12 12月

南海道沖大地震の謎 「地震」(昭和8年10月)

南海道沖大地震の謎

帝国学士院会員理学博士 今村明恒

地震 第1輯 第5巻 第10号 (昭和8年10月)

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はしがき

予は此文章を特に我が国の為政家へ捧げたい希望を以て認めた。此は其内容が半ば学術的の記事たるに拘らず、其目的が過ぐる関東大震災の二の舞を演ずることなき様考慮して貰ひたいといふ点にあるからである。

想ひ起す、明治三十八、九年の交、予は一文を草して之を雑誌太陽に載せて貰ひ、又其要項を拙著地震学にも収録したのであつた。それは関東地方に於ける地震活動の経過を叙述し且つ大地震の時に発生すべき火災に対して、我が国の大都市特に東京が其消防能力絶無に近き所以を指摘し、若し此点につき改良を加へなかつたなら、他日大地震の襲来を被りたるとき、帝都は丸焼けとなり、十万の死者を生ずる虞あることを論じたのであつた。良薬は口に苦く、甘言は俚耳に入り易い、予が警告は却て世の反感を買ひ、曲学阿世の徒が更に之に煽りをかけたので、折角挙げた烽火も忽ち足下に蹂躙されて仕舞つた。当時予が蒙つた迫害侮辱、それは一私事に過ぎないから、こゝに物すべき性質のものでもあるまい。

其の後十七年、大正十二年九月一日、遂に来るべきものが来た。

然るに健忘なる市民諸君は言ふ。斯様な大事件の勃発を察知し得なかつたのなら地震学者は無能である。之を知り乍ら黙して居たのなら怠慢であると。然り、実に予は市民諸君の前には無能か怠慢かの一員に過ぎなかつたのである。

右は過去の追憶であるが、今予が、此の一文を草するに当つて此記憶がありありと予が脳裡に蘇つて来るのである。其の一文は失敗に終つた。此一文には同じ運命を辿らせたくない、是れ予が真剣な希望である。

南海道沖の大地震

南海道沖に於ては地震津浪の発生が古くから知られて居るが、最近六百年の間には次の日附の通り五回の大地震津浪が繰返された。即ち

(一)   正平十六年六月二十四日(西紀一三六一年八月三日)

(二)   明応七年八月二十五日(西紀一四九八年九月二十日)

(三)   慶長九年十二月十六日(西紀一六〇五年二月三日)

(四)   宝永四年十月四日(西紀一七〇七年十月二十八日)

(五)   安政元年十一月五日(西紀一八五四年十二月二十四日)

以上の地震は非局部性大地震と名づくべきものであつて其規模何れも大きく、特に津浪に由る損害は直接に地震に由るものよりも却て大きいことが寧ろ一般であつた。

後の二地震に於ては、其年代比較的に新らしい為め被害の状況が稍稍詳細に分つて居る。即ち宝永の場合に於ては潰家を起した国々が畿内、南海道は固より、駿河甲斐信濃から美濃近江丹波播磨九州の東部に至る二十六箇国に及び、津浪は伊豆の下田から薩摩の南に至る太平洋沿岸を襲ひ、伊勢湾大阪湾豊後海峡にも侵入して莫大な損害を与へた。試みに大阪に於ける被害を挙げて見るならば、地震の直接の損害として潰家千六十一軒、死人七百三十四人、津浪に由る損害として流亡の家数六百三軒橋数五十、船舶大小千三百余艘水死人七千余人と記してある。又安政元年の場合は其規模宝永度よりも少しく小さいが、被害の分布は能く似て居る。但し特に注意すべきは此地震が前日朝東海道沖に起つた大地震津浪に引続いて起つたが為め、警戒を加へて居た地方も多く、又宝永度の地震津浪に懲りて逸早く海岸を見捨てて丘陵地に避難した者もあつたが為め、人命の損失は比較的に軽かつた。之に反し、大阪に於ては大衆が屋外に野営しつゝあつたに拘らず。有産階級が多く川筋の船舶に避難して居た為め、此地震津浪の災厄を被り水死人を生じた。当時の記録を見ると、安治川口、木津川口から侵入した津浪は、蒲鉾なりに中高く、一丈余の水嵩となつて矢の如く疾走し来り、上には大小の船舶を載せて途々の橋梁を残らず破壊し、漸く東横堀で停止したといふ。川筋から外れた舟が河岸の倉庫土蔵を突抜けたなどの奇観は今猶ほ語り伝へられて居る。

