19 12月

防災教育の名作「稲むらの火」由来記

防災教育の名作「稲むらの火」由来記
統計数理研究所 調査実験解析研究系
水野欽司

【1】物語の誕生と生い立ち
戦前戦中に,小学校の国語教科書(5年生用)に登場した“稲むらの火”の物語は,これを知るだれもが称賛を惜しまない防災教育の不朽の名作である。この教材は,昭和12年から太平洋戦争の終結まで,国定教科書(小学国繕読本巻十および初等科国語六)に掲載され全国的に用いられた。その頃に小学校5年を迎えた世代(ほぼ,昭勅ヒトケタ生まれに相当)は、ひとりの年寄りが津波の来るのを予感し、稲むらに火を放って村人を集め,多くの人命を救った,という内容をいまも鮮やかな印象として心に残している。

では,この名作はどういう背景の下で生まれたのであろうか。ここでは,物語“稲むらの火”の由来を探ることとし,防災教育関係者の参考に供したい。実をいえば,この物語にはモデルとなる実話があった。すなわち,いまから132年前の安政地震の際,紀州有田郡広村(現在は広川町)であった出来事が、それである。後年“五兵衛”という名で知られる主役の老人は,当時,広材の地士で醤油製造を営む濱口梧陵であった。ただし,「梧陵」は後年に称した号であり,本名は“儀兵衛(七代目)である。この出来事は、地元の和歌山県では,よく知られた史実であり,濱口梧陵は,その後の数々の郷土への貢献と合せ、郷土の偉人として,いまも県民の敬愛を集めている。

だが,この物語を,国内はもちろん海外にまで広めたのは,かの有名な小泉八雲(Lafcadio Hean)である。八雲の”稲むらの火”の話は、1897年にボストンとロンドンの出版社から同時に出した著書「仏の畠の落穂」(G1eanings in Buddha-Fie1ds)の「生ける神」(A Living God)と題する章の後半で述べられている。

今日不滅の名作と讃えられる由縁は、優麗な筆致でこの話を紹介した八雲の功に負うところが大きい。この八雲の物語は,さらに長い年月を隔てて,新しい装いで復活する。梧陵とは同郷の小学校教員・中井常蔵氏の手で改められ、昭和12年(1937年),小学国語読本に登場するのである。

【2】実話一安政大地.震における出来事

《1》津波来襲の惨状、最初に,後年,物語の原型となった実話を挙げよう。事の発端は安政の大地震であった。安政元年(1854年)11月4日と5日(新暦でいえば12月23日と24日)の両日にまたがり,2回も襲った巨大地震で,その規模は共にM8.4と推定されている。初日(4日)の地震では,伊豆から伊勢に至る本州の太平洋側を中心に多大の被害がでた。

また,房総から土佐にわたる沿岸各所で津波が発生した。被害は,倒壊・焼失・流失を合わせ家屋の損害が約9,000,死者は約600人といわれる。翌5日の2度目の地震は,前日のそれより西に寄って東海から西日本各地(日本海側を含む)に大被害を与えた。津波も房総から九州に及ぶ長い海岸線を強襲している。家屋の全・半壊約60,000,焼失・流失約21,000,死者約3,000人という,稀にみる大惨事であった。

では、このとき紀州広村は,どんな状態だったのか。のちに「五兵衛」に擬せられる濱口梧陵自身の手記を参考にして,
この両日の精況を探ってみよう。

最初の大地震が襲ったのは4日の午前10時ごろで,村中が騒然たる状態になった。梧陵は直ちに海岸に出て異常な波の動きをみる。津波の恐れを感じた彼は、村民を指揮して家財を高所へ運ばせ,老幼者を広八幡境内に避難させた。ついで,彼は“強壮気丈”の者を引きつれて海面の監視に当るが,潮勢は夜になって平常に戻る、しかし,警戒を緩めず村民の大半は避難場所で一夜を過すことにした。そのため,空家になった民家の盗難や火災に傭えて、彼は,強壮の者30余名とともに終夜村内の巡視や海面の監視に当り避難者には粥の焚き出しを行う。

