01 12月

読売新聞 大阪版 昭和58年6月7日 「窓」 稲むらの火と教科書

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稲むらの火と教科書

 四十年近く前の小学五年の教科書に出て来た「稲むちの火」、大阪市住吉区、五島隆春さんが書いて来て下さったその物語をつづけます。きのうは「五兵衛が稲むらに火をつけた。半鐘が鳴った。人々が山手に向けて駆け出した。だが五兵衛の目には、それが蟻の歩みのようにもどかしかった… 」そこまででしたね。

 <やっと二十人ほどの若者が高台にかけ上がって来た。彼らはすぐに火を消しにかかろうとする。五兵衛が大声で言った。「うっちゃっておけ。村中の人に来てもらうんや」。五兵衛はあとからあとから上がってくる老 若男女の数を数え、力いっぱい叫んだ。「見ろ。やって来たぞ」。たそがれの薄明かりをすかして遠くの海の端に細い一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなって非常な早さで押し寄せてきた。

 「津波だ」とだれかが叫んだ。海水が絶壁のように迫ったと思うと、山がのしかかって来たような重さと百雷が一時に落ちたようなとどろきで陸にぶつかった。人々は村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海をみた。

 一同はしばらく声をなく、あと形もなくなった村をただあきれて見下ろしていた。稲むらの火が風にあおられてまた燃え上がり、初めて我にかえった村人は、この火によって救われたと気付くと無言のまま五兵衛の前にひぎまずいてしまった。

 —以上が「稲むらの火」の物語ですが、実はこの村は私のふるさと和歌山県由良町のお隣にあり、五兵衛さんのお墓と石碑がいまも残っています。秋田県合川南小の皆さんがこの教科書を習っていたら大地震のあと波打ち際で遊ぶようなことはしなかったろうと残念でなりません>

 五島さん、五兵衛の話、なつかしく読ませていただきました。話はかわりますが、私たちが戦前習った教科書は、秀吉の慶長の役を「侵略」と書かず「征伐」と教えていました。侵略と教えてくれていたら日本人の戦争に対する考えはずいぶん変わっていたと思います。五島さんの胸に五兵衛が生きつづけているように教科書で教わったことは大人になってもしっかりと人の心に根づいているのですね。だから教科書はちゃんとしたものでなければいけない、あらためてそう思いました。