右の外、南海道一面には火災を惹起した。一々之を列挙する遑はないが、徳島高知の大都会を始めとして、田辺、中村、宿毛等の小都会が丸焼け乃至三分一焼けになつたことは特記せざるを得ない。

之を要するに、南海道沖の大地震は其震原遥かの沖合にあるからとて、サラリと南の海に流して仕舞ふ訳に行かない、実に彼等は五畿七道に亘り旧日本の半ばを破壊した悪魔なのである。

歴史は繰返す、然し乍ら自然現象は必ずしもさうでない。過去六百年間地震活動の循環を見せた南海道沖が今後も同じ調子で活動を繰返すか否か、此は学術的にも将た実際的にも極めて大切な研究問題でなければならぬ。然り繰返すと答へるにも否繰返さないと答へるにも、確実な根拠がなければならぬ。斯学今日の程度に於ては何人も之に答へ得ないであらう。

予不肖、未だ曾つて斯様な重大且つ難解の問題に対して答案を提供したこともなければ、之を為し得る筈もない。併し実際問題としては其の処法極めて簡単である。即ちそれは最悪の場合を仮定し、之に対して災害を未然に防止し、若くは之を軽減する手段を取ることである。地震特に震火災防止に関する知識及び耐震構造の普及、防潮林、津浪除け堤防築造の如きは其手段中に数ふべきであらう。実に最悪の場合を仮想して之に備へることは災害防止上最も安全にして且つ賢明な処置であらう。

右は予が特説するまでもなく、既に地方の識者によりても採られた手段である。

紀伊の国は和歌浦から南へ径七里、湯浅町に近く広村といふ小さな港がある。醤油業で有名な銚子の浜口家は慶長以来此処で斯業を経営して居たが、続いて起る地震津浪の為め、三度其厄を蒙り、斯くてはならじと、遂に意を決して根拠を現所に移し又村人の為めに多くの慈善事業をなし、特に百年後の子孫の為めとして、独力を以て津浪除けの堤防を築いた。此は今猶ほ厳存して居るが、斯の如きは、公益の為めに尽した記念物としても、将た又、故人の志を成さしめる目的の為めにも史蹟として永久に保存すべきものであらう。

前に記した五回の南海道沖大地震につき、其一が起つてから次のものが来るまでの間隔を調べて見ると順次に百三十七年、百七年、百二年、百四十七年となつて居る。即ち最大級の宝永地震の場合が最長で、正平のもの之に次ぎ、第二流たりし明応慶長の場合は比較的に短かゝつた。間歇的噴火をなす火山にも之に類似した現象がある。最後の安政地震は前にも記した通り、第二流に属するものであるから、此処にも亦最悪の場合を仮想することが災害防止上の立場から見て寧ろ得策であらう。特に安政元年以来既に七十九年を経過した今日であるから。

以上は根拠の薄弱な仮想の上に立脚した所説であるから、事実は全然之を裏切るかも知れない。予も亦公安の為めにはさうありたいと望んで居る。併し乍ら、以下記載せんとする地塊運動の研究は吾吾の仮想の不穏当でないことを示唆するものゝ様である。

地塊運動

地球の内部構造につき諸家研究の結果を綜合して見ると、地球の表皮に相当する地殻は其厚さ平均四五十粁であつて、これが外核の上に浮んで居るのである。又外核は其剛性、鋼鉄の八割四分であるが、併しこれは地震波や潮汐の如く、急に其方向を変へる力に対してさうなのであつて、幾年も幾十百年も同じ方向のみに働く力に対しては忽ち屈伏して仕舞ふのである。其故に地震波の伝播を論ずるときは、それを液体の如きものと見做して差支ないのである。一見両立し難い性質の様に考へられるかも知れないが、商店で棚板として使用する平面硝子が、年所を経るに従つて次第に曲つて来る事実に鑑みて、容易に首肯し得る事項である。