翌5日,ようやく海面が平常に復したので、高所で一夜を遇した村人は,各々の家に戻った。かくして村中が安堵したところへ、午後4時ごろ再度の巨大地震が村を襲った。梧陵は“激烈なること前日の比に非ず”と記している。かわらが飛び壁や塀が崩れ,土煙が空を覆った。振動が静まると同時に,彼は被災した村内を巡視する。ところが当初異変がなかった海面が急遠に変化し姶め,またたく間に高浪が押し寄せて人家を崩し出した。あわてて避難する村民の混乱の中で,彼は、壮者を督励して逃げ遅れた者を助けつつ,自分も疾走・退避するうちに、潮流に巻き込まれてしまう。彼は,浮き沈みしながら幸うじて丘の一つに漂着して難を逃がれる。村の惨状は眼を覆うもので,彼が高台の広八幡境内に着いたころは,村人たちは悲鳴をあげて家族を探すなど混乱の極に達していた。

すでに夜に入っていたが,ここで彼は,壮者10余人に松火(たいまつ)をもたせ,生存者の救出に被災地へと立戻る。しかし,若干の村人を助けたものの倒壊した家屋の流材が道をふさぎ,歩行の自由もままならぬ状態だった。ついに,撤退を決めた彼は,その途中で漂流者が暗夜のため安全な場所の方位を見失わないよう,路傍の稲むらに次々と“火”を放ちながら高台に戻った。“この計、空しからず.これに頼りて万死に一生を得たもの少なからず”と彼は述べている。かくして,梧陵らが避難し終えたあと,前後4回もあった中で最大の津波が轟然と村を襲った。そして荒れ狂う激波は点火した稲むらまで挿し流してしまった。

《2》偉人・濱口梧陵の活躍。紀州広村の地震津波の経緯は,おおむね上記のようである。後年の物語で,津波に気づかぬ村人を集めるため,となる稲むらの火は,津波に追われる村人の退路を示す道しるべだったこの巨大な津波の後は,震動も波浪も次第に減退し平常に戻ったという。しかし,広村の惨状は厳然として残った。記録によれば村の家屋の損失は339。流死人が30人とある。だが,流死人は,梧陵らの活躍で,他村に比べれば些少だったという。

この巨大な津波の後は,震動も波浪も次第に減退し平常に戻ったという。しかし,広村の惨状は厳然として残った。

記録によれば村の家屋の損失は339。流死人が30人とある。だが,流死人は,梧陵らの活躍で,他村に比べれば些少だったという。避難所の村民に配る、さらに深夜,隣村の庄屋を尋ね,「一切の責任は自分が負うから」という条件で,年貢米50石を借出すなど,食糧碓保に努める。翌日以後も救護と復旧のため、村民の先頭に立って働く、資産家の彼は自ら米200俵を醸出し、自村・他村の資産家に呼びかけて寄附を募る。また、張番を置き津波に遭わない近村の者が流失家財を盗みにくるのを警戒させる。その一方、流出した米俵・家財の収集や道路の修復作業に従事させる。さらに,これによって困窮者が労賃を得るようにする。私財を投じて家屋50坪を建て極貧者に無料で居住させる,など,数々の献身的な活動を統けるのである。

濱口梧陵一このとき彼は35歳であった。家は代々紀州広村と房州銚子で醤油製造を業としている。彼は、文政3年(1820年)の生まれで,幼少より英明な資質と実行力の持ち主だった。安政地震の2年前、同志と共に私学校“耐久舎”を設立し,自分も教育に当っている。また,この津波の後も,村の再輿のため,眼を見張るような活躍を残している。

すなわち,梧陵は村人を鼓舞激励し,彼の計画により藩の許可を得て津波よけの大堤防建設に着手する。このときも,彼は,非凡な人物であることの証しを数多く残している。工事により、村人に職を与え離村を防ぎ,かつ労賃を日払いにして怠惰にならないように気を配った。また,田畑を堤防の敷地にすることで藩の課税対象からはずすこと、などを考慮したという。いわば,災害防止・失業対策・労働意欲向上・節税を同時に図っているのである。有能な経営者や官僚も顔まけの才覚である。しかも,菓大な私財を,そのために投じている。4年の歳月を経て完成した堤防は,高さ4.5m,根幅17m,上幅2.5~3m。全長652mという立派なものであった。これが現在の広村堤防である。当時,植樹した松林を今も見ることができる。

