16 12月

防災教育と「稲むらの火」

防災教育と『稲むらの火』
「歴史地震」第12号 213-221頁 (平成8年(1996)歴史地震研究会)より
和歌山県有田郡広川町 中央公民館・清水 勲

1.燃え上がった『稲むらの火』

 昭和58年6月26日秋田県沖に発生した日本海中部地震津波(M7.7)で犠牲者104人中、たまたま遠足に来ていた児童13人が津波に巻き込まれ幼い命を失った。「もし、あの教材で教え ていたら…‥・」という声が全国から新聞社等に寄せられた。あの教材、それは『稲むらの火』である。

************************************
(『稲むらの火』の原文を引用)
************************************

2.『稲むらの火』の里

 この教材で学んだ読者(60歳代)のみなさんには、その記憶も新たによみがえってくるかと思います。戦時体制下、数ある教科書教材の中で、これ程までも当時の子供の心をとらえてはなさなかった五兵衝の崇高な人間愛・郷土愛は、今も鮮明に脳裏にやきついているのではなかろうか。ところが、この物語には実話があり、その由来や五兵衛のそれ以上について知る人は案外少ないようである。
 紀州広村、現在の和歌山県有田郡広川町広がその舞台であり、主人公の五兵衡はこの地の偉人、濱口梧陵である。また、この地を襲った地震・津波は、今を遡ること142年前の安政元年(1854年)の南海地震の出来事である。
 広付は和歌山県の海岸線で広湾を抱え、その外洋は紀伊水道へと広がっている。昔から風光明媚の景勝地として親しまれていたが、他方地震による津波の被害も多く、その度に村は甚大な打撃を受け、嘗て栄えた広村は次第に衰退の一途を辿ってきたいきさつがある。

3.濱口梧陵の生い立ち

『稲むらの火』を語る前には、どうしてもまず主人公濱口梧陵の生き方について言及しておきたい。
 濱口家は1700年の初頭(元禄13年)広村に本宅を持ち、千葉県銚子に進出し、醤油の醸造と販売を始め、その販路を江戸に広めて事業を拡大し、実業家として活躍したいわばこの地の豪族でもあり、現在もその事業を受け継ぎ名声を高めている。
 ところで、ここで述べる梧陵は文政3年(1820年)に生まれ、濱口家7代に当たるが、小さい時から才知に富み、少年時代から将来への志高く、広く諸学に精通していた。20歳で結婚し、文武両道に磨きをかけるとともに、広く師友を求めて止まなかった。「その人を知らんと欲せばその友を見よ」と云われるが、梧陵が最初に世界に目を開いたのは、銚子で開業していた蘭医の三宅艮斉である。当時日本の近辺に外国船が出没、幕府もその対応に苦慮していた時代であった。
 梧陵は勤王家でもありまた開国論者でもあった為、日本の進路に頭を痛め、海外問題に精通していた佐久間象山や勝海舟と共に兵学や砲術の研究をはじめ、鎖国や開国の得失等についても考究していた。進んだ海外の文化文明を学ぶべく、海外渡航を目論んだが、鎖国の壁が高く成就しなかった。このため日本の将来は、若者の奮起と人材育成が急務と考え、郷里広村に帰りて『崇義団』の結成や文武両道の私塾を開設、後に『耐久社』と名づけて子弟の教育に尽力した。その私塾は今も耐久中学、耐久高校へと建学の精神を受け継ぎ、145年の歴史・伝統を誇っている。
 当時梧陵が常に抱いていた心は、郷土の充実と国家の発展であった。

4.暗夜に燃える稲むらの火

 「災害は忘れた頃にやって来る」と言われるが、嘗て宝永4年(1707年)の大地震・津波で、広村で死者300人近くを出した。それから147年後の嘉永7年6月15日(1854年7月9日)夜地震があり、村人は津波来襲を恐れて高台に避難し一夜を野宿した。この地震は伊賀・伊勢・大和の地蕉(M7.3)と呼ばれており、震央は奈良、三重の県境と考えられている。この日は丁度夏祭りの夜であった。幸い津波がなく村人は帰路についたが、その後「今年は津波が来る」と云う流言が盛んであった。この噂が5か月後に的中した。
 嘉永7年11月4日(1854年12月23日)朝9時頃地震があり、村人は高台に避難した。この地震は世に云う安政の東海地震(M8.4)で太平洋の東海地方に津波が来襲し、死者約10,000人と云われている。このとき広村の海岸に約2メートル近い津波が打ち寄せているが被害がなかった。明けて11月5日夕刻の5時頃激震があり、梧陵は村人に高台への避難を指示した。この地震 は安政の南海地震(M8.4)といわれている。「その激烈なこと前日の比にあらず…・」と梧陵は手記に残している。この地の人達は常に地震があれば津波来襲を予想し、高台に避難することを代々言い伝えられていた。特に宝永4年の大津波が大きな教訓になっていた。
 やがて夕やみ迫る広村に、波高8メートルの津波が押し寄せた。梧陵は濁流に流されながらも身を挺して村人を助け、陸に上がりて後、若者を従え積んでいた稲藁に火をつけ、逃げ遅れた人達の道標としたのである。
 「この計空しからず此に頼りて万死に一生を得たるもの少なからず」と記しているが暗夜に燃える稲むらの火によって、実際男女9名の人達がこの火によって助かったと言われている。

