16 12月

稲むらの火 −児童防災教育の在り方−

稲むらの火 -学童防災教育の在り方-
「予防時報」153号 1988年 子供に聞かせるシリーズ-②より
放送大学教授 林 知己夫

 今ここで私の書いていることは、子供に読んで聞かせる話ではない。子供に聞かせたいのは、本稿の中に載せてある「稲むらの火」である。これは、小泉八雲「生ける神」をもとに、中井常蔵先生が作られた文章である。昔の小学校の国定教科書・小学国語読本(巻十-五年生用-第十)に採り上げられたもので、多くの人々の記憶に今なお生きているものである。この話の位置付けを書いて「読んで聞かせる」方々の参考になればと思い、その前座をつとめているわけである。  自然災害による第二次災害を軽減させるための研究はかなり多く行われている。第一次災害軽減には自然科学的な立場からのものが多いが、第二次災害においては人文・社会科学的なアプローチがことに大事な意味をもっている。さらに、被害復旧に関することについても、人文・杜会科学的アプローチはまた重要な研究課題になっている。
第二次災害は、人によって、組織によって引き起こされることが多いので当然のことであるが、大地震のようなものにあっては、予報、警戒宣言のような厄介なものがでてきたので、ここでも、人文・社会科学的な研究が必要となってきた。こういうような予報は予知研究と異なり、不可逆的な意昧を持つ-ここが自然科学との大きな差異である-ものであリ、これに基づく警戒宣言はますます社会的事象であるからである。
地震予知の正確さが充分評価できなくても予知の研究は成立するが、これでは予報に結びつけることはできない。正確さの現実的意味-確率で表現できるか、できないかもいまだわかっていないと思われるが、いずれにしても正確さの科学的表現がなくてはかなうまい-が充分把握されないまま予報とくれば、これは非科学的といおうか、無責任といおうか、これ以外のものではない。これに基づく警戒宣言は科学的判断というより一つの政治的施策ということになる。ますますその人文・社会科学的な研究を必要とするものになる。

話が脇道にそれたが、いずれにせよ、災害現象において、従来よりも人文・社会学的研究の重要性がますます認識されだしてきた。こうした研究においては、事例研究や予想・想定状況に基づく調査研究が行われやすいのである。これがそのまま、これからの災害対策に流用できる情報となるものではない。事例研究では、何が一般に通用する情報であり、何がその場、その時々の特殊な事柄のものであるか、が容易に識別できないからであり、予想・想定調査はそれなりのものであり、これがそのまま現実に起こるとは限らないからである。事例研究から一般に通用する情報を抽出し、予想・想定調査から妥当な情報を摘出するアイディアが不可欠のことになる。これは、なかなか難しいことであるが、これなくしては重要な意味はない。また、実験・それに関する調査もよく行われるが、これから一般的情報を取り出す配慮がなくては役には立たない。私もいろいろこうしたことに携わり、災害現象において有用な人文・社会科学的研究の在り方を考えてきたのであるが、私としては、もっとも一般的・基本的な事柄である防災教育の問題を中心に研究することに決めて、目下それを考えているのである。こうした、基礎ができていれば、諸々の防災対策が有効に機能すると考えたのである。防災教育として何を採リ上げるかを考えたとき、先ほど述べた「稲むらの火」が頭をかすめたのである。それで小学校の学童防災をもっとも基本的なものとして研究を進めることにしたのである。この防災教育は「もの心」ついた子供に、望ましい防災の教育をすることであり、これがしっかりできていれば、それ以後の防災教育は地についたものになり、いわゆる防災文化の形成に大いに役立つと考えたのである。
こういうわけであるから、私の考えている防災教育は、災害を避けるノウハウ教育のみではない。防災に関する基本的な考え方を情緒的に感得させることを目標としている。これを小学校における防災教育の中核に据えたいと思ったためである。ここの底流にも「稲むらの火」があったのである。もちろん、低学年では防災の基礎的なノウハウを教えることになろう。心に立ち入るには、少し早すぎるように思う。高学年、特に4、5年生ぐらいに防災の重要性を情緒的に理解させることが重要であると思われる。これは私の経験から、また他の人々との対話からそう感じたのである。
余談にわたるが、私の研究の歴史をみるとき、小学校の国語教育が色濃く影を落としているのである。たとえば、森林調査では「山林経営の話をしている親と子の話」、国民性調査では「日本人の国民性」といった文章のことが直ちに頭に浮かぶのである。「稲むらの火」もその一つである(これについては後述する)。

こうして、ノウハウ教育から進み、情緒的教育で防災の重要性が心に刻印されるならば、あとは防災の科学、防災の技術、防災の社会、が自然に身についたものになり、防災文化の形成が素直に成育する。今日、地震情報でマスコミ関係者が必ず口にする「知る権利、知らせる権利」「言論の自由の圧迫」というような次元の異なった見当違いの発想が消滅してくる(このほかの問題では理由をつけて報道の自主規制は随分行っているではないか)。
さて、私どもの研究では、上に示したような意図で学童防災を中核に据えて考えを進めている。  まず、一般の人々に対する調査をしてみたのであるが、防災の三本の柱が、防災準備(の十分性)、防災訓練(への参加)、災害を切り抜けられる自信、であることがわかった。しかも、その自信は、被災体験とそれを切り抜けた経験により得られるものであることがわかった。被災体験とその切り抜けは、過去の事象であって、これから望んでも得られるようなものではない。これは防災教育の一環としての疑似体験によって得るほかないものであろう。
今度は、防災教育に関する調査を、防災教育を小・中・高校において受けた人々や、また、小学校学童に対して行ったところ、頭から入った防災教育の印象希薄なこと、身体を使う防災訓練は記憶によく残っていることなどがわかり、また、身体を使ってスリルのあることが好きだ、というようなこともわかった。こうみてくると、防災訓練の在り方に、イベントづくリの重要なこともわかってくる。
また、親や先輩から被災のときの話を聞いて印象に残ったことを質問したが、大人の話は防災に対してなんの情報も与えていないこともわかった。実に貧弱なことしか語られていないのである。向こうの空が赤かった、腹がへって困った、B-29が焼夷弾を落として恐ろしかった、というようなことである。せめて「火事のため強風が起こり、屋根のトタンが空に舞った」とか「火の粉が川の水のように流れていった」とかの話もあってよさそうだったが、それもなかった。ただ、大人にも情緒的な感情は残っているということはわかった。
このようにみてくると、防災訓練は、情緒的な感動をもとに、イベントづくりによる防災訓練を行うことの大切なことが仮説として浮かび上がってくる。また、これまでの防災訓練が消極的な避難訓練であることが多く、災害に立ち向かい、これを克服するという姿勢の積極的な訓練が不足していたようにも感じられた。こうしたことを学童にどのような形で教えていくか、学校の場において、また家庭において、また地域社会においてである。これは今後の課題である。