地殻は斯くして外核の上に浮んで居るのであるが、それが大陸塊や深海床の部分に分れ、陸塊は又裂罅によりて無数の断片即ち地塊に分裂して居る。

電車道は角石で敷詰めてあるが、吾々の地球の表面は地塊で敷詰めてある。但し電車道の角石は略ぼ一定の形と大さとを持つに反し、地塊は大小形状不同であり、一里角、十里角など種々ある。

地塊運動とは文字通り斯様な地塊の運動を意味するのであるが、それには地震と連絡のあるものもあり、なきものもある。地震に連絡を有つ地塊運動は地塊の一つ、二つ三つ、或は数箇の一群が、周囲のものに独立して起るのであるから、運動に加わらない隣接地塊との境界には喰違が起る。是れ即ち地質学者謂ふ所の断層である。

地震に無関係な地塊運動には前記の如き不連続性が欠けて居る。随つて多数の地塊を被へる広い地域に亙つて、緩かな傾斜、隆起或は沈降など現れても、隣接二地塊の間にはそれと認むべき程の喰違が現れないのである。

地震に連絡を有つ地塊運動には急性のものと漫性のものとがある。

急性の地塊運動、これが即ち普通の地震の近因である。詳言すれば、吾々が通常経験する大小の地震は何れも地塊の急性的運動に由つて起されるのである。

此の関係は精密水準測量の応用によりて我国に於て到達せられた結果であつて、実に近年に於ける地震学開発上の一大収穫と目すべきものである。

陸地測量部では地図製作の目的を以て精密水準測量をやる。此測量は水準線路上に平均二粁ごとに植えた水準標につき、其頂に刻んだ記号の平均海水面からの高さを測る作業である。実際に於ては平均海水面を求める為めに全国の海岸数十所に検潮所を設けて絶えず水位を計ることになつて居るのであるが、測量は之を基点として線路上の水準標の標高を線路に沿ひ、次から次へと計つて行くのである。精密水準測量は此の測量が精密に行はれた結果、隣接二標の高さの差に対する計測の誤差は決して三粍を越えないものであつて、概ね一粍程度まで正しいものと解して良いのである。

水準線路は国内に蜘蛛の巣を張つた様に縦横十文字に敷設してある。之を適当に利用することによりて、前記の如く地塊運動に関する概念が得られたのである。

今或る地方に地震が起つたとき、其地方に張つてある水準網の再測を行つて、前に測量した結果と比較して見ると各水準標の高低変化は各地塊が個々の運動をなしたことを暗示するのである。此運動は一般に地震の著しかつた地塊に於て最も著しく、地塊の傾斜、隆起、或は沈下等の形式で現れる。地震大なれば随つて地塊運動も大きく、地震局部性なれば運動に参加する地塊は数に於ても大きさに於ても局限せられ、之に反して非局部性なれば広大である。斯様な計測が、是迄我国に於てなされたことが、大小地震に対して既に十七回にも及んで居るが、前記の関係を裏切る様な例は一回もないのである。是れ即ち普通の地震は地塊の急性的運動に由つて起されるものと考へるに至つた所以である。

地震後に於て時を隔てゝ水準測量を反復施行して見ると、地震時に起つた地塊運動と同型のものが徐々に、即ち漫性的に、同じ或は反対な方向に進行しつゝあることが気附かれる。是れ左もあるべきことであつて、別に恠むに足りないであらうが、特に興味あるは、これと全く同型の漫性的地塊運動が地震前にも起りつゝあることである。特に地震後に起るものは概して比較的に微小なるに拘らず、地震前のものは稍著しく、其大きさ地震時のものに匹敵すべき程度であることは注意すべきであらう。但し地震前に其地方に於て水準測量を反復施行した実例は少く、唯僅に六回を数へるに過ぎないが、併し何れの場合に於ても前記の関係に対して肯定的な結果を与へ、之を裏切る様な例はまだ一回もない。

以上の説明により、地塊運動の研究が地震学上頗る大切なものとなつた所以が明瞭になつたことゝ思ふ。

地塊運動の研究に関する成果は、前にも陳べた通り、実に最近数年間に於ける我が学界の産物である。併し其の概念は朧気ながら吾々の祖先にも持合せがあつた様である。地震鯰の説が即ちそれである。若し古人の考へて居た鯰に吾々の地塊を置換へたなら、地震の発生に関する古人の観念は今日に於ても猶ほ其生命を保つて居る。

