12 12月

「稲むらの火と広村堤防」

地震ジャーナル(1991年12月)より
「稲むらの火」と広村堤防
津村建四朗

A Living Godと「稲むらの火」

1854年12月23日(安政元年11月4日)と翌24日に相次いで発生した安政東海地震と安政南海地震はいずれもマグニチュード(M)8.4の巨大地震で東海道から南海道にかけての広い地域に激しい震動と大津波による甚大な災害をもたらした.それから40年あまり経った1896年(明治29年)6月15日東北地方の東部一帯では,ゆっくりと揺れつづける地震を感じたが,激しい震動ではなく,ほとんどの住民は特別な注意を払わなかった.ところが,30~40分後に,高いところでは25~30メートルにも達する大津波が三陸地方の海岸を襲い,死者約2万2000名というわが国の史上最大の津波災害が発生した.この地震のMは,津波の規模などからは8.5程度と推定されているが,震度分布から推定すると7.4程度にしかならない,震源域における地殻変動の大きさにくらべ短周期の地震波の放出がすくない典型的な「津波地震」であった.明治の三陸地震津波として長く記憶されるほど甚大な被害を与えた最大の理由は,この特異な地震の性質であろうと考えられている.

1890年に来日し、日本に帰化して,多くの著作を通じて日本文化の海外への紹介に大きく貢献した文豪ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は,三陸地震津波の直後の1896年12月に,この津波災害の特徴と安政南海地震津波の際の一人の人物の献身的な活躍の逸話に想を得たと思われる「生神様」(A Living God)という作品を発表した.これは1897年に出版した著作集「仏の畠の落ち穂」(Gleaming in Budda-Fields)の中に収録され,世界中で読まれ,多くの人々に感銘を与えたと伝えられている.しかし,同じ物語がひろくわが国で知られるようになったのは,小泉八雲のA Living God(英文)の真髄を忠実に残しながら,無駄のない美しい日本語に凝縮した「稲むらの火」が書かれ,1937年から1946年までの10年間,小学校5年生用の国語の教科書の中で教えられ,当時これを学んだ子供達の脳裏に深く刻みつけられた結果である.

1983年5月26日に発生したM7.7の日本海中部地震は,日本海側の地震としてはまれにみる大規模のもので,これに伴う大津波が津波の経験に乏しい日本海沿岸を襲ったため,この地震による死者104名中100名が津波の犠牲者という大きい津波被害が発生した.とくに,男鹿半島へ遠足に来ていた山村の小学生45名が津波にさらわれ,うち13名が死亡した痛ましい出来事が伝えられたことから,防災教育の重要性がひろく話題にあがった.その中に「稲むらの火」が今も小学校で教えられていたなら,この悲劇は防げたのではないかという主旨の新聞への投書があった.

この投書がきっかけとなって「稲むらの火」の作者が,中井常蔵さんであり,この名文を書かれ,文部省の教材公募に応募されて見事入選された当時,同氏は28歳で,この物語のもととなった実話の舞台である和歌山県下で小学校の教員をしておられたことなどが紹介された.教科書に登場してから50年(掲載されなくなってから40年)も過ぎた1987年の防災の日に同氏が防災功績者として国土庁から大臣表彰を受けられたことは,この教材が長年にわたり防災意識の高揚に大きく貢献してきたことを評価されたものである.

小泉八雲の「生神様」は,日本の神の概念が西欧の神の概念とは著しく異なるものであることについて記したもので,3節からなり,第3節でひとつの代表例として津波災害から村人を救い,生きながら神として祠られた人のケースを紹介したものである.この作品は先にも述べたように,2回の大津波にまつわる実話に想を得たものと思われるが,実話そのものを忠実に描いたものではない.伝え聞いた安政南海地震津波の際の主人公の献身的な働きに対して尊敬の念を持っていた八雲が,三陸地震津波の惨状をきき,津波のおそろしさと機敏な対処の必要性について深く認識し,事実よりもさらに印象深い物語を一気に創作したものであろうと推測される.なお,地元出身である中井常蔵氏の「稲むらの火」も,史実よりも八雲の創作に忠実に書かれている.同氏は,実話の村の隣町湯浅町の生まれで,郷土の偉人を題材にした八雲の作品を師範学校時代に学び,深い感動にうたれたと回想しておられる.