さてここで、焦点を学童に情緒的に防災の重要性を教えることに絞ろう。前にも述べたが、私はこれは国語教育によるのが最適と思っている。理屈の勝つ理科や杜会科、その他おまけのような教科ではなく国語教育の一環としてである。それも「作者はどう感じたのでしょうか」というような鑑賞的・文学的国語教育ではなく、情緒を培うノンフィクション的国語教育である。
私は国語教育で「稲むらの火」に心を打たれ、防災の重要性を知ったといった。しかし、これはどうも本当ではない。私の時代の国定教科書には「稲むらの火」は載っていなかったのである。「稲むらの火」はもっと後年の人たちが習っているのである。私が研究会で、学童防災教育で、「稲むらの火」のような情緒的教育の重要性を話したところ、皆それを覚えていたのである。心ある人は、そうだそうだということになった。その後、会う人ごとに「稲むらの火」の話をすると、たいていの人はその内容を覚えているのである。これは恐るべきことで、国語教育の力を感じたのである。
私の心の中にあったのは、小泉八雲の「生ける神」(A Living God)のようである。小学校4年のときのようであるが、先生がいろいろの名作を読んでくれたのを覚えている。西遊記やロビンソンクルーソー、宝島などもあったと覚えているが、内容がぞっとするほど鮮烈であったのは「生ける神」であった。津波の兆候、その恐ろしさと、これを切リ抜けた力の印象が強く焼きついたのである。これが私の地震知識の根源であったのである。

これ以上私のいうことはない。学童の心の発達に適合した情緒的インパクトを基盤に、防災に立ち向かう教育が行われることを期待してやまない。防災の願いをこめて「稲むらの火」を読んで聞かせてほしい。
(以下は国語読本からの転載であるが、原文を現代仮名使い、常用漢字表に直してある)。

第十「稲むらの火」
「これは、ただ事ではない。」
とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。今の地震は別に激しいというほどのものではなかった。
しかし、長いゆったりとした揺れ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。
五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。村では豊年を祝う宵祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向気がつかないもののようである。
村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸い付けられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、みるみる海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れてきた。
「大変だ。津波がやってくるに違いない。」と、五兵衛は思った。このままにしておいたら、四百の命が、村もろ共一呑みにやられてしまう。もう一刻も猶予はできない。
「よし。」
叫んで家に駆け込んだ五兵衛は、大きな松明を持つて飛び出してきた。そこには、取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んである。「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ。」と、五兵衛はいきなりその稲むらの一つに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。一つまた一つ、五兵衛は夢中で走った。こうして自分の由のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖のほうを眺めていた。
日はすでに没して、辺りがだんだん薄暗くなってきた。稲むらの火は天を焦がした。山寺では、この火を見て早鐘を突き出し
「火事だ。庄星さんの家だ。」
と、村の若い者は、急いで山手へ駆け出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うように駆け出した。
高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。やっと二十人ほどの若者が駆け上がってきた。彼らは、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声に言つた。
「うっちゃっておけ。-大変だ。村中の人にきてもらうんだ。」
村中の人は、追い追い集まってきた。五兵衛は、後から後から上ってくる老幼男女を一人一人数えた。集まってきた人々は、燃えている稲むらと五兵衛の顔とを、代わる代わる見比べた。
そのとき、五兵衛は力一杯の声で叫んだ。
「見ろ。やってきたぞ。」
たそがれの簿明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線はみるみる太くなった。広くなった。非常な速さで押し寄せてきた。 「津波だ。」
と、だれかが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前に迫ったと思うと、山がのしかかってきたような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとをもって、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のように山手へ突進してきた水煙の外は、一時何物も見えなかった。
人々は、自分らの村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。二度三度、村の上を海は進みまた退いた。
高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は、波にえぐり取られて跡形もなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。
稲むらの火は、風にあおられてまた燃え上がり、タやみに包まれた辺りを明るくした。はじめて我にかえった村人は、この火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまずいてしまった。

何も付け加えることはない。これは小泉八雲のものとともに、実際に存在した事実を基にした、ある意味でのノンフィクションのようである。ここに出てきている五兵衛は、偉大な人物であったようで、津波の後の村の復興、村の人の心を奮い立たせるため、また、津波の予防のため、長大な堤防を築いており、今日でもそれを見ることができる。
こうした偉人伝も書かれているが、これはこれなりに有意義だが、防災教育との関係は薄いと思う。防災という点からみると、ここまで話してしまうと印象が希薄になる。むしろ偉人伝に気をとられてしまう。防災の話としては「稲むらの火」(あるいは「生ける神」)どまりであるほうがよい。