24 11月

「服部一三翁景伝」

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服部一三翁景伝 奥付 神戸市立図書館蔵

「服部一三翁景伝」編集者 勝田銀次郎
服部翁顕彰會 昭和18年12月20日発行より転載(抜粋)

米国留学

服部一三の永年の希望が報われる日が遂に来た。岩倉具視公の息。具経及具定の両氏が外国の事情取調べの為、洋行の企てがあり、服部一三に対して直ちに上京する様にとの報が来た。早速上京して徳大寺卿の邸に泊まり、種々運動の結果遂に米国に随行する事を許されたのである。之は恐らく養父服部哲二朗氏が岩倉具視公と深い関係にあり、哲二朗氏自身もその前年明治元年には京都の岩倉邸に寄寓していたので、その奔走に与るものであろう。
随行を許されし者は、山本重輔 折田彦市及び服部一三の三人にして、時に明治二年冬 服部一三が十九歳の時であった。

米国に於ける服部一三は、明治四年六月、ニューゼルシイ州ニューブルズウーキ予備学校を卒業し、同八年六月にはロトゲルスカレツヂ理学部を卒業され、バチュラー、オブ、サイエンスの学位を得られ、更に同校より法学博士の称号を受けるの名誉を得られたのである。
米国に在りては専ら法律を学ばれると共に、兼ねて学制をも調査された。此の学制調査は、帰朝後直ちに文部省督学局に職を奉ぜられるの機縁となりしものにして、後、岩手県知事として地方へ赴任されるまで約十七年間服部一三の活躍されしは主として文部省を中心とする教育関係の方面であった。即ち東京大学予備門、大阪専門学校、東京大学を中心とする学校教育にされたのである。

在米中の服部一三の生活に就いては、今詳しく之を知るの術がないが、幸にして常時の日記が存するので、それによって滞在中の生活を窺ひ得るので附録として揚げることとする。服部一三は単に学問に励まれしのみならず、機曾あれば書物により、旅行によって見聞を広められ、殊に明治五年七月、ナイヤガラの瀑布を見物に行かれし時は、餘程愉快であったと見えて、
「今度の旅行利を得る事不少、真に愉快の夏なり。地利を見、国俗を知り、友を作り、其他多益の物を見、有益の事を聞きたり。」と述べてあるが、この僅か数行の記事に経世済民の方面に如何に関心を有せられしか、その片鱗がほの見えるのであって、服部一三の行政官としての胚子が、この頃既に用意されていた事は見逃してはならぬ。また服部一三が後年行政官としての偉績を胎されたのは、こうした時の感激を生かされたものとも考えられるのであって、若い時の経験を後年に役立たしめるのは古今東西の偉人の示した足跡である。これを思う時、吾人はいよいよ服部一三に対する敬慕の情を深くするものである。
又、フランクリンの自敍傅を読んで大いに感ぜられたと見えて、特に備忘録の中に次の様に記されて居る。
「フランクリンの自敍傅に云わく、「余が世の中に立ち、貧賤の身より興じて、学成り、富貴となり萬人に尊敬せられ、政治の上に大いに事をなしたるは、主としては余が事をなさんとするに当たり、自ら功を貧らず、他人に暗に其の事を覚えらしめ、他人は余より教へられたものと思はず、自己の考案によって得たるものと思ひて、之を発議し、且勉むる様になさしめたるにあり」。国の大事を企つる人は宣しく此の意を體すべし」と。
即ち後年 服部一三が岩手県、広島県、長崎県を経て兵庫県知事を務められた長い間、常によく部下を指導して幾多の功績を挙げられし事は、蓋し一朝一夕の修養によるものに非ず、早くより人の長としての心掛を有せられし事を知り得るものにして、誠に感激に堪えない次第である。 而も文中、フランクリンが自己の発達の法として説きしものを服部一三が最後に、「国の大事を企つる人は宜しく此の意を體すべし。」と註されている事は、日米両国々情の相違とは言え、常に物事を国家と結び付けて考えられし服部一三の精神が躍如として現れているのである。

