26 1月

紀伊民報 平成15年1月1日 10面

紀伊民報 平成15年1月1日 10面

紀伊民報 平成15年1月1日 10面

《本文》
文部省
小學國語讀本尋常科用 巻十

稻むらの火

 「これは、たゞ事でない。」
とつぶやきながら、五兵衛は家から出て來た。今の地震は、別に烈しいといふ程のものではなかつた。しかし、長いゆつたりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで經驗したことのない無氣味なものであつた。
 五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下した。村では、豐年を祝ふよひ祭の支度に心を取られて、さつきの地震には一向氣がつかないもののやうである。
 村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸附けられてしまつた。風とは反對に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、廣い砂原や黒い岩底が現れて來た。
 「大変だ。津波がやつて來るに違ひない。」と、五兵衛は思つた。此のまゝにしておいたら、四百の命が、村もろ共一のみにやられてしまふ。もう一刻も猶豫は出來ない。
 「よし。」
と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明を持つて飛出して來た。そこには、取入れるばかりになつてゐるたくさんの稻束が積んである。
 「もつたいないが、これで村中の命が救へるのだ。」
と、五兵衛は、いきなり其の稻むらの一つに火を移した。風にあふられて、火の手がぱつと上がつた。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。かうして、自分の田のすべての稻むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したやうに、彼はそこに突立つたまゝ、沖の方を眺めていた。
 日はすでに沒して、あたりがだんだん薄暗くなつて來た。稻むらの火は天をこがした。山寺では、此の火を見て早鐘をつき出した。
 「火事だ。荘屋さんの家だ。」と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。續いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追ふやうにかけ出した。
 高臺から見下してゐる五兵衛の目には、それが蟻の歩みのやうに、もどかしく思はれた。やつと二十人程度の若者が、かけ上がつて來た。彼等は、すぐ火を消しにかゝらうとする。五兵衛は大聲に言つた。
 「うつちやつておけ。―大変だ。村中の人に來てもらふんだ。」
 村中の人は、追々集って來た。五兵衛は、後から後から上つて來る老幼男女を一人々々數へた。集つて來た人々は、もえてゐる稻むらと五兵衛の顔とを代る代る見くらべた。
 其の時、五兵衛は力一ぱいの聲で叫んだ。
 「見ろ。やつて來たぞ。」
 たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。其の線は見る見る太くなつた。廣くなつた。非常な速さで押寄せて來た。
 「津波だ。」
と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のやうに目の前に迫つたと思ふと、山がのしかゝつて來たやうな重さと、百雷の一時に落ちたやうなとゞろきとを以て、陸にぶつかつた。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のやうに山手へ突進して來た水煙の外は、一時何物も見えなかつた。
 人々は、自分等の村の上を荒狂つて通る白い恐しい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。
 高臺では、しばらく何の話し聲もなかつた。一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなつた村を、たゞあきれて見下してゐた。
 稻むらの火は、風にあふられて又もえ上り、夕やみに包まれたあたりを明るくした。始めて我にかへつた村人は、此の火によつて救われたのだと氣がつくと、無言のまゝ五兵衛の前にひざまづいてしまつた。(原文のまま)

「稻むらの火」概要

 安政元(1854)年に発生した南海地震(M8・4)のさい、有田郡広川町の浜口梧陵(教科書では五兵衛)が、海水が急激に沖の方に引くのを見て、大津波の前兆と察知。丘の上にあった自分の稲を火で燃やし、祭りに興じていた村人を津波から救った実話。

