13 12月

稲むらの火 
-忘れないだけでは津波災害は防げない-

「稲むらの火」 –忘れないだけでは津波災害は防げない–
「地震ジャーナル」 38号(2004年12月)27-28頁

  津村建四朗 著

1854年安政南海地震津波の際、紀州広村(現・和歌山県広川町)で起こった出来事と1896年三陸地震津波をヒントに、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、献身的な活動で村人を津波から救った感動的な物語、A Living God を創作した。これは後に、地元の小学校教員中井常蔵によって教材化され、「稲むらの火」という題で国語読本に採択され、1937年から約10年間小学校で教えられた。これによって、津波災害の恐ろしさと機敏な避難行動の大切さをこれを学んだ児童の脳裏に刻みこんだ。この経緯は、物語や教材の原文とともに、本誌(12号、1991年)でも以前解説した。この中で、実話の舞台である広村では、昭和南海地震津波の際には、実話の主人公浜口梧陵が私財を投じて築いた広村堤防に護られて街並みは小被害にとどまったにもかかわらず、死者22名という大きな人的被害を出したことを、筆者の体験も交えて紹介した。
その後、この惨事の翌年に、今村明恒が、「昭和の南海道大地震津波につき広村の人々に寄す」という文書を村に送り、それが広町発行の小冊子「和歌山県広町津波略史と防災施設」(1952)に収録されていることを知った。これは今村の南海地震の予知と防災への取り組みと、それらがほとんど効果を挙げ得なかった経緯を自身で総括された重要な文書であるが、あまり知られていないので、以下に広村に関する部分を中心に紹介する。

「 ・・・・かくて余が後援者の下に払った十数万円の研究費も、18年間の努力も、無為に終わったようであるが、併し全くの水の泡であったとは思っていない。余は府県別町村別将た港湾別に、宝永安政両度の震火波の三災を調べ上げ、将来の変異を災禍たらしめないよう、当局に進言し勧誘していたのである。成果が期待ほどに挙がらなかったのは、余の微力に由るこというまでもないが、従来吾が国民の災害予防に対する関心の薄かったことも指摘せざるを得ない。
南紀の広村についてもそうである。浜口梧陵心尽くしの防波堤も、二ケ所の切り通しの為にその実効の薄らぐのを惜しみ、せめて鉄扉の働きだけでも有効にしたいと考え、村役場に突如闖入して其の付け替え方を薦めたこともある。又防波堤の出現は、広川と江上川とを津波進入の主要な地帯となさしめ、従って津波の主力は逸早くこの地帯に沿うて進入するから、建造物を他に移すか、避難道路は之を避けて計画すべきである等の注意を、小学校の職員室においても陳述したことがある。特に耐久中学校の位置の危険なるは屡々県当局の注意を促し、余と同県の出身たる(福元)学務部長に殊にこれを力説したこともあった。余は考えた。若し余が物した「稲むらの火の教え方に就て」という一編が、災害予防に関心をもつ人達に読まれたら波災は大いに軽減されるであろう。況や、この小編は浜口家の好意に依って、村には多数寄贈されたではないかと。然し事実は果たしてどうであったろう。鉄扉はすらすら自動的に閉じたか。耐久中学校は如何。江上川には水難者は無かったか。これらは今更余が問うまでもなく、村の人達が熟知している事実である。」

同村育ちの私の記憶では、戦時中にもかかわらず毎年の津波祭りは行われ、村人は津波のことを忘れていたわけではなかった。しかし、戦中、戦後の混乱期でもあり、今村の助言は活かされていなかった。ほとんどが、「稲むらの火」のように、津波の前にはいったん潮が大きく引く、それを見定めて逃げればよいと思い込んでいた。地震直後、広村堤防の上には漁師たちが集まり、「潮に異常がないから津波は来ない」と話し合っていたという。実際には、津波は数十分後に顕著な引き潮を伴わずに押し寄せた。津波を目撃したり、押し寄せる不気味な音をきいてからの地元住民の避難は迅速で、津波に追われながらも死者は3名にとどまった。一方、今村が危険性を指摘していた江上川沿い(堤防外)では、紡績会社の社宅付近で18名、中学校構内で1名の犠牲者が出た。ここでは、立地条件の悪さに加え、津波についての知識のない他県出身者が多く、避難が遅れたからと言われている。なお、鉄扉は錆びついていたが、近所の住民が掛け矢をふるってかろうじて閉じ、浸水は防がれた。

今村の文は、「 凡そ天災は忘れたころに来ると言われている。併し忘れないだけで天災は防げるものでもなく、避けられるものでもない。要は、これを防備することである。」という言葉で結ばれている。

近年、東南海地震・南海地震が今世紀前半にも発生する可能性が高いという認識が高まり、防災対策の強化が急がれている。 一方、昨年来、震度5弱以上を観測した地震が何度か発生し、津波警報・注意報が発表されたこともあったが、海岸の住民や自治体の対応は必ずしも迅速・適切なものでなかった、「津波見物」に海岸に住民が集まるケースさえあったと伝えられている。これらに関連して、「稲むらの火」が防災意識の高揚に絶好の教材としてしばしば取り上げられている。筆者もそれは大変有意義であると考え、「稲むらの火のホームページ(http://www.inamuranohi.jp)」作りに協力したりしている。しかし、今村が指摘するように、ただ抽象的に「津波を忘れない」だけでは十分ではなく、津波と防災についての正しい知識を持ち、自助、共助、公助、それぞれの立場で、自らの問題として具体的な備えをしなければ、災害は防げないことを、昭和南海地震津波の広村の事例が象徴的に教えているように思われる。

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