15 12月

津波 - TSUNAMI

津波 – TSUNAMI
あゆみ出版 1997年9月
山下文男

 三陸海岸は、悲劇的な津波海岸として、再び、全国的に有名になってしまった。
今村明恒博士が「三陸海岸は日本一はおろか世界一の津波常習海岸である」と云ったのも、このときである。

三陸津波が契機となって、やはり1937(昭和12)年から、小学校五年生の国語の国定教科書に「稲むらの火」という津波物語が採用され、海、山をとわず、全国の子どもたちが津波の話を勉強するようになった。内容はラフカジオハーン(小泉八雲)の原作(『生ける神』)をアレンジした安政の南海大津波のときの物語であるが、教える過程で、つい数年前にあった三陸大津波のことも、教師によってはあわせて語られたであろう。

やがて、日本国民は、地震よりも津波よりもはるかに恐ろしい戦争を体験することになった。アメリカの爆撃機が雨あられのように落としてくる焼夷弾で火災が発生する。だから火を消し止めることの重要性は形をかえて引きつづき強調され、隣組などによる住民の消火訓練が盛んに行われた。しかし、それとは裏腹に、海岸にいて地震があったら津波の用心という心得は、またも人びとの頭の中から消えていった。

あまり知られていないが、太平洋戦争中から戦後にかけて、わが国は、実はいくつもの大地震や大津波に襲われていた。
1946(昭和18)年の鳥取地震(マグニチュード7.2)、翌、1944(昭和19)年の東南海地震(同7.9)、さらに翌、1945(昭和20)年の三河地震(同、6.8)、戦後1946(昭和21)年の南海地震(同8.0)とつづき、東南海地震では熊野灘沿岸が津波に洗われたし、南海地震でも四国の沿岸と和歌山の沿岸が津波のために惨憺たる被害であった。しかし、戦時中の地震や津波は、軍部による報道管制のために、その被害が極秘にされたし、戦後の南海地震は、お互いに他人のことなどはかまっていられない、いわば一億総飢餓状態の下での災害であったため、被災地以外の国民には、あまり印象深いものにならなかった。戦後の教育改革の中で、津波物語「稲むらの火」は、教科書から削除されていた。

日本国民が久しく忘れていた津波の恐ろしさを思い知らされたのは、昭和の三陸津波から戦争をはさんで27年後、1960(昭和35)年5月24日の、いわゆるチリ津波であった。事前に地震を感じることもなく、北海道から沖縄までの太平洋岸に、突如として押し寄せてきたこの津波は、前の日に、地球の裏側のチリ沖で起きた、史上最大級(マグニチュード8.5)の巨大地震によって発生し、はるばると1万7000キロメートルの太平洋を走ってきたものであった。全国で3500戸以上が全・半壊し、143の命が奪われたが、この度もまた、最大の被害地は三陸海岸であった。とくに大船渡市は壊滅状態で、気象庁の油断による警報の出しおくれもあって死者53人を数えた。志津川町で37人、陸前高田市でも8人が死亡している。

そのため、三陸海岸は、津波海岸として、再び印象ぶかくなり、同時に、津波はおもに太平洋岸、わけても三陸海岸に押し寄せてくるもので日本海側には津波がこないかのような錯角と油断になってしまった。
この油断を尽き、認識不足を思い知らされたのが、まだ記憶に新しい1983(昭和58)年5月26日の日本海中部地震・津波であった。
秋田県では警報システムが作動しなかったなど、防災上さまざまな問題が浮きぼりにされ「防災の虚を突く大津波」といわれたが、最大の問題は、住民の間に「海岸で地震が合ったら津波の用心」という意識が、ほとんどなかったことであった。

戦前の小学校五年生の教科書に載っていた「稲むらの火」のことを、先に述べたが(57ページ)、中につぎのような記述があった。

其の時、五兵衛は力一ぱいの声で叫んだ。
「見ろ。津波がやって来たぞ。」
たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠くの海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。其の線は見る見る太くなった。広くなった。非常な速さで押し寄せて来た。
「津波だ。」
と、誰かが叫んだ。海水が絶壁のやうに目の前に迫ったと思うと、山がのしかかって来たやうな重さと、百雷の一時に落ちたやうなとどろきとを以て、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のやうに山手へ突進して来た水煙の外は、一時何物も見えなかった。
人々は自分等の村の上を荒狂って通る白い恐ろしい海を見た。二度三度海は進み又退いた」

