり、
和歌山より木國同友会の総代高橋鋭一郎氏がはるばる来り迎えられ同日共に同港を出発せり、故梧陵翁の略履歴は既に前号の紙面(四月二十三日)に記せしが、今又高橋氏の許より故翁の傳の稍や委しきものを送られたれば之れを左に掲ぐ。
故濱口梧陵氏は諱は成則、字は公興、俗称儀兵衛、梧陵(後に号を以て行ふ)と号す、
和歌山県有田郡広村の産なり、家世里の豪族たり、其為人宏度明達、博く書を読み好で徂徠學を修む、に志を立て廣く天下の士と交わり、宇内の形勢に於て大に見る所あり、
幕府外交を開くに方り、成則人に語りて日へらく、方令の急務は外交にあり、外交の要は我若し徳威以て之に接する能わずば戦て後和するに若かずと、又平生交る所の岩瀬、柴田、田邊等の諸氏に就て遠航のことを謀る、
諸氏皆之を謹賛す、然れども憚る所ありて遂に果たさず、凝れに於て時勢の止むを得ざるを覚り去て郷里に帰り、
文は道徳経済を旨とし、武は洋制を主とし、連隊以て練習を試み、専ら子弟の教養を事とす、紀伊公徳川氏藩制を改革するに当たりて氏を擢で参政に任ず、
明治二年和歌山藩少参事に任ず、
四年和歌山藩擢大参事に昇進し次で京に召され駅逓正に任じ、又た駅逓頭に昇進して再び和歌山県大参事に任ず、まだ幾ならずして官を辞す、後ちまた和歌山県参事に任ず、
蓋で罷む、初め安政元年甲寅十一月地大に震ひ海嘯く、
、●村殆ど破壊に属す、水退くと雖も人心恟々安堵せず兄弟妻子 た離散せんとす、
成則百方慰論し財を出し之を振す廣村の地たる多くの厚税の田圃を有し民常に武課に苦む、
成則心に請ふ、海嘯の防は堤防にあり、是は、一日もなかるべからず、然れども居民厚賦に苦む、
此亦除かざるべからず、今若し堤防を築き、彼の田圃の石を取て此敷地に移さば所一挙両得なるものなりと、乃ち同族吉右衛門と謀り、官に白して自ら賽を出し堤防を造る、
其の長さ凡そ十五町横八間なり、其間苦辛謂ふべからず、
されども 村の民之に依て両弊を免れて始めて安堵せり、其他業を導き利を興し橋梁を修し道路を治むる等亦一にして足らざるなり、
さきに府県會の興りし時選ばれて県會の議長となり、政党論の盛なりし時木國同友會を組織して其の會長に挙げられ急激の脚を失するを説き、沈実以て歩を進むべきを論せり、
之に由て●県の人士自立の方向を定め、自治の計画を案じ、一も軽躁浮薄の痕跡を露はさず、
昨年五月決然として欧米の行を企つ、其意は蓋し積年の宿志をとげ、且や國會開設の期漸く近くを以て、親しく欧米の制度を視察して大に國家に禅益せんと欲せしならん、斯して其行米の一國に止まりて、今年四月二十日新約克に没す、享年六十六と云う。

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kakushi

●は、「門」構えに中は、「貴」となる字(カイ)で、
意味は、町の周りを取り巻く城壁の門、 「堤防に守られた」の意味と思われる。