27 1月

紀伊民報 平成15年1月1日 11面 「広村は今」

紀伊民報 平成15年1月1日 第11面

紀伊民報 平成15年1月1日 第11面

《見出し》
ル ポ
「広村」は今

平成の広川町を訪ねて
梧陵の精神どう受け継ぐか


《前文》
 浜口梧陵が私利、私欲を顧みず村人を救った「広村」は今、梧陵の精神をどのように受け継ごうとしているのだろうか。安政の地震(1854年)から約150年、有田郡広川町を訪ねた。

《本文》

町を守る
ゲート

 田辺市から、北に車で1時間半走ったところに広川町はある。有田郡の最も南側に位置し、人口は約8300人。紀伊水道に面し、県内の他の沿岸地と同じく、地震による津波の被害を繰り返し受けてきた。
 梧陵の造った「広村堤防」は、海岸にはなかった。浜辺は埋め立てられ、そこに広川町役場があった。平成9年に造成が終わり、新築、移転したばかりだという。近くには約40戸の真新しい住宅が建ち並ぶ。広さ約8万7000平方メートルの埋め立て地は、3方を高さ7~7・5メートル、延長1キロほどの防潮堤で囲まれ、その中を横切る町道には、緊急時に道路を遮断する分厚い鉄のゲートがあった。ゲートはこのほかにも3カ所。異様な光景である。

緊急時不安
残る水門

 「地震が発生すると、すぐに町職員がゲートを閉める。町の災害復旧を考えると、庁舎を死守しなければならない」と町防災担当者。役場職員は緊急時も山側に避難せず、庁舎内にとどまる計画だ。2カ所ある河川の水門閉鎖も職員の任務だという。 「でも気がかりなことはある」と担当者はいう。県が出した南海地震(M8・4)の津波シミュレーションでは、地震発生後、広川町に第1波が到達するのは約40分後。地震が起きてから5~10分で警報が出たとして、津波来襲まで、わずか30分ほどしかない。
 その間に閉門はできるのか。担当者の安全は大丈夫なのか。
 夜間も含め、10分以内に現場に職員が参集できる態勢をとり、年1回閉門訓練もしている、という。ゲートは手動のハンドルで数分以内に閉めることができるが、水門はそうはいかない。特に自家発電がない「養源寺堀」は、訓練では通常速度で現場到着から閉門まで37分かかった。「災害時には、緊急降下の方法をとるため訓練よりは早く閉めることができるはず」という。しかし、緊急降下訓練をすると、そのあと水門が上がらなくなってしまう心配もあり、訓練で下げたことはない。
 なぜ危険を伴う場所を埋め立て、そこに役場を移転したのだろう。
 同町の白倉充助役は「同じ湯浅広港で北隣の湯浅町が先に埋め立てた。津波をうちに集中させないためには、海側に出ざるを得なくなった」と説明する。ラッパ型の湾では、水際線を湯浅町と同じ位置まで出さないと、津波被害を一方的に受けてしまう、というわけだ。
 湯浅町が埋め立て地を建設したのは昭和40~50年代。本来なら広川町も同じ時期に埋め立てる予定だったが、財政難で昭和54年度から11年間、民間企業の倒産にあたる「財政再建団体」に陥った。脱出直後の平成2年度にようやく埋め立て事業に着手できたという。

