30 11月

紀伊民報 平成16年1月1日 第13面  「もう一人の恩人 今村明恒博士」

平成16年1月1日 第13面

平成16年1月1日 第13面 
「特集 南海地震がやってくる」

もう一人の恩人 今村明恒博士
関東大震災や南海地震を予告
私財投げ打ち県内に観測網


 和歌山の地震津波を考えるとき、県民の多くは、安政地震の際、稲を燃やして津波から村人を救った広川町出身の浜口梧陵を思い起こすに違いない。しかし、実はもう一人、関東大震災と南海道大地震を予告し、その前兆をとらえようと、自費で紀伊半島を中心に観測網を設けた研究者がいた。東大教授だった故・今村明恒博士である。博士は浜口の偉業を描いた「稲むらの火」の教科書掲載の立役者であることもわかってきた。

 今村は、観測や測量で地震を予測した日本で最初の地震博士だ。初めて注目を浴びたのは関東大震災(1923年、M7.9)の予知。東京大学助教授だった1906年(明治39年)1月16日付の「東京二六新聞」に載った論文「大地震襲来説」で、「50年以内に相模沖を震源とする大地震の発生がある。火災で10~20万人の犠牲を出す危険性もある」と書いた。
 18年後に現実のものとなったが、発表直後は、「浮説」「ホラ吹き」などと批判された。死者14万人、震源は相模トラフ、マグニチュード7.9、関東大震災はほぼ、博士の予告通りだった。以来「地震の神様」としていわれるようになった。
 その後、博士は過去の地震津波の歴史の研究にも手を染め、白鳳時代から、江戸時代の地震の記録を洗い出した。その結果、関東で大地震が発生した後、連鎖反応のように関西でも大地震が発生していることを突き止めた。
 関東の大地震は百数十年の周期、南海道沖地震は100~200年の周期で1回発生していた。このころから、大地震は繰り返すという循環論を唱えるようになった。
 関東大地震直後から、太平洋側の大地震が反復して起こった歴史と地形変動の研究によって、次の大地震は南海道沖であると予測。折しも1925年に兵庫県但馬地方、1927年に京都府丹後地方で相次いで大地震が発生していた。
 今村は関西での大地震の前兆をとらえるため、紀伊半島を中心に観測網をひく大事業に取りかかった。
 政府に地震研究所の設置を働きかけたが、昭和初頭は大不況の時代。政府予算がとれず、断られた。帝国大学の研究費と陸軍省陸地測量部(現国土地理院)への助力を求めて寄付を募る一方、自宅を除く私財を観測体制の整備に注ぎ込んだ。1000円で家が買える時代に、投入した私財は10数万円にのぼった。
 1928年、紀伊半島や四国の地殻活動を観測する目的で、和歌浦と田辺、徳島県の富岡、高知県の室戸などに地震計や傾斜計、検潮儀を設置。和歌浦には「南海地動研究所」の事務所を開設した。東大地震研で技術を学んだ二男・久を同研究所の主任に置いた。
 当時は地球がどうして出来たか分からなかった時代だが、地殻の上下運動を重視した測量から、紀伊半島の南側が沈む傾向にあること、潮岬と室戸岬が傾く特異な地盤沈下であることなどがわかってきた。
 しかし、1931年の満州事変以後、研究は困難になり、太平洋戦時中は、観測網が軍の弾薬庫として接収され観測できなくなった。久は1943年まで観測を続けた。
 その後、1944年に愛知や静岡を襲った東南海地震(M7.9)、1945年に三河地震(M6.8)などの大地震が発生。博士はいよいよ南海道沖に大地震が発生する前兆だととらえ、高知、徳島などの地方新聞や関係町村に、「遠くない将来、津波を伴う大地震が発生する可能性がある」と手紙で訴え続けた。
 この結果、昭和21(1946)年12月21日の地震当日の朝、高知県の元・室戸町長宅に大地震を警告する手紙が送られていたことが新聞で話題になったこともあった。地震当日の8日前に投かんされていた。ここでも予知は的中していたのだ。
 博士は、地盤傾動を調べると地震は予知できる、という考えの持ち主だった。

