03 12月

鯰のざれごと 昭和16年10月10日発行  三省堂 「防波堤」

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今村明恒著 「鯰のざれごと」 昭和16年10月10日発行 三省堂 pp. 224-228 

   三七 防波堤

 ここにいう防波堤は、津波除よけの堤防という意味で、それは陸に設けたのもあり、海に設けたのもある。普通に謂(い)う防波堤は風波を凌(しの)ぐ目的を達せられるのみで、大津波に対しては、ほとんど其(そ)の効果がないのみならず、却(かえっ)て有害な場合がないでもない。仮に防波堤を津波に有効にしようとすると、その高さや幅をもっと増大する必要があり、費用が多くかかる為、之(これ)を実施することは余程(よほど)難事である。
 真の津波除(よけ)という意味の防波堤は、そう多くあるものではない。余はただその二例を見聞したのみである。即(すなわ)ちその一つは陸中吉浜村本郷の海岸にあるもの、今(いま)一つは紀州廣村(ひろむら)の海岸に設けたものである。前者は明治二十九年大津波後に設けられ、先般の津波に於(おい)て、破壊されながらも幾分(いくぶん)有効であったことに依(よ)って一時に有名となったものであるが、後者は、安政元年(一八五四)大津波直後、義人濱口梧陵によって築かれたものである。
 広村は、和歌山市の南方凡(およ)そ七里の距離に在(あ)って、湯浅町(ゆあさちょう)に接した海浜の一邑(むら)である。今は戸数わずかに五百過(す)ぎないので、殷賑(いんしん)湯浅町に比ぶべくもないが、昔は湯浅千戸、広千戸と称し、却て湯浅を凌ぐことすらあった位である。然るに慶長九年(一六〇四)、宝永四年(一七〇七)、安政元年(一八五四)の大津波に依って、広村は毎度湯浅以上の大損害を受け、次第に衰微して遂に今日の状態になったのだと謂われている。
 湯浅町の街衢(がいく)は、概ね二米(メートル)程度の高さにあるに拘(かかわ)らず、広の村落は概(がい)して更に低く、加之(しかのみならず)、広川の流域たる低地がその背景をなしているので、津波災害予防の見地からいえば、正(まさ)に湯浅町に対する緩衝地区の役目をしている。宝永安政の津波に於て、湯浅に被害が少く、広に却て多かったのは理の当然であった。但し過去に於いてそうであったから、今後に於いてもそうであろうと考えるのは大きな誤謬(ごびゅう)でなければならぬ。何故というに、広の海岸には、安政浪災直後、「生ける神濱口梧陵」に依って築かれた防波堤が儼存(げんぞん)しているからである。
 今仮(かり)に、広の海岸を北から眺ながめたとする。先ず気付かれるのは、海岸線に平行に築かれた石垣の護岸であろう。何時(いつ)の年代に造られたか不明であるが、高さ平均海水面から二(メートル位あって、一見頗(すこぶ)る堅牢(けんろう)なように思われる。次に之(これ)に接した黒松の防潮林が見える。此(これ)は、更(さら)にその背後にある防波堤と海浜との中間にあって、浪勢を殺(そ)ぎ、防波堤の防籞(ぼうぎょ)外廊たる役目をなすものである。この松林も防波堤と同時につくられたもので、その松移植の当時、樹齢既に二、三十年のものであったそうだが、植付けの方位は正確に移植前の方位を取らせるなど、梧陵の周密(しゅうみつ)な注意に依って一本も枯死こししたものは無く、その後能(よ)く繁って今日のような密林となったものだという。
 この防波堤は断面が梯形(ていけい)で、上辺二・五メートル乃(ないし)三メートル、下辺一七ないし一七・四メートル、平地からの高さ三ないし三・四メートル(平均海水面上凡(およ)そ四・五メートル)、延長六五二・三メートルに及(およ)んでいる。上辺には人道を設け、上面と内側の斜面とには櫨樹(ハゼノキ)が点々として植えてある。土質は砂礫(されき)を交(まじ)えた粘土であるから、相当に固まってはいるが、併(しか)し悠久な自然の前には固い岩石でもしだいに崩壊する習いであるから、この處(ところ)、保護の手を加える必要はある。防波堤は外郭の防潮林と共に村有に属し、隨(したが)って右の点につき、遺憾いかんはない筈(はず)だが、余が先年観察した結果は必ずしもそうではなかった。試(こころ)みに一、二を指摘して見(み)る。

一 堤防の内側斜面が隣接居住者によって損傷されつつあること。
二 堤防上の路面が、ところどころ凸凹でこぼこを生じ、低下しつつあること。
三 横断の人車道のために切り通しを二か所に設けたため、本来の防波能力を多少弱めたこと。

 この切通しの一つ、中央寄りのものには、非常時に使用すべき鉄扉が設けてあるけれども、実用に適しない構造であった。扉が内に向かって開くようになっているから、津波の場合には其(そ)の侵入に逆らって之(これ)を鎖(とざ)さなければならぬ。試みにこれを動かそうとしてみたが、吾々(われわれ)二人の力では駄目(ダメ)であった。宣(よろ)しく扉を反対に外方へ向かって開くようにし、且(か)つ合わせ目に於て確実に止まるような施設をなすべきである。即(すなわ)ち津波侵入のとき、自動的に密閉し、引潮の際内部の水を自動的に放出し得るようにすべきである。
 今一つの切通しは南西端に近く設けてあるが、これは耐久中学校々庭に於(おい)て挙(あ)げられた梧陵告別式参列者の便宜を計(はか)って仮設したのが、そのままになっているのだそうである。故人の霊に対しても、速(すみやか)に善後の処置を講ずべきである。
 要するに、広の防波堤は、現況のままでも相当な価値を有するものではあるが、さらにその完璧たるを期する為(ため)にも、或(あるい)は浪災予防上の模範的施設たるためにも、将た又(はたまた)、寄付者の篤行(とっこう)を表彰するためにも、永久にこれを保存する方法を講ずべきである。単に一村に委(ゆだ)ねただけでは不完全たるを免(まぬが)れぬ。宣しく国においてこれを為(な)すべきである。

 以上は昭和八年(一九三三)夏季所見の結果に基(もと)づいて草したものである。
 その後、鉄の扉はただちに改修された。防波堤並(ならび)に梧陵の墓所は文部省から史跡として指定された。梧陵祭は毎年十二月五日に営(いとな)まれる。総(すべ)て満足すべき状態に向かっているといわねばならぬ。(昭和十六年(一九四一)一月)

ー編集後記ー
 著者の今村明恒氏のご意志を尊重して、できるだけ原文に近いものとして掲載しています。(著者としては、若い世代には少しでも以前使われていた漢字に慣れ親しんでもらいたいとの願いもありますが。)また、年号表記の後には、西暦表記をすることで理解し易くなればとも思っています。

 尚、「防波堤」は1949(昭和24)年に発行された同氏の著書「地震の国」(二五章)にも掲載されていますが、一部文面が変わっているようです。

 文中にある「梧陵祭」に関しては、現在の「梧陵祭」(「津波祭」などと共に11月初旬に行われている)とは同じものではないと思います。機会があれば、当時の「梧陵祭」についても調べてみたいと思います。

 ある意味、貴重な資料と考えられるのが今村明恒博士のこの「防波堤」である。昭和16年に発行されたということは、この5年後に昭和南海津波が発生したのである。もし、今村博士の「赤門」の扉の開く方向が指摘を受けることなく放置されていれば、広川町の被害も変わっていたのかも知れない。日頃、当たり前と考えているものによっても、自然災害の時にはその被害が変わってくると言えるのではないだろうか。