15 12月

昭和の南海道大地震津浪につき
広村の人々に寄す

南海道沖大地震津波
= 昭和の南海道大地震津波につき広村の人々に寄す =
「和歌山縣廣町 津浪史略と防災施設」
昭和27年12月21日発行 和歌山縣有田郡廣町役場編纂 PP7-14 より抜粋
今村明恒

余が大正の関東大地震の前徴研究に取掛かったのは地震直後の事である。先ず三通りの前徴を捉え得たが、中にも三浦半島の先端三崎油壷の検潮儀が示した地震前数十年間の漸進的地盤沈下と地震時における躍進的隆起との関係は、最も重要なものであった。これは広く関東全体の精密水準測量の結果から見るとき、関東全地塊の慢性的傾動と急性的傾動とを地塊の一端において見たに過ぎないのである。

陸地測量部は明治の中頃、全国海岸に十数所の検潮所を設けて、永年に亘る地盤の上下変位までも実測したのであるが、 他の場所がほとんど不動の状態を見せたにも拘わらず、油壷と紀州南端串本との二ケ所は特異な地盤沈下を示したのである。両所の位する半島は、その地質構造といい沖合に大地震を起こし、しかもその度毎に南上がりの躍進的傾動を伴う等の 種々の点に於いて、極めてよく相類似していることが気付かれたので、三浦半島が示した一組の慢性的及び躍進的傾動が沖合の大地震をめぐって、ここ紀伊半島にも亦出現するに相違ないことを想像し、測地学的実測に取り掛かったのである。 即ち帝国学士院の補助を受け陸地測量部に依頼して、紀伊半島では、東西の海岸線並びに中央線に沿うて精密水準路線の再測を実施し、又室戸半島では、状況が紀伊半島と同様であるに顧みてこの半島に於ける線路の再測をも依頼したのである。

かくして半島の慢性的傾動が計測された次第であるが、その結果によると、紀伊半島では昭和三年に終わる二十九年間の年平均値は南下がりの0.033秒で、室戸半島では、昭和四年に至る三十三年間の年平均値南南東下がりに0.041秒と出てきたのである。

他方沖合に発生する大地震に伴って、半島は、概ね南上がりに急性的の傾動をなすのであるが、其の大きさ、安政年度には 紀伊半島が4.4秒、室戸半島が5.0秒の程度であったらしい。

今回の地震(昭和21年南海道地震)について、内務省地理諏査所(注1)では、いち早く旧水準線路の一部改測を行ったが、それによると紀伊半島は串本でやく70センチメートル隆起し、半島全体としては西北西へ3.0秒傾動をなしたようであり、又室戸半島は、概ね北方へ7.5秒の傾動をなし半島南端では約74センチメートルの隆起に対して高知市東方の平地では65センチメートルほど沈下したと解される。尤も此の沈下は、割合に急速に復旧しつつあるもののようである。

(四国の南西突端 に当たる幡多半島が同様の慢性的並びに急性的な傾動をなしたとは震後に至って始めて気付かれた)紀伊半島の年平均の傾動を安政後の九十二年間に概算すると、正に今回の急性的傾動に等しくなるのは、強ち偶然とはいえないのである。

この急性的並びに慢性的傾動の間には、後者が前者の前徴の一つであるという意味の他に、物理学上の数量的関係も存在するであろうとは吾々の見解である。即ち急性的に起こる傾動の大きさは、地体を作っている岩石の曲げに対する限界値(注2)に近くそれ以上ゆがめては破綻を生ずるという結果になるであろうし、又慢性的に起こる傾動も、百年近くを累積するとき同様に右の限界値に到達することになるからである。果たして其の通りならば、右の慢性的傾動は、其の最初からの積算値が今後の予知問題の研究に大切な役割を演ずるであろうから、両半島の精密水準線路の完全な改測は、此の際殊に望ましいことに属する。

本邦の太平洋沖には大規模の破壊的地震を起こす地震の帯の一線が五ケ所に区切られているが、活動の中心は全線の一方から他方へ順を追って移行する傾向を有っている。これは地震統計だけでなく、学理的にも根拠のあること。今近年の活動順序を見ると、安政後新たに明治二十七年の根室沖から同二十九年の三陸沖に、大正十二年の関東沖から昭和十九年の東海道沖に、いずれも津波を伴う大地震として現れたが此の次の活動場所の南海道沖なるべきは明白であろう。余が之に関する論文を帝国学士院に連出したのは昨年(昭和二十一年)十月である。