地塊は到る所にある。併し活動の生命を有つて居る地塊は稀に所々に潜在するのみである。生きた地震鯰の居所を押さへ、此鯰の起居動作を日常追跡し、其習性を熟知するに至つたなら、其れが目覚める時期を予察することも必ずしも不可能ではあるまい。

地塊運動なる言葉は比較的に新しい為め、世上往々誤解がある。地塊運動の研究は地方産業の開発を妨げると逆宣伝するものすらある。但し世界の地震学者は其の研究が純学術的に有益なるのみならず、震災防止の一助ともなり得べきものたるを認め、斯学の国際会議に於てこれが補助奨励を地震国の政府並に各種機関へ建議した位である。

(読者の中には地塊運動の原因を追究したい方があるかも知れないが、之に答へるには本篇の目的から遠ざかる慊があり、唯簡単に地熱の不均一な分布が其窮極の原因たることを述べるに止めて置く。)

半島の急性的傾動

太平洋側の大地震と之に接近した半島地塊の傾斜運動との間には特種な関係の存在が認められる。房総半島、三浦半島、紀伊半島、室戸半島等其地質構造が互に類似して居り、各各の沖合に大地震が起つた場合に於ては何れの場合でも南上りの急性的傾動が起る。

此関係の存在が最も良く知れて居るのは比較的新しい地震の場合であつて、南海道方面に在つては宝永、安政両度の大地震、関東方面にあつては元禄、大正両度の大地震が之に相当する。特に最も詳細に知られたのは最近の関東大地震の場合である。

精密水準測量並に三角測量の結果によると、関東大地震は関東地塊の急性的な傾動で起されたとも言へる。房総半島の南端は二米、三浦半島南端は一・四米隆起し、丹沢方面を中心として関東北西部は一・六米も沈下したが此は関東地塊の傾動を其両端に於て認めたまでのことであつて、傾動の軸は川崎辺から相模の厚木を経、小田原の北一里程の処に至る一線であつた。但し破壊作用の震動を出発せしめた場処は地塊の南境、相模湾の中央部を北西から南東へ貫く一線にあつたのである。

更に遡つて、元禄十六年十一月二十三日(西暦一七〇三年十二月三十一日)関東大地震の場合を調べて見ると、房総半島南端に於ける隆起は六米にも及び、関東地塊の傾動は大正の場合に比較して三倍程度の大きさであつたらしい。

南海道方面に於ては安政度の地震につき紀伊半島の傾動が最も能く解つて居る。それに拠ると、田辺町の辺を東西に走る直線を傾動の軸として、南方が隆起し、北方は沈下した。半島の南端串本に於ては四尺隆起し、北方和歌山市附近加太の辺に於ては三尺程沈下した。又室戸半島に於ては傾動の方向南東なりしか否か、確には分らぬけれども、概ね南上りであつたとして可なるべく、室戸町辺に於ける隆起は四尺程度であつた。

宝永度の大地震に於ては、紀伊半島の傾動は安政の場合に略ぼ等しく、室戸半島のものは稍稍大きく、室戸町に於ける隆起は六尺程度であつた。

以上の如く、南海と関東とに於て、沖合の大地震と半島の急性的傾動との間には共通な因果関係の存在が認められる。此の共通性は啻に質に於てのみならず、其の量に於ても認められる所である。

問題の傾動は、其大きさ、大正と元禄との比較の如く一方が他の方の三倍たるが如き相違はあるけれども大体に於ては同じ位取りの数字である。即ち其程度は十万分の一の傾斜であつて角度に換算すれば二秒位である。

此の量的相似の存在に就いてはそこに物理学的意義があるであらう。

斯様な傾動を起す原因は地下に潜在するものであらうが、吾々は之を起震力と呼んで居る。起震力は地震の発生(即ち応力解放)を見ない限り、次第に蓄積し行く一方であらうが、之に対抗して平衡を維持して居るのは、地塊の弾性的歪みによりて生ずる応力である。但し斯様な弾性的歪みには一定の限度があること、吾々が日常木片を折らんとするときなど経験する通りであつて、若し此限度を越えるときは、破壊が惹起されるのである。