南部小教員時代に執筆
公募で教科書採用

中井 常蔵

 「自らの死後、教科書への再掲載を」という中井常蔵の遺言は、中井が昭和62年に国から防災功労賞を受けた席上で述べたものだった。梧陵の遺徳を後世に伝えたい一心だったからだ。
 中井が国定国語教科書『稲むらの火』を書いたのは、南部小学校教員だった昭和9年。文部省が全国小学校教員から新しい国語と修身の教材を公募した時だった。「創校の恩師への小さい答辞に替え得ればと希う心一杯で『稲むらの火』を書き上げました」と、昭和59年、防災功労賞受彰を記念して出版した「特集 稲むらの火」の中で、執筆の思い出を語っている。中井の梧陵に対する尊敬の強さがうかがえる。
 中井は『稲むらの火』の舞台となった広川町に隣接する湯浅町の出身。梧陵が創設した耐久中学や広村堤防、防潮林を見て通学した。「梧陵の愛に包まれて育った。ふるさとを愛する梧陵みたいに自分も愛する気持ちを持っていたい」と生前、二男の中井良行さん(59)=南部町=に語っていたという。
 『稲むらの火』の原作は、親日作家で知られたギリシャ出身のラフカディオ・ハーンが明治29(1896)年に発表した「仏土の落穂」のうちの一編「ア・リビングゴッド」(生ける神)。フランスでは英語教科書として使われた。中井も学生時代に英語で読み「誰よりも強い感動に衝かれた」と「特集 稲むらの火」で記している。

今も残る浜口梧陵の遺徳

 国定国語教科書の『稲むらの火』は、主人公・浜口梧陵(教科書では五兵衛。梧陵は号)の前で、村人が感謝の気持ちを込めてひざまずく場面で終わる。しかし、梧陵の偉大さはむしろ、その後にとった行動にあると言える。
 梧陵の出身地の広川町で梧陵の案内人として活躍している清水勲・広川町民会館長(73)は、「津波のさい、村人を救っただけでなく、その後の災害復旧や教育など、さまざまな面で梧陵の功績は大きい。現在でも地元では、多くの人が彼を崇拝している」と語る。
 教科書では、老人と表現されているが、梧陵は当時35歳。安政南海地震と津波による広村の人的被害は死者36人に達した。広川町史には「暗闇の中、逃げ場に迷う9人の命が、稲むらの火で救われた」と記録されている。家屋被害は、流失125戸、全壊10戸、半壊46戸、浸水破損158戸とされ、被害を受けなかった家は一戸もなかった。
 被災後、梧陵は災害復旧にも乗り出す。家を失った被災者のため、家屋50戸を新築し、貧しい人には無料で貸した。農漁業者には農具や漁船を安く貸し与えた。
 その上で、翌年から取りかかったのが、その後の津波から守ることになる「広村堤防」である。同時に、それは失職した人々に職を与える「失業救済」のためでもあった。人口1323人のうち、堤防工事には毎日400~500人の村人が従事し、給与がその日のうちに与えられた。その数は4年間で延べ5万6000人。投じた資金は総額4665両。現代に換算すれば、約3億5000万円と言われる。延長600メートル余り、高さ5メートル。着工から4年をかけた大事業であった。
 村民は生きている梧陵を神にみたて、神社を建てようとしたが、梧陵に固辞される。清水館長は、そうした梧陵を尊敬する気持ちは今でも多くの町民の間で残っており、子供たちにも伝えたいという。

浜口梧陵 

 文政3(1820)年広村(現有田郡広川町)生まれ。12歳で家業のしょう油醸造業を継いだ。江戸と銚子、広村を行き来し、家業を発展させるかたわら、蘭学者の佐久間象山、勝海舟らから西洋事情などを学んだ。晩年は中央と和歌山の政界で活躍。明治4(1871)年政府の駅逓頭(郵政大臣)、明治13(1880)年和歌山県初代県会議長に就任した。明治18(1885)年、若い時から熱望していたアメリカ行きを果たしたが、途中、客死した。

中井智一記者
《絵解き》
【△教科書「稲むらの火」のプレート。左奥は津波を知らせるため稲むらに火を放つ浜口梧陵像(広川町役場前の広場で) 】
【中井常蔵と孫の中井智一記者(昭和48年撮影)=南部町南道の自宅で】
【広川町耐久中学校にある浜口梧陵の銅像(広川町で)】