このような梧陵は,明治維新の動乱の中では開国論に立ち,見込まれて紀州藩の勘定方や権大参事に任じられている。そして,後には新政府の駅逓頭(いまの郵政大臣)へと出世する。晩年は再び郷土に戻り,和歌山県大参事,県会議長を務めた。まるで典型的な出世物語のようにみえるが、彼の偉大さはそこではなく,その献身的で高潔な人格にあるといえる。

小泉八雲の「生ける神」にもあるように,広村の村民が長年の恩恵に報いるために“濱口大明神”なる神社を建てようとしたとき,彼が頑として許さなかったのは,当然であろう。梧陵は明治18年(1885年),視察先の米国ニューヨークで没する。
享年66歳であった。のちに建立した勝海舟の筆による梧陵顕彰碑が現在残っている。

【3】小泉八雲の紹介一“生ける神”

《1》“生き神様”と梧陵、小泉八雲の“稲むらの火”の話は,先述のように1897年刊行の「仏の畠の落穂」の中の「生ける神」に登場する。ただし,主題に付属する例話の形で取り上げられた。彼は,「生ける神」で西欧とは異なる“神道信仰”の特色を紹介している。すなわち、日本では何か偉大な貢献をした人はしばしば,その死後“神”として祀られること.“神”は,姿は見えないが意識をもつ独立の人格のように見なされ,悩みや顧いごとを巡る“神”と“人”の心の交流が日常的に存在すること,こうした“神”の中には,死後どころか,生きているうちに神にされる“生ける神”もあること、それは人の心や魂は、死後・生前を問わず,いつでも,どこにでも現れうるという,いわば汎神論的な日本の意識風土によるらしいこと、などを,共感を交じえ好意的に語っている。

そして、八雲は,濱口五兵衛の名で梧陵を“生ける神”の実例として紹介し,その事績として稲むらの火の物語を述べている。ただし,このとき八雲は,安政地震津波の梧陵の実話そのものでなく、かなり異なる内容に改作してしまった。すなわち、彼の得意とする再話文学的手法により,原話のエッセンスを強調するため,実際にあった個々の状況を取捨選択し、かつ創作部分を加え,全体を再構成したのである。この改作は,すこぶる徹底しており,事実に反する“生き神様”の誕生にまで及んでいる。

しかし,「耳なし芳一」のように最初からフィクションとわかる話と異なり,「生ける神」の随想的記述の中に出てくるため,梧陵の実話を知らない人が,現実にあった話と受け取っても仕方がないだろう。だが,この改作により、感動的な物語として長く後世に伝わったのは確かである。しかも、改作によって濱口梧陵の精神と偉業は,いささかも過大評価のそしりを受けず,一層多くの尊敬を集めることになった。

《2》八雲の改作の特徴、では、小泉八雲の物語の内容をみよう。後年,国語教科書に掲載される“稲むらの火”は,中井常蔵氏が八雲の物語をさらに改めた内容であるから,この二つはよく似ている。ただし,中井氏の児童向けの簡潔な物語と比べ,八雲の方は長い文章で内容もやや多岐に渡っている。

まず,八雲の物語と梧陵の実話の違いを挙げよう。これについては,他にも大小取り交ぜて相違点を指摘する人は多く,
この物語への人々の関心の強さがわかる。

◎八雲は主人公を`濱口五兵衛”としたが,それをいうなら実際は“儀兵衛”である。

◎五兵衛は“年寄り”だが,実話の梧陵は当時35歳の壮年だった。

◎海面を見て津波を予知した五兵衛は高台の家にいて,村人は低地にいて海面の異常の意味がわからなかった,とするのに対して,実際には,梧陵の家も低地にあり,梧陵も村人も共に最初から津波到来を感じて緊急避難を姶めている。