半島の急性的傾動に対する物理学的意義は以上の通りであるが、斯様な解釈は甚だしく無稽なものではなかるべく、更に進んで半島の漫性的傾動を調べて見ると、これも亦他の根拠を提供して呉れる様に思はれる。

半島の漫性的傾動

前記の各半島は平時に於ては漫性的な傾動をなして居る。此傾動は急性的のものに比較して同型ではあるが、然し乍ら方向は反対である。即ち急性のものが南上りなるに対し、漫性的のものは南下りである。

予は平常時と言つた。併し此は適当でないかも知れぬ。寧ろ検潮儀観測や精密水準測量が最初に行はれてから約三十年の間とすべきであらう。

又漫性的傾動の方向を何れも簡単に南下りとしたけれども、関東に於ける両半島及び室戸半島に於ては之を南東下りとする方が寧ろ正確であらう。

以上の如く、漫性的傾動は急性的のものに対して同型で且つ反方向であるが、斯様な相似性は急性的傾動の場合と同様に啻に質に於て認められるのみならず、量に於ても亦等しく認められる所である。

実測の結果、各半島平常時の漫性的傾動は其大きさの年平均、凡そ一千万分の一の程度である。即ち角に換算すれば〇・〇二秒位である。若し斯様な漫性的傾動が同一の調子で百年間継続したならば、其積算した値は正に急性的傾動の大きさと同じ位取りのものになる訳である。左すれば、半島地塊の弾性的歪みは此積算傾動に対して平衡を維持し得る限界に近寄ることにもなるのである。南海道方面に於て百年程度の間隔を以て大地震が繰返された事実は斯様な関係に由るものと考へられないこともない。

関東地方に於ける非局部性大地震は、南海道方面のそれに比較して、其繰返し方が寧ろ稍稍不規則である。然し乍ら弘仁九年(西紀八一八年)元禄十六年、大正十二年は其間隔が夫れ夫れ八八五年、二二〇年であつて、各各の終りに起つた傾動の大きさが三と一との割合に現れて来たことは南海方面に於ける同じものが略ぼ等一性を示すことに比較して、能く調和するとは言ひ難いとしても決して予盾すると称すべきものではないであらう。

各半島の漫性的傾動につき、上記の如き相似性を暗示した資料は第一に検潮儀の記録である。我国の各地沿岸数十所に検潮儀が設置してあることは前述の通りであるが、三浦半島の南端、三崎油壷にあるもの、及び紀伊半島の南端串本にあるものを除き、其他の検潮儀は、海水面が長期間に亙り略ぼ一定の高さを維持するに反し、前記二箇所のものだけは其の設置以来凡そ三十年間、年平均約五粍の調子を以て漸進的に上昇しつゝあつたのである。実に此現象は三崎及び串本の地盤が前記の調子を以て次第に沈下しつゝあつたことを意味するのであるが、若し之を大局から観察するなら、それは単に関東地塊の南東下りの漫性的傾動と、紀伊半島の南下りのそれとを各半島の南端に於ける一点に於て観測したに過ぎなかつたのである。

各半島の漫性的傾動につき其相似性を示した第二の資料は水準測量の結果である。

断るまでもなく、関東地方に於ては水準線路の網が比較的細密に出来て居り、又測量が大正十二年前に於て数回反復施行せられてあつた為め、地震前に於ける地塊傾動を調べるには十分であつた。然し乍ら、南海方面に於ては、斯様な測量は四五年前までは出来て居なかつた。勿論、水準網は明治二十二年乃至三十二年に於て完成したが、それは単に敷設されたといふに過ぎないのであつて、地盤の水準変化を調べるに絶対に必要な二度目以後の測量が、線路の何れの部分に於ても行はれて居なかつた。

幸に帝国学士院に於ては、本問題研究の価値を認め、昭和三年以来年々巨額の研究費を補助して呉れたので、陸地測量部に依頼して漸を追ふて水準線路の再測を実行して貰ひ、昭和七年度に於ては問題の傾動を調べるには先づ遺憾なき程度にまで進捗したのである。