紀伊民報 平成16年1月1日 

紀伊民報 平成16年1月1日 今村明恒博士 

「稲むらの火」の教科書掲載を推薦  その教え方まで執筆

 「稲むらの火」を国定国語教科書へ掲載されるように強力に働きかけたのも今村博士だった。かねてから、地震国である日本で、児童教育に地震や津波の防災教材がないことを憂い、小学校の教科書に地震や津波に関する知識を取り入れるよう提唱したのである。
 その思いは、1940年「『稲むらの火』の教え方について」という教員手引書を書き、震災予防評議会発行の小冊子として全国の小学校に配布したことでもわかる。
 そこで博士は、物語と実話を比べ、史実をもとに物語を解説。広村における安政大地震と津波の状況、梧陵の行動などを照らし合わせ、「教え方のいかんによっては児童をして終生忘れ難い感銘を覚えしめることも不可能ではあるまい」と記している。
 しかし「昭和の南海道大地震津波につき広村の人々に寄す」(1947年書簡)では、「浜口梧陵心づくしの防波堤も、2カ所の切り通しで実効が薄らいだ、せめて鉄扉の働きだけでも有効にしたいと考え、村役場に突如乱入して、付け替えを勧め、また、耐久中学校が危険な位置にあることから、注意を促した」とある。1946年の津波で、広村からは22人の死者が出ている。
 博士は、自身が書いた「稲むらの火の教え方に就いて」が災害予防に関心のある人に読まれていたら「波災は大いに軽減されたであろう」とし、「余は年々の梧陵祭が形式に堕することのないよう希望してやまない」と後年述べている。

*紀伊民報の承認を得て、一部を転載しております。

編集後記
今年は、昭和南海地震から70年となる。南海トラフ地震の予知に努力された前述の今村明恒博士に関して、故山下文男氏が書かれた「君子未然に防ぐ ~地震予知の先駆者今村明恒の生涯~」(東北大学出版会)から言葉を拾ってみたい。

 「君子未然に防ぐ」(君子防未然)。今村明恒博士の防災哲学とされる。「地震の多くは、元をただすと人間の地震に対する無知、無理解による行為がまねく災いであり、人間が地震の正体をよく知って、物質文化の建造などでも無謀なことを戒め、いざという時も、適切、機敏に対処していれば、軽減ないし防ぎ止めることが不可能でない。」ことを信じて疑わなかった人物でもある。(適切、機敏に対処ということでは、梧陵さんの活躍を我々も参考にできるのではと思う。)生涯、地震災害から国民をも守るための活動に、身も心も、そして私財までも傾け尽くした(南海地動観測網の建設など)国民的な地震学者とも言われる。

「百年後に知己を求むだ。」百年、百五十年に一度の地震予知に失敗した博士がお孫さんに伝えた言葉である。戦争によって研究が中断せざるを得なかったことなどへの悔恨の音葉でもある。南海大地震を知った当日の記事にも、「ああ十八年の苦心水の泡となった」と憮然として長嘆息されたと博士の様子が伝えられている。

「今村明恒氏(理博、学士院会員)一日朝五時半、急性気管支炎のため世田谷区成城町の自宅で死去。七十九歳。告別式は四日午前十一時から自宅で挙行」

1948(昭和23)年元旦の早朝、今村博士は静かに息を引き取った。その博士の診断をされていたのが天皇の侍医長であった三浦謹之助博士。(関東大震災の予言と論争問題で対立した大森房吉博士の最後を看取ったのも三浦謹之助博士であったようだ。三浦謹之助博士といえば、梧陵さんが銚子時代から親交のあった三宅艮斎の子息三宅秀の娘教の婿である。不思議なことは重なるものである。