文部省奉職

前述の如く、帰朝の翌九月、文部省督学局に職を奉ぜられ、十一月には東京英語学校校長心得となられ、九年十二月校長に就任、年令僅かに二十六歳、如何の初年とは言え、両立に至らずして此の重職に就かれし事は、服部一三の学識非凡なるを示して余りありと云うべし。
更に十年四月には東京大学予備門主幹の任を囑せられ、即ち同月東京開成学校に東京医学校を併置して東京大学と改構し、服部一三は最初の予備門主幹に補せられたのである。九月には抜擢されて同大学法学部経理補を兼任され、十二年四月には轉じて大阪専門学校総理に任ぜられた。大阪専門学校は服部一三が総理となられた前年迄は大阪英語学校と構しているもので服部一三の赴任後、新たに理科、医科の二学科が置かれ、医学は濁逸語で教育するの必要を時の文部卿時の文部卿寺島氏に説いて之を実現せしめられる等、その識見の卓越せる感服の外はない。大阪専門学校奉職中には部下に高橋是清、小川*吉、及団琢磨等の諸氏あり。之即ち現在京都に在る第三高等学校の前身にして、春秋尚、浅き服部一三が最も困難なる学校創業の難局に富つてよくこれが大成を遂げられたのである。
而して十三年四月再び東京大学に帰って、法学部、文学部、理学部総理補となられ、予備門主幹をも予備門主幹をも兼任さるるに至ったが、更に六月には文部省小書記官に任ぜられ、次いで同大学法学部、理学部、文学部の総理兼同大学予備門主幹に任ぜられ、十四年七月には東京大学法学部部長に陛任、併せて予備門長を兼務された。
更に十五年二月東京大学幹事を拝命、その後に於いても、或は文部省臨時事務取調べを兼務され(十三年八月)或は農商務省御用係を仰せ付けられ、更に日本地震学会々長に就任される等、文教に力を效されし事は大なるものがあったのである。

日本地震学曾

服部一三が日本地震学会々長に就任されしは、明治十三年同学会の創設と同時の事なりしが、それに就いて次の如き興味深い業績が遺されている。
東京帝国大学地震学教室の壁間にも今もなお一幅の地動儀の図が揚げられてある。即ち後漢書 張衝傳に見ゆる陽嘉元年に張衡が作った候風地動儀の図である。張衡の候風地動儀は地震学上前人未発の業績にして、地震学教室に揚げられた此の図には、龍と蛞蝓とか龍口にある珠をめぐって睨み合って居り、其の上部に賛として後漢書張衝傳があり、而も其の最後に、「此地動儀の図ハ、明治八年服部一三年氏本記ニ与り、一書工ニ命ジ書カシメシモノナリ。」と奥書がされてある。
即ち此の図はもと神田一橋東京帝国大学敷地内に明治十三年創設された地震学実験所にありしもので、明治十八年現在東大内に地震学教室が設置されると共に、それを移されたものと考へられる。而して前記の地震学実験所と共に創設された日本地震学会の会長として、服部一三が選ばれたのである。来明治十五年迄其の位置を保たれたのであるが、此の図は服部一三が日本地震学会々長に就任される以前、即ち明治八年に描かしめられしものにして、吾図に於いては未だ地震学の研究盛ならざる当時、既に早くも服部一三は後漢書 張衝傳を読み、それに大いに心を惹かれて書工をして其の発明にかかる侯風地動儀を書かしめられし事は誠に興味深い事である。
此の図に就いて雑誌「地震」第八巻第八号に今村明恒氏が、「地震学実験所の創設と服部一三先生」と題する論文の中にその事が述べられてある。