以上の結果と、串本に於ける検潮儀の示す海水位の変化とを綜合して見ると、紀伊半島は最近三十余年間略ぼ正南に向ひ南下りの漫性的傾動を続けつゝあることが特に著明に現れて来たのである。串本に於ては同じ期間に十五糎の沈下が、現れて来たのであるが、此は右の傾動に由る当然の帰結と見るべきである。

四国に於ては、室戸岬を中心として、東海岸並に南海岸を走る水準線路を昭和四年に於て再測して貰つたが、其結果として最も著明に現れたのは、室戸半島が最近凡そ三十年間南東下りの漫性的傾動を続けつゝあり、室戸岬に於ては同期間に於て二十糎程の沈下をなしたことである。

試みに両半島傾動の方向を延長して見ると、それは沖合二百粁位の位置に於て相交はることになる寶永安政両度の大地震も概ね此辺に発生したものゝ様であるが、此は単に偶然の一致であらうか。

右の通り、三浦紀伊両半島は其平常時の漫性的傾動につき著しき相似性を示しつゝあつたのであるが、然し此相似性は夫の関東大地震によりて突然破られて仕舞つた。悉しく言へば大正八年まで南下りの傾動を辿りつゝあつた三浦半島は次年に至りて反対に南上りとなり、而も其調子を多少速めつゝ遂に大正十二年九月一日、突然其傾動を急性に激変せしめたのであつた。

三浦半島に於ける大正九年以後三年間の漫性的傾動は何等の物理学的意義を有しないかも知れないが、若し地塊平衡の破綻に関して前に記した解釈が誤なきに於ては、弾性的歪みが極限に達してから最後の破壊が起るまでに、右の三年間を要したものと解釈されないこともない。是まで種々の点に於て相似性を示した両半島が単に此一点に限りて相違を示すかも知れないが、併し科学者としては之を不問に附して置く訳には行かない。是れ予が最も忠実に、紀伊半島、室戸半島等の傾動を間断なく見守りつゝある所以である。

其の他の現象

関東に於ける両半島と南海に於ける両半島とには其傾動に於て相似性のあること前記の通りであるが、斯様な相似性は傾動以外の他の現象には認められないであらうか。

関東地方に於ては地震活動が非局部性大地震を以て其絶頂に達するに先だち、六七十年乃至八九十年間は前震活動の時期であつて、局部性の大小地震が相次いで頻繁に起つたのであるが、此は右の時期を更に遡る百数十年或は幾百年間の静穏時期に比較して著しき対照であつた。

此の現象は物理学的には地塊の傾動の増進に伴へる地震力蓄積の結果と見るべきものであらう。

斯様な現象は南海道沖大地震には現れて来ないであらうか。今最初に記した五回の大地震に就いて之を調べて見るに左様な形跡が認められないこともないが、併し関東地方程著明ではない。但し最後の爆発に先だつ数日、数月或は数年、地震活動の増進が、狭義或は広義の前震(先駆地震)として現れて来たことは特筆すべきであらう。

紀伊半島の漫性的地塊的運動は其最も著明なものが、前記の通り、南下りの傾動であるが、次に著しきものは紀三井寺附近に於ける局部的地盤膨らみである。此は南北僅に八粁の地域に限られた現象であつて、昭和三年に至る凡そ三十年間に於ける盛上りは七四粍であつたが昨年末に至る四年間に於て更に二六粍を加へた。過去に於て極めて静穏であつた此地方が、大正九年以来突然活動を始め、年々幾百回となく局部的な地震を起しつゝあるのは、疑もなく右の地塊運動と密接な因果関係を保つている。

槙尾断層といふものがある。此は昨年大地辷を起し、関西本線を一時不通に陥れた峠地方から出発して南西に走り、紀州箕島辺にまで追跡せられるものであるが、此断層に沿うて一方に於ては、関係的に北西側地塊が跳ね上る様な運動をなしつゝあり、他方に於ては、一〇〇粁の全線に沿ひ、或は之に近く、有害な地辷や無害な土地潜動が彼方此方に進行中であつて、今日に於ては斯様な場所が最早十箇所も知られて居る。