地震学者の今村明恒東京帝国大学教授は,かねてから地震国であるわが国では,地震や津波に関する知識と防災意識を高める教育が重要であり,そのような教材を教科書に取り入れるべきであると提言していたが,その目的にぴったりの「稲むらの火」が採択されたことをよろこび,これを教える教員のための手引き『「稲むらの火」の教方に就て』を書き,1940年(昭和15年)に震災予防評議会発行の小冊子として,多くの小学校などに配布した.

この中で,「稲むらの火」の原典が八雲の「生神様」(今村は「仏陀の畠の落ち穂拾い」,「生ける神」と訳した)であること、いずれも史実とは若干異なる点があることを述べ,実話として,(1)安政南海地震津波の実況,(2)実話の主人公浜口儀兵衛の地震津波時およびその後の活躍状況,(3)浜口と村民の関係,(4)海外でも有名であったことを示す逸話,を解説している.この懇切な手引きがあったことも,この教材の教育効果を高める上で役立ったものと思われる.

さて,「生神様」と「稲むらの火」の原文は,末尾にそのまま転載しているので原文の感銘は直接それらを読んで味わっていただくとして,共通しているストーリーの概要はつぎのようである.

海辺の村を見下ろす高台に住む荘屋の五兵衛は,秋の日の夕方,うなるような地鳴りを伴い,ゆっくりした揺れが長くつづく無気味な地震を感じた.つづいて浜辺に目を移した彼は,海水が風にさからって沖に向かって動き,みるみるうちに海底が露出してくるという異常な光景を発見した.彼は,これらの現象から津波が来襲することを予想した.この危険に気づかない海辺の村人達に危急を告げに行くには時間的余裕がないと判断した彼は,一計を案じ,家の傍の田に積まれた稲むら(稲の束を小屋の形に積み上げたもの)につぎつぎに火を放った.荘屋さんの家が火事だとみた村人達は全員消火のために高台に駆けつけたので,まもなくすさまじい勢いで村を襲い,跡形もなく流し去った津波から助かることができた.

「生神様」では,日本や津波についての知識のない外国人にもわかるように,日本の海岸には,海底での地震や火山噴火に伴って発生した津波が数百年ごとに不規則な間隔をおいて襲い災害をもたらしてきたこと,明治三陸津波の例,主人公の人となりや,物語の舞台となる村の様子などを解説してから,事件の記述に入っているのに対し,「稲むらの火」では,「“これはただ事ではない”とつぶやきながら,五兵衛は家から出てきた」という書き出しで,一気に事件に入り,その後の緊迫した経過をおそろしいほどの臨場感で描き,最後は,「稲むらの火は,風にあおられて又もえ上がり,夕やみに包まれたあたりを明るくした.始めて我にかえった村人は,この火によって救われたのだと気がつくと,無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった」として,災害直後の現場での村人達の感謝の情景で終っている.一方,「生神様」の結びは,その表題が示すように,五兵衛の機転で命を救われた村人達がその後,彼を神として祀り,100年以上経った今もこの神社に祈りを捧げている,となっている.なお,「生神様」の第2節では,日本の村の慣習では火事の場合は,村人全員が消火に駆けつけることがもっとも厳しい定めになっていると述べ,第3節への伏線を張っている.