◎五兵衛が稲むらに放った火は,津波に気づかぬ村民を集めるためであったが,実話のそれは漂流者に退路を教える道しるべだった。

◎五兵衛の傍には“Tada(忠)”という10歳の孫がいたが,実話の記録には,そういう内容がない。ただし,梧陵には後に生まれる末子の“壇(たん)”がいる

◎八雲は,孫のTadaが“火をつけろ”と命じられ,“おじいさんは,気ちがいだ”といって泣きだし,津波来襲のあと,自分の不明を詫びるという場面を創作している

◎五兵衛は村民400人の命を救った,としているが,実際は当時の人口約1400人で流死した者もいた。

◎具体的な情景として,八雲は,助けられた全村民が土下座して五兵衛に感謝するという場面を創出している。

◎五兵衛は、全てが終わったとき少し泣く。“一つは嬉しかったから,一つは自分が老年で蓑弱していてひどく苦しんだから”と,八雲は老人の脆弱な姿を描いているが,実話の梧陵は,津波の直後から村民の先頭に立って救援・復旧に精力的に働いている。

◎八雲は・五兵衛が生きているうらちに“濱口大魍神”が建てられたことにしたが,事実は、先述のように神社建立の話は
出たものの,梧陵は断固として止めさせているし,.死後も建てられなかった。

◎八雲は、五兵衛が死んでから百年以上になる,と書いているが、それを書いた時期は、梧陵の死後10年ぐらいの頃だった。このほかにも,八雲の物語と安政元年広村の実話の相違を指摘する人は多い。

地震学者の故・今村明恒氏は,八雲が描写している地震津波の様相は,彼が“生ける紳”を執筆する少し前に発生した明治29年(1896年)6月15日の三陸地震津波(死者21,959人)に似ており,安政地震津波のそれとは異なる,と述べている。また,八雲は脱穀前の“稲むら”に火をつけたとしているが,安政地震津波の旧暦11月5日は新暦の12月24日であり,既に脱穀した後の“わら”だろうと,今村氏は推測している。ただし,これには疑問もある。後年“稲むらの火”を国語教科書に登場させた中井常蔵氏によれば,昔は脱穀労働の集中を避けること,年を越すと米価が上がること、穂の付いた稲を積んで置くと実が熟して味がよくなること,などの利点から、刈り取った稲の穂先が中心に集まるよう円形に積み上げ,“わら”を笠とし田や路傍に置く習慣があった。従って脱穀の前か後かは何ともいえないという。

このように,八雲の物語は,梧陵の実話を大きく変えているが,改作の跡をみると,彼は“対比(contorast)の効果”を最大限に取入れて、情景を理解しやすく,かつ印象深くするという文章作法を用いていることがわかる。すなわち,五兵衛と村人の違いを,年齢の開き(五兵衛は“年寄り”にされた),居場所の別(“高台”と“低地”),津波予感の差(伍兵衛は“気がつく”,村人は“気がつかない”),など,いずれも事実を曲げた対立的な関係を作って,五兵衛という人物を鮮明な存在に仕立てている。いわば,善玉と悪玉を用いて話の内容をわかり易くする筆法である。しかも,これによって五兵衛を“孤高の人”のように描くと同時に,すべてを成しとげた後,緊張の緩みと疲労感で“少し泣く”場面を加え,読者の共感と感動を喚起している。物語を支える舞台も,燃える火の“赤”と宵闇の“黒”という,これまた対比的な清景であった。

《3》対称的な人物一八雲と梧陵、小泉八雲は,生前、彼が尊敬する明治期の日本人として・広瀬中佐などと共に「濱口梧陵」を挙げていたという。面白いのは、この八雲と梧陵のパーソナリティであろう。八雲は,詩的才能豊かな文人だったが彼の得意とする妖麗な作品には,なにか暗い孤独の影が漂う。梧陵の実話の改作にも.それが感じられる。彼は,私生活の対人関係においても傷つき易く猜疑心も人一倍強かったという。一方、濱口梧陵は,その事跡からも推測できるように,豊かな実務的才能と優れた行動力.統率力の持ち主だった。その意味では,八雲を”ネクラ”人間とすれば,梧陵は”ネアカ”人間だったのではないか。八雲は自分に欠けたものを梧陵に見て,その人物に魅せられたのではないか、と想像できる。では、八雲は、梧陵の実話を,どういう経路でどんな内容として知ったのであろうか、