当時、地震学会の機関誌『地震』に「『稲むらの火』の教え方について」という、教師向けの論文を書いた今村明恒博士は、ここにある「人々は、自分等の村の上を荒狂って通る白い恐ろしい海を見た」という表現について、「波と言わずに海と言ったのは自然に適っている。地震津波は海が陸地への移動なのである」と、普通の風波と津波との性質の違いを解説している。つまり、海が、一時、まるごと移動してくるのが津波というわけである。

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1896(明治29)年6月15日、岩手県を真ん中にはさむ宮城、青森、北海道の太平洋岸に襲来した明治三陸津波は、約二万二千人の命をひと呑みにした実に恐ろしい大災害であった。とくに岩手県は、被災地戸数一万二千戸の内、6036戸が全・半壊・流失し、被災地人口の23.9パーセントに当たる一万八一五八人の命が奪われて元の人口を回復するのに、その後二十年以上もの年月を要するほど壊滅的であった。
なぜ、このような多数の死者数になったのか?
もともと、史上、まれにみる巨大津波であり、そのうえ三陸海岸の集落の多くが、波の集まりやすいリアス海岸の湾奥の、しかも海抜一メートルから、せいぜい二?三メートル程度の低くて狭い平地に密着していたこと、さらには前の津波(安政)の体験から、当時の人たちがわりあい津波を甘く考えていたなど、いくつも悪条件が重なったからではあるが、決定的なのは津波に不意打ちされたことであった。それも、誰ひとり津波の襲来を予想する者がなかったという完全な不意打ちであった。

この年のわが国は、一八九四?五年に行われた、いわゆる日清(中国)戦争の戦勝気分と戦後景気にわき、半ば国をあげての興奮状態にあった。東洋一の大国を破って勝利をおさめただけでなく、こちらから仕掛けた侵略戦争であったにもかかわらず、中国から莫大(二億両)な賠償金を獲得したことなどが、あたかも国民の名誉や獲得物でもあるかのような錯覚した国民意識になり、酒屋や呉服商などが特別大売り出しをはじめる騒ぎであった。祝賀会つづきで酒が売れまくり、酒造業界では、例年より一ヶ月も早く新酒を売り出すほどであった。三陸沿岸の村々でも、勲章を胸にぶら下げた従軍兵たちが続ぞくと帰還し、歓迎大会が開催されるなど、戦勝ムードは、その頃、最高潮に達していた。それに、春先から鰯や鮪漁なども順調で、浜は活気に満ちていた。

その日は、新暦の6月15日であったが、当時、まだ庶民生活の基準となっていた旧暦では5月5日、男の節句(端午)であった。
どんよりとした梅雨日和で、朝から小雨が降ったりやんだりしていた。しかし、何はともあれ、正月以来の祝い事である。
大漁つづきなので、いつものように沖に出た漁師たちもあったが、その帰りを待ちかねて、祝いの膳を家族だけで早めに上げる家もあれば、浜から帰る男たちを待つ家もある。節句なので、どこの家でも餅料理に舌づつみをうち、男たちの膳には久しぶりで御神酒がつく。実家や親戚に泊まりに行った、泊まり客がきたなど、いつもより人の行き来があり、この際だと一族朗党が集まって酒盛りの中の家、有力者が集まって祝宴中の家、お日柄がいいと息子の祝言をあげている家、漁師たちが集まってきて博打に夢中になっている浜の番屋など、その夜、村々の節句の祝いは例年になく賑やかであった。
午後八時七分(岩手県・宮古)、初夏の陽が沈んだばかりの宵の口のことであった。年寄りや子どもの中には床に入った者もいたが、まだ、どこの家でも就寝前の者が多く、それぞれにくつろいでいた。昼間から凱旋兵士を迎えての歓迎大会を開催していた岩手県の大槌町では、日暮れを待って始まったばかりの花火大会で、四発目が空高く打ち上げられると同時だったという。
突然、ドドーン、ドドーン、と大砲を撃つような音が二三度した。
「この日は旧暦の菖蒲の節句に当たればとて、津々浦々は親戚家族打ち集い祝い興しつつありしを、午後八時を過ぎし頃、大砲の如き音きこえければ、怪しみて耳欹つる程こそあれ」(岩手県大船渡市洞雲寺「大津波記念碑」明治35年6月15日建立)より)

