18 11月

時事新報 明治29年6月19日付 「海嘯被害続報」など

旧サイト、当時運営管理をされていた嘉納毅人氏が時事新報の明治29年6月19日付記事に関する投稿を転載します。

明治29年6月19日の大阪毎日新聞の以下の記事を見て小泉八雲が”A Living God”を書いたと推定していましたが、

海嘯襲来の種類  古来海嘯の打寄せたる模様を考えるに、或は最初先ず大いに退汐したる後大潮の押し寄せ来ることあり或は一時に漫々たる潮水の空を覆いて来ることあり又或は来り或は去り一進一退遂に其の高さ山の如き海潮の寄せ来ることあり。安政年度八戸の大海嘯は最初甚だしく退汐して、沖の魚属など砂原に残されたるをば珍しがり、漁夫が挙って潮干狩りに押し出したる途端山の如き怒涛盛返し来って遂に市街過半を持去りしと。又紀州に起こりし海嘯は一進一退漸次に増水したるものにして、当時有田郡の住民は夜中の事ゆえ逃道に迷いたるを、土地の豪農濱口儀兵衛氏は早くも氣轉を利かして後ろの山に積みありし稲村に火を附けさせたれば、全村之を目当に駈け出して生命を助かりたりとぞ但し今回の海嘯は如何なる模様にて寄せ来りしか、未だ之を知ることを得ず

同日の「時事新報」(明治29年6月19日)にも下記のような記述があることがわかりました。(赤線部)

海嘯は如何にして来りしか 古来海嘯の打寄せたる模様を聞くに其情況種々にして或は最初先ず大に退汐したる後大波の押寄せ来るものあり又一時に漫々たる水、空を覆ふて来るもあり其他は一度来りて一度去り一進一退徐々に来りて遂に其高さ山に達するの大波寄せ来る事もあり安政年度八戸の大海嘯は最初甚だしく退汐して沖の魚属など砂原に残されたるをば珍しがり漁夫が挙て潮干狩りに押し出したる途端山の如き怒涛盛返し来て遂に市街過半を持去りしと又紀州に起りし海嘯は一進一退随次に増水したるものにして当時有田郡の住民は夜中の事ゆえ逃道に迷ひたるを土地の豪農濱口儀兵衛氏は早やくも機転を利かして後ろの山に積みありし稲村に火を付けさせたれば全村此を目的に駆け出して生命を助かりたりとぞ濱口氏は此が為め生命ある内より神と祭られ濱口大明神と崇敬されしといふ然しながら今回の海嘯は如何なる模様にて寄せ来りしか未だ其報告に接せず。

両方の記事を比較すると、ほぼ同じ文章ですが大阪毎日新聞の記事からは「濱口氏は此が為め生命ある内より神と祭られ濱口大明神と崇敬されしといふ然しながら」が抜けています。小泉八雲の「生神」には濱口大明神という記述がされていますので、「時事新報」を読んで書いたと思われます。大阪毎日新聞は、同じ関西の新聞社なので濱口梧陵が神社建設を断った事を知っていたので削除して掲載したのではないかと思われる。大阪毎日新聞は、福沢諭吉(濱口のNYへの渡航に随行の通訳を弟子に命じるなど、濱口儀兵衛を熟知していた)の門下生が多く在籍しており、時事新報出身者も多く移籍していたとの事。当時、高木喜一郎という人物が大阪毎日新聞の社長で、この人も元々時事新報にいた人ですから、記事の転用提携があっても不思議がないのですが、それでもFAXの無い時代に東西で同じ文章が書かれる事で、むしろレポーターが大阪毎日と時事新報の両方に時差をもって同じ原稿を郵送したとも考えられます。ちなみに神戸でも時事新報を読む事が出来たと慶応義塾の教授からもお聞きした話です。

以上、嘉納毅人氏が投稿された内容です。(一部、編集させて頂きました。)

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時事新報 明治29年6月19日付

 編集後記
「時事新報」による上記の記事が、小泉八雲が「生神」を書くきっかけになったという考察の詳細に関しては、拙論の「稲むらの火の由来記」前編をご参照頂ければと思います。あまり、一般の読者もご存知ないことですが、「生神」では明治三陸大津波の発生した日を八雲が「6月17日」(実際の日付は、「6月15日」)と勘違いしています。これも、上記「時事新報」が津波被害を「6月17日」付の報告としていたことが想像できます。