八雲の来日は・1890年(明治23年)であるから、その5年前に没した梧陵には会っていない。「生ける神」の出版は1897年で、そのとき彼は東京帝国大学に職をもっていた。文中に明治29年(1896年)の三陸地震津波の記述があるから、*筆そのものはその頃であろう。東京帝園大学の八雲の弟子である「生ける神」の訳者・田部隆次氏は“大阪朝日の記事に基づいている”と訳注で指摘している、しかし現東大教授の平川祐弘氏は、その著書で,三陸地震津波以後の“記事”を調べた限りでは見あたらなかったと述べている。そうだとすると八雲が東京に移るまで教職を離れ神戸に住んだ短い期間(明治27年10月~29年8月)に、梧陵に関する話をすでに入手していたという公算が大きい。

この時期,彼は外国人向け欧字新聞“神戸クロニカルの記者をしていた。田部氏のいう”大阪朝日の記事”をみれば,八雲の受取り方を探る糸口がえられるが.氏はすでに亡くなってり、いまのところ記事掲載の日付がわからない。ただし、ひとつの手掛りらしいものがある。八雲は記者時代に多くの社説を書いたが。その中に「地震と国民性」(明治27年10月30日)と題した文章がある。この日付に近い日の“大阪朝日の記事でありそうな気がしている。

なお、八雲のGoheiは,五兵衛と和訳されたが,実は“梧兵衛”(梧陵と儀兵衛の交ぜ名)のつもりではなかったか,また、その名付けは作為だったのか、誤解によるのか、など,気になる疑問も残る。当時は,情報過多の今と違って少量情報の時代だった。いずれにしても、八雲は,彼我の国民性や文化の違いを越えて、梧陵の人格と行動に強く感動したものと思われる。彼の「生ける神」の物語は西欧の多くの読者に強い感銘を与えたという。

その例を代表するひとつとして,劇的なユピソードが残されている。後年、梧陵の子息・濱口壇氏が英国に留学したときの話である。1903年のある日、ロンドンで「日本の女性」に関する講演をした際,一人の英国女性から“あなたのお名前は「濱口」ですが,もしかすると八雲の「生ける神」の濱口五兵衛の縁戚の方ではありませんか”と質問された。壇氏は、やむなく濱口“五兵衛”の息子にあたると述べたため,すでに八雲の物語を知っていた聴衆から熱狂的な拍手を贈られたという。

壇氏は、こんなに嬉しかったことはなかった,とその時の感激を伝えている。この話は大正9年発行の「濱口梧陵伝」その他が詳しく紹介している。梧陵の家系には優秀な人材が多いようで、いまも各界で活躍されているとのことである。

【4】小学国語「稲むらの火」の登場

《1》教材公薯の入選作品
今日、多くの人が知っている国諾教科書の“稲むらの火”は,梧陵の地元の和歌山県小学校教員てあった中井常蔵氏が.八雲の「生ける神」に基づいて改作した物語である。昭和初期の第四期国定教科書の編成に関し,当跨の文蔀省は全国の教員に修身と国語の教材を広く公募したが,このときの入選作品が,これである。

教科書に初めて登場したのは、昭和12年10月だった。ではどういう事情で文部省がこうゆう結果を生み出したのか、.これには,今村明恒氏ら、当時の地震学者グループの並々ならぬ貢献があった。第4期国定教科書編成の頃は昭和初期であり、大正12年9月1日の関東大震災(M7.9)の悲惨な記憶が生々しい時期でもあった。また「稲むらの火」が世に出た昭和12年の少し前の昭和8年3月3日には、明治以後2度目の三陸地震津波による大被害(死者3,00人)があった。こういう状況の中で、今村氏らは、防災対策や防災教育の重要性を説き,各方面に働きかけていたのである。その今村氏は、自著の中で大要つぎのような話を残している。

昭和10年6月,氏が,政界実業界の70余名の集まりで,地震に関する講演を頼まれた。そして「子どもたちの地震の知識はきわめて乏しい。文部大臣は,児童に非常災害時の教養をつけるよう、現場の教師に訓令を出しているが、現揚ではその扱い方に困っている。それならば、小学5年・6年生の教科書に“地震”の一項を加えるべきではないか」といった趣旨の発言をした。「地震国の子どもに、地震のことを教えないのは不可解だ」と結ぶと,満場拍手喝采となった。