実話:浜口梧陵の稲むらの火と広村堤防

さて,これらの物語のモデルとみられる実話について紹介する.実話の舞台である和歌山県有田郡広村(現在は周辺と合併して広川町となっている)は,紀伊水道からV字型に入り込んだ湯浅湾の奥に面した半農半漁の村であって,約100年ごとに南海道沖で発生する巨大地震のたびに大津波に襲われ,大きな被害を受けてきた.このため,古く応永年間に,この地を領した畠山氏は広の海岸に邸宅を構えるに当たって,海岸に長さ400間余,高さ海面上1間半,根幅3間以上,頂上幅1間の波よけ石垣を築いた.この石垣は極めて堅固に造られており,その後の津波や高潮にも耐えて現存している.しかし,その高さが十分でないため,大津波の場合にはこの石垣を乗り越えて村を襲い,毎回かなりの死者を出してきた.例えば,1707年(宝永4年)10月4日の宝永地震では,850軒中700軒が流失,192人もの死者が記録されている.したがって,大地震の後に津波がくることは,この地では代々言い伝えられていた.

実話の主人公,浜口儀兵衛(第七代目,梧陵と号した)は,1820年(文政3年6月15日),広村で生まれ, 12歳で地方の豪族浜口家を継いだ.浜口家は,元禄年間から銚子で醤油の醸造業を営み,江戸に店をかまえていたので,彼は,銚子や江戸と郷里とを往来して,家業の発展に努めるとともに,蘭学者三宅艮斎,佐久間象山,勝海舟等から,西洋事情や兵学を学び,郷里の子弟の教育にも力を尽くした(ちなみに,中井常蔵先生も筆者も,彼が郷里の先覚者達と嘉永5年に創設した稽古場耐久社から発展した耐久中学や耐久高校に学んだ者である).以下に述べる安政地震津波の際には,儀兵衛は,物語のような老人ではなく,まだ35歳の壮年であった.その後,維新時には,紀州藩の藩政にも加わり,また,明治4年には,中央政府の駅逓頭(郵政大臣),和歌山県大参事(長官),明治13年には初代和歌山県会議長を務めるなど多くの公職を歴任した.明治17年一切の公職を退き,欧米視察に赴いたが,翌年その途中のニューヨークで客死した.

1854年7月9日(安政元年6月15日)に発生した伊賀上野の地震(M71/4)は,近畿地方の内陸部では最大級の地震で,広村でも強く感じ,村人は野天で一夜を過ごしたほどであった.このため,本年は津波がくるという流言が盛んであったという.12月23日(旧暦11月4日)午前10時ごろ6月よりも激しい地震(安政東海地震)があり,村人は津波をおそれて八幡山などに避難して一夜を過ごした.実際津波はきたが陸上に被害を生ずるほどのものではなかった.翌日は,穏やかな天気であったので,皆安心して家に帰った.ところが,16時頃,前日よりも格段に激しい地震(安政南海地震)が襲い,瓦は飛び,壁は崩れ,塀が倒れるという状況となった.また,巨砲の連発するような響きが聞こえた.このため,梧陵は壮者を励まして村民を立ち退かせるよう努力しているうちに,早くも怒涛のような津波が押し寄せた.逃げ遅れた者を避難させるため暫く踏み留まったのち,彼自身も激浪の中をようやく高台に逃れついた.まもなく日が暮れたので,壮者をうながして引き返し,たいまつを点じ,田の畔に積んであった稲むら(地元では,「すすき」と呼ぶ)に火を放った.この明かりによって,闇夜に路を失っていた多くの人々(梧陵の手記には,男女9名とある)が救われた.ついで,約1400人の避難民の飢えをしのぐため,寺に炊きだしを頼み,隣村から年貢米の借用の交渉を行なうなど,緊急の対応に奔走した.

この地震と津波による広村の被害は,流失158軒,全壊10軒,半壊46軒,浸水破損158軒で村中で害を受けなかった家は1軒もなく,死者は36人に達した.また,多くの田畑も流失した.このため,村は離散の危機に見舞われた.梧陵は,家屋50軒を新築して無料あるいは長期の年賦で貸し与え,農民には農具を,漁民には舟と漁具を買い与えるなど,救済に奔走した.さらに,将来の津波の害から村を護るとともに,職を失った村人に働く場を与えるため,私財を投じて大防波堤を建設する計画を立て,領主の許可を得た.この堤防建設には,荒廃しても重税のかかる田畑を堤防敷地として使用し,廃田免租を図るという目的もあったようである.工事は,津波の翌年安政2年の2月から始まり,同5年12月までのべ人員5万6730人を投じてつづけられた.このための費用は銀94貫344匁を要したという.もとからある波よけ の背後に築かれた 土盛りの大堤防は,当初,長さ500間の予定であったが,諸般の事情から370間(652m)で止められた.高さは2間半(3~3.4m,海面上約4.5m),根幅11間(17m),天幅4間(2.5~3m)の計画であった(カッコ内は現状).海側の堤脚(石垣との間)には数百株の松樹,内側と堤上には数百株のハゼの木が植樹された.松樹を山から移植する際には,もと生えていた方位に注意深く植えさせたので1本も枯れなかったと伝えられている.