ニューオルレヤンス博覧会

斯くて十七年十月に翌年米国ニューオルレヤンスに於いて開設される萬国工業兼綿百年期博覧会に事務官として差遣せらるる事となった。之は主として伊藤、大木両参議の蓋力によるものであったが、服部一三は単に文部省に於いて文教上の逸材であられたのみならず、かかる対外的の事務に関する材幹をも有せられ、行く所として可ならざる所なき、その才能を伊藤公以下に認められたからである。
而も翌十八年二月にはニューオルレヤンス博覧会終了後も学取調の為、二カ年米国に滞在を命ぜられた。当時服部一三は三十五歳の働き盛りであった。
斯く省命は米国を発して大西洋を渡り、欧州に赴いたのである。即ち服部一三の希望する所は英・仏・独の学制を取調べる事であって、殊に独逸に於いては、「留まる事六十日なれども頼る得る所ありたり。」と述べて居られる。
而して服部一三がドイツの教育に注目されたのはこれより早く、既に東京大学在職中の事にして、「東京大学に於いてドイツ風の政治学を興せしは全く予が仕事なり。」と大いに自信を以て揚言せられ居り、又、
「大学の風を独逸風に向はせしは余の興る所なり。」と語って居られるのを見ても、服部一三の識見が如何に非凡なりしかの一端を窺ひ得られるのである。

小泉八雲との交渉

服部一三が更に大いなる達見を有して居られた事を示すに足る事柄が、その米国滞在中に起った。即ちニューオルレヤンスに於いて、当時は単なる一文筆家に過ぎりしラフカデイオ、ハールン、即ち後の小泉八雲と相知るに至った事である。
この偶然は、ハールンに採りても亦日本に採りても誠に幸福とは言わなければならない。何故ならば、後年、ハールンが米国ハーバー書の依頼によって日本に渡航したのであるが、このハールンをして出雲松江中学の英語教師に幹旋せしは誰あらう、当時文部省普通学務局長たりし服部一三に外ならぬのである。此の間の事情に就いては「小泉八雲全集」に収められたる彼の傳記の中に次の様に説明してある。即ち
「ハーバー書肆と絶縁してから、日本での休職を続くべきか、帰国すべきかに就いて暫く思い惑ふたが、以前ニューオルレヤンス博覧会の事務官、当時文部省普通学務局長服部一三氏の幹旋で、出雲松江の中学校の英語教師(月奉百圓)となって赴任する事になった」
と在る如く誠に不思議な因縁と云わねばなるまい。
而して小泉八雲が筆を採って、自己の最も愛する国日本を全世界に紹介し始めたのは後年の事に属するが、その幹旋をなした服部一三は、既に外国に行かれる事二度に及び、外国の事情も又外国人の表裏も熟知して居られた服部一三が単なる偶然から此の事をなされたとは考えられない。それは不思議な因縁であるが、服部一三の識見に感服する我々は服部一三が密かに小泉八雲に期待を掛けて居られた事を想像するものであり、必ずや八雲の人物を洞察されたものがあったればこそである。

三陸地方大津波とその善後策

服部一三の岩手県在職中も苦悩せられしは、明治二十九年六月十五日、突如として三陸地方を襲ひし大津波にして、之に対する復舊事業こそ、誠に苦心惨憺せられたものである。しかも此の年は大津波のみならず地震、洪水の災危相継いで襲ひ、之が復舊の処置は、さらでたに難事であるに、時恰も日清戦争直後の事とて、一層の困難を極めたものである。当時服部一三の手記によれば、
「明治二十九年六月十五日、東北未曾有の大津波あり。当時府県知事会議の為上京、十六日午前十一時過ぎ電信に接し、同日午後四時半上野発の汽車にて帰県、其後日夜復興の事に当り、政府は救助金三十七萬圓を拠出し、畏れ多くも両陛下に皇太后陛下よりも、一万三千圓の御下賜金あり、全国有志者の義援金四十一萬圓余りに上る。今年の苦心は実に名状すべからず。併して前後の経営は総て予期通りに成し遂げたり。可賀、可賀。」