この聴衆の中に当時の松田源治文部大臣がいて,苦笑で応じていたが、その日早速部下に伝え、教科書に“地震”の語が加わることになった。その第1号が昭和11年刊行の小学修身書巻三(3年生用)の「ものごとにあわてるな」である。かくして今村氏らの長年の努力が実ったという、この話もまた,劇的である。

こういう素地があるうえに,稀にみる傑作の中井氏の作品はすでに公募入選(昭和9年)していたから、教科書に採録されない事由など,どこをどう探しても存在しなかったのである。

《2》中井氏の応募とその作品
中井氏は,高齢にもかかわらず,いまも地元にあって御壮健である。氏が提出した文章は,修正されることなく教科書に掲載され,表題だけが「燃える稲むら」としたのを「稲むらの火」に改題されたという。また,応募の教科が「修身」か「国語」かについては“どちらでもよい”として提出した由である。

中井氏は,なんと梧陵が創立した耐久舎*の後身である耐久中学の卒業生であった。従って,郷土の偉人・梧陵の事績に通じていた。教職を志し,和歌山師範の二部を終え,しばらく教鞭をとってから師範の専攻科へと進む。このとき学んだ英語の教科書で,氏は初めて八雲の「A Living God」の物語を知る。これに触れたとき,瞬時にして梧陵をモデルにした話だと直感したという。

以来,この物語が頭に深く刻みっけられ,後に教材公募のことを聞いたときも,「そうだ,八雲の生き神様だ!」と迷わず応募の決心を固めた。一気に書き上げて原稿を提出する際も,必ず入選するものと疑わなかったという,氏は,滴27歳の青年教師であった。当時、評判になった豊田正子の“綴方教室”に感動し、子どもたちの綴方教育に力を注いでいたことも,応募の動機に影響した由である。文部省の教科書編纂会議では、監修官たちが,名文の中井作品をこぞって推したといわれる。その頃、監修官たちは、高まる軍国思潮・軍部圧力の中で,子どもの心理に合う優良な教科書作りに情熱を傾けていた。その中でも,故・井上赳監修官は,中心の人物で自ら香り高い国語教材の数々を執筆している。“稲むらの火”が掲載されてた巻十でも,全27編中彼の手になる教材12編が採録されており,教育関係者から高い評価を受けている。その井上氏はなんと、八雲ゆかりの松江中学の出であった。彼は,梧陵ゆかりの耐久中学出身の中井氏の作品に対面して.どんな感慨を抱いたのであろうか.教材を介した2人の出会いは奇しき因縁であったといえる。

中井氏は,教材を執筆するにあたり,もっぱら八雲の物語に沿って全体をまとめた。そして「生ける神」の内容を巧みに変えている。では,なぜ,中井氏が実話に詳しいにもかかわらず“稲むらの火”をもう少し事実に近い形で書くことを避けて八雲の物語に従ったのか、御本人の談によれば,“八雲の物語は,梧陵の実話からヒントを得たとはいえ小説のようなもの,自分は,その八雲の物語を改作するのであるから,八雲が設定した話の筋を尊重するように努めた”とのことであった。だが、中井氏の作品は,八雲の物語と比べると,極めて簡潔な構成になっている。

話の冒頭に“これはただごとででない”という台詞をおき、ー気に読者を緊張と不安の情況に誘い込む,などは,その典型である。これに対して,八雲の物語は,名文とはいえ,導入部のみならず全体的に冗長な感じを与えている。

八雲は,村人が“火”の意味を知り五兵衛に感謝する場面の後も“家が残っている。大勢の入る場所はある”と五兵衛に語らせたりしているが。中井氏は,村人が粛然と頭を下げる光景で物語を打ち切った。

また,氏は,脇役の孫のTada(忠)を除外し、人物の焦点を五兵衛一人に絞る;など,状況を箇素化した。そのほか,細かい字句に対しても冗長を抑え,言外に意味が伝わるよう気を配っている。その反面,物語の核心部である稲むらへの放火では“もったいないが,これで村中の命が救えるのだ”と自問自答する五兵衛の独り言を加え,子どもの読者が物語の主題を正しく理解できるよう助けている。氏の並々ならぬ教育的配慮と文章表現の力量には,感服するばかりである。