浜口梧陵によって生活を取り戻した村人たちが,感謝の気持ちを表すため浜口大明神の社を建てようとしたことは事実であるが,梧陵は「我等儀神にも仏にも成りたき了見にては決してこれなく,ただこの度の大難救済と村への奉仕は藩公への忠勤ともなることと心得たまでのこと,神社建立のことは藩公へも恐れあり,かくては今後村や村人への世話はでき難くなる」と説得して建設を中止させた.したがって,「生神様」に書かれたような神社は実在しないが,村人は梧陵を大明神様とよんだという.なお,1933年5月には,梧陵ほかの村の先覚者達による津波防災の偉業を顕彰するための「感恩碑」が波よけ石垣の中央部に海に面して建てられた.

梧陵によって築かれた「広村堤防」は1938年に,彼の墓所とともに国の史跡に指定された.

昭和の南海地震津波の体験

筆者は,1933年に広村で生まれ,先に述べたように,耐久中学校・耐久高校に学び,高校卒業までここで育った.ものごころがついたころから「梧陵さんの土手」と松林は絶好の遊び場であった.毎年,安政地震津波の記念日には,感恩碑の前の広場で先覚者に感謝し,海が平穏であることを祈る「津波まつり」が行なわれ,小学生も参列した.それに先立ち当日は早朝から村人総出で浜口山と呼ぶ小山の中腹から土をとり,おとなは,荷車やもっこで,子供は木綿の風呂敷に入れて堤防まで運び,これを補修するのが慣わしであった.また,安政地震津波の際,村人達が避難した八幡神社のある丘への避難訓練も行なわれた.ただし,これは各自の家からではなく学校から先生に引率されて行なったと記憶している,したがって,大地震の後には津波がくること,その場合は八幡様に逃げること,は地元では子供でもよく教えられていた.

1946年(昭和21年)12月21日の夜明け前の4時20分過ぎ,当時中学1年生であった筆者は激しい震動と木造の家が大きく軋みつづける無気味な物音の中で目覚めた.M8.0の昭和の南海地震を震源域の間近で体験したのである.激しい揺れはいつまでつづくのかと思うくらいつづいたがやがて収まり,停電して暗闇となった家の中はしばらく静まり返っていた.やがて沖のほうからゴーという音が聞こえ始めた(東方に数百m離れた線路を長い貨物列車が通るときの音に似ていたが,方向が正反対の海であった).近所で誰かが「津波だ」と叫ぶのが聞こえた.その声を合図にしたように皆一斉に逃げ始め,かねてから教えられている八幡神社のある高台を目指して,てんでにいろいろな経路をとって必死に走った.筆者は,細い路地をぬけ最短距離で高台を目指したが,後から考えると途中に小川があり危険なコースであった。実際,小川にかかる橋の付近にはすでに津波の海水が地面に流れ始めていた.間一髪でここを走り抜け,無事生き延びられたのは幸運であった.この近くには紡績工場の社宅があり,よそから働きにきていた何人かの方が逃げ遅れて亡くなられた.広村全体の死者は22名であった.「広村堤防」に護られて,堤防の内側の家屋は,一部に床上あるいは床下浸水したが,流失しなかった.筆者の家は海辺から2番目の通りにあったが,浸水もせず,全く無事であった.一方,堤防の外側に新たに建てられた中学校や紡績工場およびその社宅などは,堤防に阻まれ,湾奥に集中し,村の南側を流れる江上川に沿って侵入した津波に襲われ,流失は免れたものの,高く浸水し,急な流れでかなり破損した.中学校のグラウンドと海を隔てる低いコンクリートの堤防は,津波によって破壊・流失し,グラウンドは数十センチメートルの厚さの砂で 埋め尽くされた.