「大砲の撃つような音」だったとの証言は、これだけではなく、体験談などにもたくさんでてくる。そのため、清国(中国)の軍艦が仕返しに来て、大砲を撃ちこんでいるのかと勘違いした人もかなりいたらしい。場所にもよるが「暗き沖の方、青く光りて」というのもある。いずれにしろ、あれっ?何だろう?この異様な音を耳にして、首をかしげたり、外の様子を伺ったりしていると、いきなりバリバリっと家をなぎ倒すように、あるいは戸障子をけ破るようにして、山のような大津波が押し寄せてきた。
「泡なせる高潮の山より高きが打寄り、遁るる暇もあせらず」(前同)
と、いうのであった。
しかも、その波は、四?五メートルは低いほうで、七メートル、十メートル、はては岩手県吉浜村・本郷(現・三陸町)、広田村・集(現・陸前高田市)、田野畑村・羅賀などでは二十メートルを越し、綾里村・白浜(現・三陸町)の如きは、水準点から三八・二メートルもの高さまで駆け上がる大波であった。
後の調査によると、この津波は、太平洋を横断してハワイでも、高さ五メトールにまで達して被害をあたえ、さらにアメリカの西海岸まで到達してサンフランシスコの近郊などで三メートルを記録していた。
こんな大波が、突如、「狂瀾怒濤潟一千里の勢い」で押し寄せてきたのであるから、たまったものでなかった。節句の祝いで賑わい、酔いしれていた三陸海岸の集落は、暗転して、たちまち阿鼻叫喚の巷となった。
祝言の最中であった宮城県歌津村のある家では、花婿一人が助かっただけで花嫁も祝い客も全滅、その花婿も、津波後、ついに気がふれたのか、もの云わぬ人になり、村人たちの同情をかったというし、同じく唐桑村のある家では法事中を襲われて、やはり生存者は少数であった。大槌町の花火大会場も「百雷が一時に落ちるような轟音の後、津波に直撃され、出席していた凱旋兵士二人を含めてほとんど全滅であった。山田の田村家では酒盛り中の一族五十三人が滅亡したとある。
この津波がいかに不意打ちで、人々の意表をつく奇襲であったか、その奇話、哀話をつづるエピソードは数多い。中には、入浴中の婦人が風呂桶に入ったまま流されたという実話もある(唐桑村)。そのため、この婦人はかえって一命を取りとめたが、わが子は、家族共どもきっと死んだものと諦めていたところ、幸運にも、その子だけは生存しており、驚喜したという。

それにしても地震があったはずではないか?
その通りで、確かに地震はあるにはあったのである。しかし、人々が津波の後で思い出すと、たいした地震ではなかった。今日の震度階でいえば震度二ないしは三ぐらいの地震で地震に気づかない人がいたくらいだし、宴会中だったり、博打に夢中になっていた人などには無論わからなかった。気づいた人でも、小さいが、ゆーら、ゆーらとわりあいゆったりした地震だったので、気持ちわるいとは思ったが、それ以上に気にとめる人はいなかった。ましてや、この地震を津波と結びつけて考える人などは一人もいなかった。
当時の人たちも、大きな地震の後は津波に注意、ということを知っていた。四十年前、安政(三年)の津波がきた時の地震は、棚から物が落ちるほど大きく揺れた。しかし、普段、珍しくもないこの程度の地震で津波が押し寄せてくるなどは、体験したことも聞いたこともなかった。
津波の後でも、人々は、あの小さな地震が津波の原因だったとは、なかなか考えられたかった。だから、学者や気象台の職員の記録を除いて、個人の体験談や公共の記念碑なども、多くは、いきなり轟音とともに押し寄せてきた津波襲来の描写から始まっていて、地震のことは、ほとんど話しても書いていない。事前の地震が、人びとにとって、それほど印象の薄いものであった。