(3)国語「稲むらの火」中井氏の物語の特徴は、結果として人のあるべき姿としての「徳目」を暗黙に子供たちに提示していることにある。

たとえば、

◎異常事態では人生経験の豊富な年長者の判断が貴重であること。
五兵衛は、過去に体験したことのない揺れ方を異常と感じて、津波の到来を予知する。これにより、年寄りの長い人生で培った経験が、いかに優れたものかを暗示している。

◎人命は、他の何物とも優って尊いこと。
「もったいないが,これで大勢の命が救われるのだ」と五兵衛にいわせる。稲むらは貴重な財貨である。当時は米一粒も粗末にするな、という時代であった。それを灰にすることで,人命がなによりも優ることを、

あざやかな対比として強調する。

◎災害時には,とつさの機転,発想の転換がいかに重要であるか、ということ。
貴重な財貨に間髪を入れず火を放つことは、通常なら重大犯罪である。五兵衛がとっさにこ固定観念を突き破って見せることで、発想の転換の重要性を説いている

◎危機場面では、体力に優る若者は、率先して事に当るべきこと。
五兵衛が放つた火をみて,20人ほどの青年が高台へ真っ先に駆けつけることで、危機に臨んで青年の取るべき投割を示唆している。彼らは、伝令として再び高台を下ったに違いない。

◎冷静に状況を把握して、所期の目的の徹底を図るべきこと。
混乱の中で五兵衛が高台に登ってくる人たちを数えて、もれがないかをチェックすることで,それを教えている。“計算”で沈着と合理性を連想させる。

◎互助の精神が大切であること。
五兵衛の前にひざまずいた村人は頭を下げる。感謝の心が強く伝わる光景である。この物語の巧みさは,多くの徳目と教訓を舎みながら、直接には語らずに、ただ暗示にとどめていることである。まきしく「国語」であり「道徳」の教科書ではないのである。

このことは「徳目」を教える方として,無言であっても、「情感」に訴えることにより,優れた効果を生むことを立証して見せているのである。“稲むらの火”の巧みさは、徳目の提示だけでない。これらの徳目を子どもたちに印象づける、優れた情景描写がある。これが子どもたちの情緒を強烈にゆさぶる、いわば舞台照明の効果となっていることである。

物語の発端から、黄昏(たそがれ)の暗い海の無気味な海鳴りが聞えるような、重苦しいい情景。一転して,宵空を焦がし,
あかあかと燃える火。山寺の早鐘の音。それは、絵具で画いた恐ろしいサイケデリックな世界である。不安と興奮が交叉する緊張の情景を子どもの心に刻み込む。それは、実景以上に視覚的である。津波が去り、唖然とする村人に静寂が戻って,五兵衛に頭を下げるラストシーンでは、作者は、再び火を燃えあがらせて、舞台を盛り上げる。心憎い気配りである。このような、映像的効果と、少々重苦しい文体という膳立てがあって、はじめて物語の主題が子どもの心を揺さぶるのだといえる。八雲の物語にしばしば見られる人間的な生臭さを切り捨てて,簡潔な構成にまとめた中井氏の作品は結果として,読者に壮厳な感情を抱かせ、倫理的な側面を一層強く浮き彫りにした。このような計算し尽した工夫があればこそ、当時の子どもたちに強い感銘を与えたといえる。

《4》物語“稲むらの火”の再燃 昭和20年、太平洋戦争の敗戦の秋,中丼氏は教職を去る。このとき,氏は37歳の若い小学校長だった。教職にあった者としての責任を感じたから,という。その頃の“稲むらの火”は第5期教科書・初等科国語六に載っていたが,幸い墨を塗られないで残ったものの,間もなく米占領軍の指示により,戦中の国定教科書が廃止され,この物語も消えてしまう。中井氏は,当初から自分が“稲むらの火”の作者であることを,ほとんど語らなかったので,それを知る人はごく身近かな人々に限られていた。それも手伝って“稲むらの火”の話は、その後一部の道徳教科書に掲載されたが,次第に世人の記憶から遠のくかのようであった。

