01 12月

読売新聞 大阪版 昭和58年6月6日 「窓」 稲むらの火と津波の話

 昭和58年(1983年)5月26日の日本海中部地震津波後、読売新聞大阪本社へ読者五島隆春氏からの「稲むらの火」についての投書があり、6月6日と7日の同紙(大阪版)「窓」欄に紹介された。これによって、「稲むらの火」が再認識され、原作者が中井常蔵氏であることが知られる契機ともなった。

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稲むらの火と津波の話

 秋田県沖の大地震から十日。被災者へのお見舞いの手紙が何通も届いていますが、大阪市東住吉区の五鳥隆春さんからの手紙をお読み下さい。

 <今度の地震で特に、 遠足先の海岸でで亡くなった秋田県の十三人の小学生たちを思う時、私は今も涙が浮かびます。実は 私も昭和二十一年、ふるさと和歌山の海岸町で南海大地震を経験したのです。その時、私はまず津波を予想して山へ逃げました。小学校で五兵衛の話を学んでいたからです>

 いや五島さん、なつかしいですね。「稲むらの火」ですね。庄屋の五兵衛ですね。私も小学校で習いました。実は秋田沖地震の時。揺れによる被害がひと通りおさまった あとに津波の犠牲者がどんどん増えてきて、夕刊の締め切りを気にしながら、「五兵衛はおらんかったんか、五兵衛は・・・」とつぶやいていたんです。

 五兵衛の話は昔の小学五年の国語の教科書にあったのですが、うれしいことに五島さんがその全文を書いてきて下さいました。要約してみました。

『稲むらの火』  <「これはただ事では ない」と五兵衛はつぶやいた。いまの地震の長いゆっくりした揺れ方とうなるような地鳴りとは、老いに五兵衛には経験したことのない無気味なものであった。高台にある家の庭から見おろすと、祭りの仕度に心をとられている村びとたちは地震には一向に気づいていないようすだ。村から海に移した五兵衛の目は、そこに吸いつけられてしまった。波が沖へ沖へと動いて海岸には広い砂原や黒い岩底が現れている。  

 大変だ。津波が来る。このままでは四百の命が村もろとも一飲みだ。家に駆け込んだ五兵衛は大きな松明(たいまつ)を持って飛び出して来に。そこには採り入れたばかりの稲束がたくさん積んである。「もったいないがこれで村中の命が救えるのだ」。五兵衛はいきなりその稲むらに火を移した。 一つ、また一つ・・・火は みるみる天をこがし、山寺が早鐘をつき出した。

 「火事だ。庄屋さんの家だ」。 村の若い者が山手ヘ駆け出した。続いて老人も女も子供も。高台から見下ろす五兵衛には、それが蟻の歩みのようにもどかしく思われた…>

 五兵衝とこの村びとたちがどうなったか、つづきはあすに。