15 11月

大阪朝日新聞  昭和21年12月23日付 「昭和南海地震津波」続報

今年で、「昭和南海地震」から70年。これから(地震があった12月21日が近づくにつれて)、メディアでも取りあげられるようになるかと思いますが、既に投稿している広川町の被害などが掲載された新聞記事以外にも、当時の和歌山県或いはその周辺の被災状況を理解して頂ける参考にということで、その続報を掲載させて頂きます。

EPSON MFP image

大阪朝日新聞 昭和21年12月23日付 林耕二氏所蔵

 「さながら地上の終わり」 ー徳島県牟岐町ー
さながら地上の終わりと思われたと、当時の様子を伝えるのは徳島県下でも被害が多かったとされる牟岐町の民家の二階にいた大立記者。先日(11月8日)、朝日新聞和歌山版の朝刊にも、あの日の出来事を子供たちに伝える徳島県の女性の記事が掲載された。この女性も、昭和南海地震を伝えた記者と同じ牟岐町で被災されたという。押し寄せる潮で歩けなくなったので、無我夢中で浮いていた小舟に飛び乗ったという。暗闇の中、「流れてくる家に押し潰されて死ぬんやろな」と思いながら、震えながら舟底にしがみついていたと当時のことを振り返る。

徳島県(「徳島県自然災害誌」)によれば、昭和南海地震による被害は、死者202人、負傷者258人、流出家屋413棟、全壊602棟、床上浸水3440棟、流出船舶330隻。牟岐町の津波高は5メートルとされる。(当時は、津波による死者など死因別には被害を記録していないようだ。)

当時の記事で興味深いのは、梧陵伝にも描かれているように「雲が切れ切れとなった間から金色の光が出ており、まるで異類の者が飛行しているかのように思われた」(復刻版「濱口梧陵伝」の現代語訳から。尚、原文は「曇天風なく稍暖を覚え、日光朦朧として所謂花曇の空を呈すと雖も」)と梧陵さんが「安政元年海嘯の実況」で書き表したような閃光が見られたとも描かれている。「窓の右手の山が、少し赤みの強いサーチライトを受けたように光ってやみ空に浮いている、身もちぢかむ気味悪さだ、あとで聞いたのだが折から魚つりに沖に出ていた漁夫たちは、紀州の山々はみな青赤く燃えあがっていたという、恐ろしい力で土壌と土壌があいうち、木と木がはげしくまさつして発した熱の光だと推測される。」我々の想像を絶する実況とも言える。

新宮などで発生していた火災が、対岸の徳島では閃光として見えたのかもしれないが。

他の記事で筆者が注目するのは、室戸港が三尺五寸(約1メートル)浅くなり、内港へは100トン級の船さえ入らず、外港に辛うじて入れる状況だったようだ。高知などでは、数メートル沈下すると聞いていたが、場所によっては隆起することもこの記事から考えられるのではないだろうか。海洋からの救助のことも考えると、過去の事実からも学ぶことは多い。
EPSON MFP image

大阪朝日新聞 昭和21年12月23日付 林耕二氏所蔵

 紀州の遭難者十五万

当時の和歌山の人口は現在の人口とほぼ同じ(96万人ほど)のようだが、そのうちの15万人が地震によって遭難(被災)したようである。特に、御坊より南の沿岸部はほぼ全滅したと考えられていたようである。救援も海洋からのものが主だったよう(赤十字の救援なども)だが、その詳細はこの記事では分からない。

揺れを感じた地域に関しては、関東大震災よりも広範囲で感じられたようだ。

img_0479
震潮記

 震潮記
徳島の地震、津波の記録として紹介したいのは宍喰浦の田井家(元組頭庄屋田井久左衛門宣辰)に伝わる古文書をまとめた「震潮記」。田井晴代さんからお送り頂いたもので、その中に記されている当時の人々の津波の到来を知る工夫に感心した。これも火を使った知恵であるが、波打ち際に沿って焚き火をすることで波が近づいていることを知ったという。暗闇の中で、どのようにして行動するか現代人は考えたことはあるのだろうか。常に、何らかの灯りがあるという前提で避難訓練なども行なわれているように思えてならない。