だが,“火”は消えていなかった。再燃の契機は昭和58年(1983年〕5月26日の日本海中部地震(M7.7)である。このときの死者104人のうち,100人までが津波の犠牲者だった。なかでも悲惨な出来事は、教帥に引率された小学生たちが地震直後の海岸で津波に襲われ,13人の幼い命を失ったことであった。この衝撃的なニュースが全園に流れたとき,多くの人々は,やりきれない思いに心を痛めた。その中で“大地震のあとで津波を警戒するのは当然ではないか。

そんな初歩的常識を知らないのか”と怒りに近い声を拳げたのは,概して年長の世代だった。彼等は,かって少年の日に学んだ物語の鮮やかな記憶を呼び醒ましたのである。「“稲むらの火”を学校で習っていたら,このような悲劇を防げたのではないか」という声を大阪読売新聞に寄せたのは,中井氏と同郷の和歌山県出身の五嶋隆春氏であった。この投書は,大きな反響を呼んだ。それが機縁となって,再び`稲むらの火”の物語が多くの人に知られることとなり,作者の中井氏も表面に立たされる結果となった。

昭和58年9月1目の地元の紀州新闘は『作者はなんと郷土の人』という大見出しで,作者・中井氏と“稲むらの火”の物語を紹介している。最初に問題を取り上げた五嶋氏自身も、その時点では中井氏の存在を知らなかったという。五嶋氏は,この人間愛の物語の普及活動を,いまも続けておられる。昭和の初期“稲むらの火”が登場したとき,当時,防災教育を唱え鋭意尽力されていた今村明恒氏は,乙の国語教材“稲むらの火”を絶賛し,「これを教える際に物語の出典と実話を添えれば,効果は更に高まる」と述べた。そして「教え方の如何によっては,児童をして終生忘れ難い感銘を覚えしめることも不可能ではあるまい」と予言した。それから,半世紀に及ぶ長い年月を経て,今村氏の予言は,ものの見事に的中した。これを学んだ昭和ヒトケタ世代が劇的に実証して見せたのである。しかも,実話や出典の知識の有無には全く関係ない見事な結果であった。

【5】伝えたい“稲むらの火”

いまから百年以上前,“稲むらの火”は紀州海岸の広村で点火された。その“火”は,あたかも聖火をリレーするごとく,人々に語り継がれて現在に至った。長い歳月の中で主要な節目に登場した人物は,もちろん濱口梧陵と小泉八雲であり,また中井常蔵氏であった。興味深いのは,これらの人が共通して`教育者”であったことである。

濱口梧陵は,若くして私学校を開き,自ら教鞭をとった。“五兵衛”は教師だったのである、小泉八雲は、よく知られてるように松江中学ー旧制熊本高校一東京帝国大学と転じながら,長く教職にあった。そのかたわら,日本の風俗・文化,さらには精神を海外に紹介することに努めている。彼の日本研究の素晴しさは,土着の僧侶や農民の心に視点を据えて,その理解に力を注いだことであろう、

彼は,その優れた眼で,梧陵の精神を見つけ出し,物語の形式を借りて西欧社会に紹介したのである。今日,和歌山県人を除けば,濱口梧陵の名を知る日本人は,どれほどいるだろうか。以上の2人に加えて、中井常蔵氏も教職にあったことを考えると,現在“稲むらの火”の物語が人聞愛を中心に据えた防災教育教材の傑作と讃えられるのも,なにか当然のことであるように思われる。しかも、この物語生誕の周辺には実に多くの善意に満ちた人々の感動的な逸話が残されている。八雲流の文章表現を真似れば、たくさんの崇高な魂が時空を越えて見えない糸で結ばれている,とでもいうべきであろうか。それをいうならぱ,八雲が晩年好んで水浴に通ったという静岡県焼津海岸は、近い将来くるかも知れない東海大地震で,津波の被害が予想されている。これも,なにか因縁を感じさせる話である。

今年は,濱口梧陵の没後100年を越えた。“稲むらの火”は、いつまでも燃え続ける火として世に伝えたいと思う。

追記:「稲むらの火」の全文は後掲の通りである。現在とは用字・用語が異なるが,そこでは、漢字を現在のものに変え,送りがなは当時のままに残してある。“小学国語読本巻十”とそれに続く“初等科国語六”とでは,物語の内容は,同じであるが。
厳密にいえば,後者は難漢字がひらがなに改められたり,細部の表現が少々修正されたりしている。

(1986年3月稿,6月改稿)