5.緊急対策

 一夜にして変転した広村の惨状は誠に目を覆わんばかりであった。避難民でごった返す八幡 神社や近くの法蔵寺境内にあって、梧陵は被災者の飢餓を救わんと、現在で云う“災害対策本部長”として米の借り入れに東奔西走、自らも米200俵を醸出しながら、数日間1400人の飢えをしのいだ。家屋や家財の整理や道路の復旧作業をはじめ、私財を投じて家屋50軒を建て、極貧者には無料で居住させるなど、数々の献身的活動が続いた毎日であった。

6.復興対策

 耕すに田畑なく、漁をするに網なく、村民の窮状誠に惨憺たるものであった。村人は働く気力を失い、ただ天災を慨嘆するばかり、ある者は村を背に離村する者も少なくなかった。このまま放任か、飢餓にならなければ離散の道しかない最悪の状態でもあった。
 この為広吋が今後津波に対して安全な村づくりを確立し、合わせて罹災した村民に職を与えるため、梧陵は血族一体となって大堤防建設を計画、藩の許可を得、安政2年の2月工事に着手した。工事が始まると、これに従事する村人、日々400~500人、罹災者の職なきものは殆ど参加した。殊に1日の労働を終われば各自にその日の労賃を支払うなどした為に、村民の喜びは一方ならず。離村を考えた者も思い止まり、生きる活力を得、勤労意欲は増し、嬉々としてこの工事に従事したと云われている。
 約4か年の歳月をもって、全長600米余、高さ5米、根幅20米、人夫延人員56,736人をもって完成。その費用銀貨94貫344匁、その殆どを梧陵の私財でまかなった。
 この他、広村再興の為、道路の整備、橋の掛け替え工事、住宅の建設等、梧陵の出費した額は堤防工事の約3倍、銀貨270~280貫(約4,600 両)と言われている。その他、内々支出した費用も加算すれば、かなりの額に上ったものと言われている。

7.生ける神

 津波来襲こ対する梧陵の犠牲的献身的な活動と、物心両面にわたる恩恵について、村人たち誰もが知らない筈がなかった。その為『濱口大 明神』を建て、その徳に感謝しようと計画した がこれを聞いた梧陵は、強く辞退したため神社建立が中止されたが、村人の心の中には常に大明神として崇拝しない者はなかった。

8.各界での活躍

 梧陵の果たした功績は地方ばかりでなく中央における活躍も列挙すれば枚挙にいとまがない。学較建設への援助や、医学方面への人材育成のための資金の提供をはじめ、明治4年、大久保利通の推挙で駅逓頭(郵政大臣)、和歌山県大参事や初代県会議長として中央・地方の指導者として活躍した。
 老いて益々盛んな梧陵は青年時代の宿願を果たすべく一切の公職を退き明治17年欧米視察に旅立ったが、ニューヨークで病にたおれ、その看病も空しく、明治18年4月21日数々の業績を残して享年66歳の生涯を閉じた。

9.生かされた堤防

 昭和21年12月21日(1946年)南海道地震(M8.0)が発生、広村に波高4mの津波が来襲した。しかし市帯地はこの広村堤防のお陰で一部を除いて浸水を免れた。ただ、江上川を逆流して押し寄せた潮流により、死者22名を出した。この被害者の半数は他府県出身者で、津夜来襲を予知できなかったと云われている。