「広村堤防」は,浜口梧陵の意図した通り,その建設から約90年後に襲った大津波にも耐えて村の主要部を護ったが,津波への備えのない堤防外に開発された地域ではかなりの被害があったわけである. なお,このときの津波は地震の約25分後に来襲し,最高は平均海面上4~5mに達した.

最後に,筆者が日頃気になっていることを2点記しておきたい.ひとつは,津波の前には,異常な引き潮があると信じている人が多いことである.その原因には,引き潮で始まった津波を過去に経験した人の言い伝えを信じている場合の他に,「稲むらの火」の中のリアルな引き潮の描写の強い印象から,常にそうなると信じてしまった場合があるのではないかと危惧される.実際には,地震による海底の地殻変動次第で,まず潮が引く場合と,始めから津波が押し寄せてくる場合がある.地震が弱かったり,感じなくても異常な引き潮があれば津波の前触れとして警戒する必要があることは「稲むらの火」の教える通りであるが,逆は真とは限らず,強い地震を感じた場合や津波警報・注意報が出ている場合に,潮が引かないから津波はこないと考えるのは誤りであり,危険であることを強調しておきたい.

もうひとつは,「広村堤防」の保護である.広村の浜辺は,戦前,まさに白砂青松の風光の地であった.波よけ石垣と大防波堤も,その自然と一体となった景観を形造っていた.南海地震以降,地盤沈下が引きがねになったのか,海岸の侵食がすすみ,砂浜は姿を消し,波が直接石垣に打ち寄せるようになったので,海には大量のテトラポッドが投入され,石垣と堤防の海側の面はコンクリートで固められて,すっかり人工的な姿に変貌した.松林は,一時,松くい虫のため全滅したが,その後植樹された松が成育して,むかしの姿を取り戻しつつある.今村明恒博士は,上記の小冊子のほかに「防浪堤」という小文で「広村堤防」を紹介しているが,その中で,この貴重な堤防の保護が必ずしもよくなく「堤防の内側斜面が隣接居住者によって損傷されつつある」ことを指摘している.防災関係の啓蒙書などで「稲むらの火」とその実話を紹介する文章を目にすることが多くなった.これらを読まれて,感銘された読者が現地を訪れることも多くなるであろう.1993年には,和歌山県下で津波の国際会議が予定されており,外国の研究者達もこの有名な場所を訪れると思われる.郷土の先覚者が残されたこの貴重な遺産を大切に保護し,子孫に伝えられるよう地元の皆さんにお願いしたい.

本文を書くにあたり,浜口梧陵の玄孫・浜口道雄氏より堤防の写真や関係文献など多くの参考資料を頂いた.また「稲むらの火」の作者・中井常蔵先生からは,執筆に至る経緯をご自分で書かれた小冊子「特集稲むらの火」を頂いた.こころから御礼申し上げる.

小泉八雲の「生神様」の3節全体の日本訳を読まれたい方には,小泉八雲作品集3,「物語の文学」(河出書房新社)の平川祐弘訳「生神様」(125~146頁)をすすめる.巻末の解説(295~314頁)において訳者は.ここに簡単に紹介したことがらを浜口梧陵自身の手記など多くの原文を引用しながら詳細に解説されている.

また,本誌の5号(1988年5月6月発行)の書評欄で紹介した桜井信夫著「もえよ 稲むらの火」(PHP研究所)もこれらの物語と浜口梧陵の伝記で,小学生中級以上なら誰でも読めるようにやさしく書かれている.
[つむら けんしろう福岡管区気象台台長]
・資料1 A LIVING GOD by LAFCADIO HEARN 省略
・資料2 稲むらの火 原文
[小学校5年生用国語教科書(1937~46)] 省略