斯様な地塊運動は半島の傾動に伴つて蓄積しつゝある起震力の発露と見られないこともない。但し此は単に疑心暗鬼かも知れぬ。それにも拘らず、敢て之を茲に物した所以は、溺れるものは藁をも掴むの譬、苟も研究の手懸りになりさうなものは一切之を取逃さぬ様努力しつゝある実情を訴んが為に外ならないのである。

結び

南海道沖大地震津浪は今後も繰返すか否か、単に過去の沿革を見たゞけでも、それは一つの大きな謎でなければならぬ。読者若し予が半島の傾動に関する所説を翫味されたなら、謎は更に深刻さを増すであらう。若し強ひて楽観して之に備へることなきに於ては、万一の場合、かの関東大震災と三陸大津浪とが併発するが如き苦患に陥ることなきを保し難い。実に寒心に堪へない次第である。

予は敢て詭言を弄ぶものではない。地震と震災とに関する予が常套語を聞かれたなら、必ず斯く首肯して載けるであらう。

地震(津浪も)は自然現象である。人力では之を抑へることは出来ない。震災は地震が人の生命財産に及ぼす災害である、吾々の知識と努力とによつては之を免れ得べきものである。

南海道沖大地震津浪が何時襲つて来ても、何等の災害が起らぬ様用意して置かうではないか、是即本篇の目的である。

災害除けの用意、それは大した面倒な事でもなければ費用のかゝる事でもない。

第一は震火災防止に関する地震知識の普及である。予は曾て地震に直面した時の心得十則を撰んだことがあるが、其中の一則「大地震に当り最初の一分間を凌ぎ得たらば最早危険を脱したと見做し得られる、余震恐れるに足らず、地割れに吸込まれることは我国にては絶対に無い、老幼男女総て力のあらん限り災害防止に力むべきである、火災の防止を真先にし人命救護を其次とすること、是れ即ち人命財産の損失を最小にする手段である」の如きは地震国の国民が一般に心得置くべきことゝ思ふ。

震災予防評議会は其目的の為めに多くの貢献をなした。然し乍ら、震災予防上緊急必要なりとして進言した最も大切な事項が未だに当局に採用せられるに至らないものあるは誠に痛恨に堪へない。

震火災防止に対する積極的精神の振作は国民一般に必要なるが故に、之に関する一文を尋常小学校教科書に挿入されたしとは四年前会が、文部当局へ建議した所であるが、未だに其目的を達するに至らない。

今日、我国に於ては合計百十三市あるが(昭和七年調)都市計画法によりて建設改造されつゝある都市は合計百一市二十七町村に及んで居る。都市計画法中には建築物法規があり、耐震構造に関する事項が含まれて居るから、一見満足すべきものゝ様ではあるが、事実は左にあらず、耐震構造法が実施されて居るのは六大都市並に其隣接四市二十七町村の小地区に止まり、残りの九十一市は都市計画法実施の緩和地区としてそれが除外されて居る。

我国家屋の大多数は木造であり、木造建は筋違、方杖、火打、金物の応用により極めて容易に且つ安価に耐震的ならしめ得る事実に鑑み、震災予防評議会は前記実施緩和の撤廃を当局に建議して居るけれ共、是亦目的を達するに至らない。又鉄筋コンクリート造は適当な設計、厳重な施工のみによりて耐震的であつて、然らざれば却て極めて粗悪なものとなる虞れがある。これが取締方を六大都市以外にも及ぼすべく建議されて居るが、これも手答がない。

以上数件が当局により真剣に考慮、実施されるだけでも震火災は大抵之を免れることが出来るであらう。若し其れ津浪の災害防止に関しては、高地移転、防潮林、津浪除け堤防の築造につき、既に記述した通りであるが、就中市街村落の建設改造に方りては津浪襲来常習の位置を避けることが、絶対に必要であらう。問題は実に重大である。余の如き一介の浪人が身の程をも顧みず、或は自作映画を携へて講演行脚を企て、或は帝国学士院其他二三特志家の後援によりて本文記載の如き研究を試みつゝあるも、此問題の余りに重大であつて徒らに漫然として居ることが出来ないが為めである。