10.『稲むらの火』の由来

 明治29年(1896年)東北の三陸沿岸を襲った大津波で、2,2000人の死者を出す大災害が発生した。この悲惨なニュースを知った小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、嘗て耳にしていた和歌山県広村で起きた地震・津波で村人を救った濱口 梧陵の美談を思い出し、濱口儀兵衛を主人公にして『A Livibg God』(生ける神)と題して短編を書き、明治30年国内を初め海外にも紹介した。爾来この作品は、我が国では英語の学習教材として専門学校や大学等広く活用されていた。
 この短編の内容は実際に起きた広村での実話と多少の違いが見られる。例えば濱口儀兵衛の名は五兵衛になっていることや、梧陵は当時35歳の壮年であったが、年老いた村の有力者となっていること。また儀兵衡の家が実際は低地にあったが高台にあるとしていること、しかも、村人は宵祭りのため津波来襲に気づかず、その為稲むらに火をつけて村人を集めたとしているが、実際は宵祭りなどなく、避難に遅れた村人たちの道標として稲むらに火をつけたことなどである。
 それは、八雲は、梧陵(五兵衛)の偉大な存在を強調するために、種々の文章手法を試みたものと考えられる。しかし全体として梧陵の果たした崇高な人間愛・郷土愛は本質的に何ら変わることはない。
 昭和9年文部省は、第四期国定教科書の制定に当たり、国語と修身の教材を全国から公募した。この頃、八雲の『生ける神』の英文に感動していた27歳の一青年教師中井常蔵氏は、五兵衛の心を子供の心に植えつけたいと願って、八雲の『生ける神』を中心にして子供向け教材に書き改めて応募し、見事入選したのがこの『稲むらの火』である。爾来この教材は昭和12年から10年間、国定教科書に採用され、全国の子供達に深い感動を与えたのであった。
 当時防災教育に尽力されていた地震学者今村明恒は『稲むらの火』を絶賛し、「教え方の如何によっては、児童をして終生忘れ難い感銘を覚えしめることも不可能ではあるまい」と、予言したということである。
 八雲のやや冗長な『生ける神』の文章に比べて、中井常蔵氏の『稲むらの火』は、極めて簡潔で、読者の心を引きつける緊迫感のなかで、人命尊重の活動がリアルに表現されている。しかし、戦後の教科書の改編に伴い、この教材は学校現場から姿を消した。

11.『稲むらの火』に学ぷ

 昨今『稲むらの火』の主人公五兵衛の崇高な人間の生き方が、防災教育に果たす役割が極めて高いことが注目され、学較現場に再び活用の気運が高まってきた。
 とりわけ最近の地震・津波の例に出すまでもなく、突如として起きる非常事態に如何に対応すべきかは、子供にとっても、大人にとってもこの教材から学ぶことが非常に大きいのではなかろうか。その主なことがらを列挙してみよう。第一に、なにより文学的な価値の高さは言うまでもない。
 第二に、老人と若者の役割分担である。災害が起きたとき、人生の達人としての老人(指導者)は、その長い経験を生かし若者に指示を与え、又若者は身軽な活動できる能力を発揮することの大切さである。
 第三に、状況判断と対処の仕方である。高台から見ていた五兵衝は、津波がやって来るという危機感を抱き、瞬時における状況判断と対応の仕方である。現在は高度な文明社会とはいえ、ひとたび災害にあうと、そのよさがまったく機能しなくなる状況を想定しておかねばなるまい。同時に、高台にいる人、それは社会的に高い存在(指導的立場)と置き換えてもいい。指導者としての危機管理のあり方が問われている現在、心すべきことではなかろうか。
 第四に、村人の生命を守ることがこの教材の真髄であるが、高台に上がってくる村人を一人一人数え、確認している細心の配慮も学びたい。最後に災害は何より人命尊重の心を基底にして、相互扶助の精神と村人はこの火によって助けられたのだという感謝の心が村づくりの原点ではなかろうか。

12.燃やそう『稲むらの火』

 昭和62年の防災の日、『稲むらの火』の果たした功績が大きいとして、作者中井常蔵氏が国土庁から防災功労者として大臣表彰を受けた。60年前の作品が今こうして認められたことは極めて異例なことである。
 毎年11月3日、ここ広川町では史跡広村堤防に立つ『感恩碑』の前で、全国でも珍しい“津波祭り”が行われている。災害で町の復興・発展の為に尽くした先人の偉業に感謝すると共に、災害のない住みよい町づくりを希求し、あわせて防災に対する心構えをこうした行事を通して心新たにしていることの意義は大きい。
 時代の先覚者、濱口梧陵翁の偉業や遺徳は、生ける神として、また『稲むらの火』として、災害時に人命尊重の理念や具体的な活動を通して、世の大人や子供達に問いかけた意義は大きい。災害の多い我が国にあって、今後も不朽の名作『稲むらの火』は燃え続くであろうし、又燃やしつづけなければならないだろう。

——————————————

編集後記

 この文章は1996年9月14日に行われた(歴史地震研究会の)見学会の際の解説を、ご本人の清水勲舘長に文章化していただいたものです。

 なお、濱口梧陵の生涯についての参考文献として次の書籍があります。

平川祐弘,「小泉八雲西洋脱出の夢」「小泉八雲・日本の心」
      講談社学術文庫
三好 寿,「いなむらの火」の史実(I),(II) -1854年の津波をめぐって
      地震(地震学会編)1966-09