太平洋沖につき出ている第三紀地塊の慢性的傾動はやがて来るべき沖合の大地震の前徴であろうとの説(注3)は、第一に昭和十九年の東海道沖大地震によって証明され(二十年三月帝国学士院紀事拙著論文)、今又南海道沖大地震によって証明されたが余は此の目標だけに満足せずして、更に最後の瞬間に先だつ数時間或いは数日前に現れてもよい筈の前徴をも捉える方法を考え、両半島及び付近に7ケ所の私設観測所(注4)を設けて、観測していたが、総べて戦災にかかって最後の仕上げが出来なかったのは残念である。

かくて余が後援者の下に払った十数万円の研究費も、十八年間の努力も、無為に終わったようであるが、併し全くの水の泡であったとは思っていない。余は府県別町村別将た港湾別に、宝永安政両度の震火波の三災を調べ上げ、将来の変異を災禍たらしめないよう、当局に進言し勧誘していたのである。成果が期待ほどに挙がらなかったのは、余の微力に由るこというまでもないが(注5)、従来吾が国民の災害予防に対する関心の薄かったことも指摘せざるを得ない。例えば室津漁港(注6)の設計に対しては、大地震に伴う地盤隆起を考慮するよう勧告したが、当局は能くこれを理解しながら、遂にこれを無視する結果となり、今回の大地震に由って折角 新設された遠洋漁業の基地も半ば其の実効を失ったというわけである。

南紀の広村についてもそうである。浜口梧陵(注7)心尽くしの防波堤も、二ケ所の切り通しの為にその実効の薄らぐのを惜しみ、せめて鉄扉(注8)の働きだけでも有効にしたいと考え、村役場に突如闖入して其の付け替え方を薦めたこともある。又防波堤の出現は、広川と江上川とを津波進入の主要な地帯となさしめ、従って津波の主力は逸早くこの地帯に沿うて進入するから、建造物を他に移すか、 避難道路は之を避けて計画すべきである等の注意を、小学校の職員室においても陳述したことがある。特に耐久中学校(注9)の位置の危険なるは屡々県当局の注意を促し、余と同県の出身たる(福元)学務部長に殊にこれを力説したこともあった。余は考えた。若し余が物した「稲むらの火の教え方に就て」という一編が、災害予防に関心をもつ人達に読まれたら波災は大いに軽減されるであろう。況や、この小編は浜口家の好意に依って、村には多数寄贈されたではないかと。然し事実は果たしてどうであったろう。鉄扉はすらすら自動的に閉じたか(注10)。耐久中学校は如何(注11)。江上川には水難者は無かったか(注12)。これらは今更 余が問うまでもなく、村の人達が熟知している事実である。

幸い今回の津波は、吾々が予期したよりも小さかった。広川河口の低地においては最大波高、宝永度では11メートル、安政度では6メートルであったが、今回は更に低く、概ね4米程度であったらしい。被害がやや軽く感ぜられたのは、津波の低かったのが主因である。(注13)

由来日本人は危機の接近に無頓着であり、仮令其の危機接近を教えられてもこれを避けようともしなければ、これに備えようともしない人種だとは、欧米人の批評を待つまでもなく、日本人自身がこれを自覚している。幸いこの一両年来我が国民の災害予防に関する関心は、進駐軍のお陰で次第に向上していると言ってよかろう。防疫や火災予防に就いては既に実行にまで進んでいるが、これが地震噴火津波の如き災妖にまで及ぶよう希望せざるを得ない。総ては教養の問題である(注14)。

凡そ天災は忘れたころに来ると言われている。併し忘れないだけで天災は防げるものでもなく、避けられるものでもない。要は、これを防備することである。余は年々の梧陵祭(注15)が形式に堕することのないよう希望してやまないのである。