陸・沖二重の
津波対策

 埋め立て地にそびえ立つ防潮堤に上り海を望むと、1キロほど沖に、工事中の巨大な重機が見える。県が高潮対策の堤防を湾内に建設しているのだ。その長さは、広川町前が400メートル、湯浅町前が450メートル、高さは基準水面から5メートル。その形から一文字堤防と呼ばれている。
 埋め立ては町営事業だが、防潮堤と一文字堤防はともに県営事業。平成10年度から調査に入り、13年度に着工、現在は海中の軟弱地を掘削し、土砂の入れ替え中だ。完成見込みは平成22~23年、総工費はざっと数十億円にのぼりそう、という。
 埋め立て地を取り囲む陸の防潮堤と、沖の堤防。埋め立て地を守るため、二重の歯止めで少しでも津波対策をしたいというわけだ。
 だが、ダブル堤でも完全に津波をシャットアウトするのは難しいというのが、有田振興局建設部の見方だ。というのも、これらの工事はあくまでも昭和南海地震と同規模を想定しているからだ。しかし、国の地震調査委員会が、30年後40%、50年後80%の可能性でやってくると予測する津波の大きさは、これよりずっと大きい「安政並み」である。
 「それでも」と担当者は言う。「地震の力は予測できないが、津波が離岸堤にぶち当たることによって、少なくとも速度を弱めることができる。一文字堤防と堤防護岸の合わせ技で防ぐしかない」。

語り継がれる
「梧陵」と「津波」

 広川の町を歩くと、あちこちで「浜口梧陵」に出会う。町役場前は「稲むらの火」広場とされ、村人を救おうと私財の稲むらに火を放つ梧陵の銅像が建つ。梧陵が創設した耐久社を継ぐ、耐久中学校の校庭にも梧陵の銅像がそびえる。役場前の堤防の側壁には、梧陵の火に向かい、津波から逃げる村人の様子がイラストで描かれている。
 再び「広村堤防」に立ち寄った。その中央にある「感恩碑」前で昨年11月3日、梧陵の遺徳をしのぶ100回目の「津波まつり」が開かれたばかり。大人に交じって地元小中学生が土を盛り、堤防を補強する儀式は、梧陵への感謝とともに、津波の怖さを伝え続けるため、これまで欠かされたことはない。
 堤防上に松並木が続く。梧陵が生きていれば、今の広川町をどうみるだろう。
早川美穂記者

《絵解き》
【埋め立て後の広川町。今、「広村堤防」は海岸から数100メートルの内陸部に位置する(県土木部港湾空港振興局発行の「和歌山の港湾」より)】
【湯浅町の埋立地から見た広川町の埋め立て地。周囲を高い防潮堤が囲む。左端は広川町役場 】
【国指定史跡「広村堤防」のゲート。非常時には手動で閉められる。左奥に見えるのは、埋め立て地を囲む防潮堤(広川町で) 】
【埋め立て前の広川町。水際には砂浜が見え、「広村堤防」はそのすぐそばに延びている。(広川町提供)】
【△津波まつりで、広村堤防に持参した土を盛る子どもたち(昨年11月3日、広川町で)】

−編集後記−
記事の掲載から、10数年経った今、当時の記者が見たり、感じたことなどと広川町の現状を比較してみたい。現在の広川町の人口は、7400人ほどと全国の地方の町と同じく減少傾向にあります。先ず、行政側の考え方が、東日本大震災を経験したことで大きく変わっていることはご理解頂けるかと思う。水門の閉鎖は、リモートコントロールできるようになっているとは聞いているが、その開閉の訓練などは大震災後も行われていないのだろうか。(停電が発生した場合は、以前と同じだと思うが。)また、本文中で言及されている県の広川町、湯浅町における高潮対策として計画されていた一文字堤防は、平成23年10月26日に完成しました。事業費は、最終的には約48億円にものぼっています。県の資料によれば、昭和南海地震クラス(M8.0)の津波が来襲した場合の浸水想定エリアがほぼ無くなる。東海、東南海、南海地震が同時発生(M8.6)した場合、現在<広川町での行政報告として資料入手時>想定されている津波による浸水エリアが3割程減少する等の効果を見込んでいるとされる。また、「津波まつり」は今も続けられているが、「11月3日」ではなく、昨年国連でも「世界津波の日」として制定された「11月5日」に開催されている。当時の記者が感じたように、梧陵さんが行きていれば、今の広川町をどう見るのだろうか。(強靭化計画などが広川町のHPでは公開されているようだが、どれほどの町民がその存在を知っているのだろう。安政津波当時の広村には村人全員が共有していた村の掟とも云われるものあったと思うが。)