当時、新聞(『東京日々新聞』)に掲載された、二人の体験談(要旨)を紹介しよう。
「津波のあった日の夜は、親戚に法事があったので、妻子を残してその家に行き、男女七、八人で仏前に座り法事をしていました。その最中のことです。入り口の方で、何ともいえない、大きな力で叩くような音がし、戸を打つ者がいました。とっさのことに後を振り返ったのですが、ああ、これは、かねて聞いていた黒船の復讐のために海岸に来て破裂弾を撃ちこんでいるのだ、と瞬間的に思いました。誰も万が一にも津波だななどとは考えなかったのです。そもそも津波とはこういうものだとは思っていなかったのです。それもこれも一瞬頭をかすめたということで、轟々とした音が耳に響くと同時に、頭の上から、水が滝のようにかぶさってきて、たちまち、我を失ってしまいました」(宮城県・唐桑村・大沢の漁師伊藤彦三郎談)
「あの晩、私は山腹にある知人の家に出かけていました。その最中に、突然、大きな音がしたので、何事だろうと思い、すぐに表に出ました。そうしますと、山のような怒濤が吠え狂う獅子のように里を暴れ回り、すでに一面が大海原になっていました」(岩手県・赤崎村合足の漁師・上野百合之助談)
このように、地震の話はなく、いきなり津波が押し寄せた情況の話になっている。

一夜の明けた海岸の集落は目もあてられない惨状であった。辛うじて生き残った者や騒ぎを知った山手の人たちが、恐る恐る海辺に下がって見ると、昨日まで軒をつらね、大漁歌で賑わっていた集落は、土台石を残すのみで、ほとんど消えてなくなり、死体がいたるところに散乱していた。砂の中から手や足だけが出ている死体もあれば、バラバラになった死体もある。湾内は、見渡すかぎり、漂流する家の残骸でいっぱいであった。
そして、七月二七日に開会された、津波後、初めての岩手県臨時県会(議会)における服部一三知事の報告も、この数値に依拠して津波の被害状況を説明している。したがって、この数値は岩手県としての公的な最終的なものと位置づけて間違いない。

ところで、この知事報告は、死者数変化の事情についても述べている。
「死亡シマシタ所ノ人員ハ一万八千百五十八人、是ハ初メニハ二万四千人ノ死亡ガアッタト思イマシタカ、追々諸方ニ出稼ニ行ッテ居リマシタ人ガ帰リマシタリ、其他ニヨッテ此シンダト思ッタ者ガ活キテ居ルコトヲ発見シ、今ノ人員ニナリマシタ」(『岩手県議会史』)  このように、日が経過するにつれて、生きていることが分かったというのは、初めは死者数に入れていたのだが、実は遠方に出稼ぎに行っていた者、漁のために沖に出ていた者、節句のために山手の家に行っていた者、山や内陸の方に避難していた者などが、だんだん戻ってきて生存が確認されたために、当初は二万四○○○人と計算していた死者数が一万八一五八人に落ち着いたというのである。それほど、直後の事態は混乱しており、また死者数が多かった。

ちなみに、この報告を行った岩手県知事・服部一三は、山口藩士の出身。アメリカに留学の後、1880年にジョン・ミルン、アルフレット・ユーイングらのお雇い教師や加護弘之、菊池大麓らとともに日本地震学会を創立してその初代会長に就任、東京大学の副総理でもあった。その後、官界に転出、岩手県知事になって、偶然にも、この史上まれにみる地震津波の後始末に携わるめぐり合わせになり、廃虚からの復興を指揮した学者知事であった。この後、兵庫県知事を経て貴族院議員になるが、日本における地震学の創世に寄与し、官界に転出してからも、終生、地震学の発展を支えた人物であった。

津波ーTSUNAMI(山下文男著)あゆみ出版
著者の承諾の元 転載しております。