01 12月

読売新聞 大阪朝刊 平成14年3月3日 「自由席」 語り継げ「稲むらの火」

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自由席 防災教育 語り継げ「稲むらの火」 論説委員 梶原誠一

 飛鳥時代まで、宮廷や豪族の系譜、手柄話を語って伝えることを職業とする「語り部」と呼ばれる人々がいた。並外れた記憶力から出てくる昔話に人々は驚き、尊敬の念を抱いたという。
 阪神大震災の教訓を後世に残そうと、兵庫県が四月末、神戸市内にオープンさせる「人と防災未来センター」でも、被災者が語り部として登場し、あの時を話し聞かせてくれることになった。

 情報が溢(あふ)れる時代ながら、人の命と財産を守れるものがどれほどあるだろうか。

 逆に惰報がほとんどなくても、年月を超えて人から人へ伝え継がれた避難の心得が忠実に守られ人々を救うこともある。江戸末期の一八五四年(安政元年)の秋。和歌山県有田川河口に近い広村(現広川町)の庄屋浜口梧陵(本名儀兵衛)は潮が沖へ異常に引くのに気づき、異変(安政南海地震)を予感した。

 梧陵は丘の上に所有する田んぼへ急ぎ、積んであった大量の稲わらに次々と火を放った。猛炎と煙を見た村人全員が、何事かと丘に集まった直後、数メートルに達する津波が村を襲い、家屋と田畑はすべて巨大な波にさらわれた。

 村人は庄屋が放った機転の火によって命を救われ、梧陵を神様のように尊敬したのである。

 広村では「約百年に一度は津波がくる」との言い伝えが、この地に生きる者の大切な心構えとして、代々語り継がれてきた。

 その前の震災は実に百四十七年前の一七〇七年(宝永四年)で、この時は伊豆から九州までの海岸で二万人の犠牲者が出た。

 梧陵にも古老や祖父母にも津波体験はなかった。でも、いつか来るかも知れない。その時何をすべきか。そんなイメージトレーニングを怠らなかったから、称賛される行動ができたのではないか。

 次の津波に備え、彼は私財を投じて堤防を築いた。この堤防は一九四六年の南海地麗の津波をくい止め、またも村民を守ったのだ。
安政地震から四十年後、神戸で新聞記者をしていたラフカディ才・ハーン(小泉八雲)がこの美談を知り感動した。日本人は公共の使命感に優れ、生きながら神として崇(あが)められるとの内容の小説「生神様」を英文で発表した。

 さらに四十年後、和歌山の教師・中井常蔵はこの物語は子供たちにこそ聞かせたいと、ハーンの小説を「稲むらの火」としてまとめ一九三七年(昭和十二年)から小学国語読本に採用された。

 戦後、GHQによって教科書の大半は黒く塗りつぶされたが、この物語が消されることはなかったのに、いつの間にか忘れられた。

 今年一月、消防庁主催の地震防災シンポジウムが東京で開かれ、地震学者らから「稲むらの火」のような防災教育をするべきだとの意見が相次いだ。
広川町出身で元気象庁地震火山部長の津村建四朗さんは「稲むらの火こそ不朽の防災教材。地震は避けられないが、震災は人の努力で軽減できる」と力説する。

 地震国日本の国民が浜口梧陵を忘れては恥ずかしい。神戸に復活する語り部が、この五十数年の空白を埋めてくれることを願う。