**** 注 *******************************************************
これは、「和歌山県広町津波略史と防災施設」(和歌山県有田郡広町役場,1952年)所載のもので、内容からみて1947年に 執筆され,広村役場(津波当時は村であった)か何かに送られたものを、後に広町役場が、折角の提言を活かすことができ なかった反省を込めて、この出版物に収録したものと推定されます。ちなみに今村明恒先生は、この翌年1948年1月1日 に亡くなられています。「凡そ天災は忘れたころに来ると言われている。併し忘れないだけで天災は防げるものでもなく、避けられるものでもない。要は、これを防備することにある」という結びの言葉を重く受け止めたい。(津村健四朗氏記。注釈も津村氏による。)

(なお、テキスト化に際し、漢字、仮名遣いは読みやすいよう適当に変更)

注1:日本の測地測量は、戦前、陸軍参謀本部陸地測量部によって行われていたが、終戦後内務省地理調査所、そして現在の建設省 国土地理院へと継承されている。

注2:戦前、坪井忠二は、測地測量のデータを解析して、地殻は10のマイナス4乗程度歪むと破壊して地震を起こすことを明らかにしていた。

注3:「南海道大地震の謎」(1933年)などの論文。

注4:東京帝国大学を退官していた今村の地震予知に関する主張は、「地震予知はタブー」であった学界から異端視され、 国の支援は、今村の依頼により戦時下という非常事態下にもかかわらず水準測量を実施した軍の陸地測量部以外にはなかった。 このため、今村は民間の寄付などを集めて私設観測所を作らざるを得なかった。後の「地震予知のブループリント」は、そのような過去の反省を背景に、組織的な地震予知研究を国のプロジェクトとして実施すべきことを求めたもの。

注5:1933年の論文中の「薄弱な仮想の上に立脚した仮説であるが」という表現同様、「自分以外誰も本気で取り組んでくれなかった」 ことを皮肉った表現であるように感じられる。それ以下の文章は、自分の長年の献身的な努力が、戦時下、終戦直後という悪条件もあり、予知研究の面だけでなく、防災対策という当然効果を期待できる面でも何の効果も挙げなかったことへの慨嘆とも、折角の提言を軽視した社会への怒りともとれる。

注6:もとの印刷物では金津となっているが、起こった現象から考えると高知県の室津のミスプリと考えられるので、ここでは室津とした。

注7:「稲むらの火」の実話の主人公、浜口儀兵衛、悟陵は号。安政地震津波後、広村の海岸に私財を投じて約600メートルの防潮堤を築いた。

注8:防潮堤の中央部にある鉄扉(赤門と通称)を、津波来襲時に津波の力で自動的に閉じるような形に改めるように提案した。私の記憶では、津波の前にそのように改修されていた。

注9:当時は県立耐久中学校。浜口梧陵が幕末に創設した耐久社の流れを汲む。江上川に隣接して堤防外に位置する。

注10:「南海道地震から50年J(和歌山県,1997)に宇佐美先生が紹介している当時の村民戸田勝啓さんの「昭和南海地震津波体験記」によると、 次のようであった。

「(地震)直後に浜町在住の山本庄太郎氏は赤門を身を挺して塞ぎ、村中心部への高波の流入を防ぎました。迫り来る大波を物ともせず、 錆びついた鉄扉を全力で重い掛け矢を振りかざし閉門しました。後日、この機転と義挙が行政当局より表彰されました。」

注11:当時、私はこの中学の1年生でした。校舎は流失は免れたものの、室内は津波によって破壊された。早朝の地震であったので生徒に危害はありませんでしたが、校内に住まわれていた校長の夫人が逃げ遅れ亡くなられました。

注12:このときの広村の死者は22名で、そのほとんど(20名)は江上川の付近で亡くなった。安政津波の際の死者は36名であるので、防潮堤がありながらの 22名は決して少ないとは言えない。私も、避難の途中、江上川の小さな支流のところで津波に遭遇したが間一髪助かった。組織的な避難の 指示などはなく、私を含め、津波が湾内に侵入する音がきこえるまで避難を始めなかった人が大多数であった。

注13:広村堤防は海面上約5-6メートルであるので、昭和の津波はほぼ完全に防がれ、堤防に護られた部分の家屋の流失はなく、浸水も僅かであった。しかし、もしも宝永並みの津波であったら、堤防では防げず、犠牲者はずっと多かったと思われる。

注14:今村先生は、義務教育において地震や防災の基礎知識を教えることの重要性を熱心に説いていた。「稲むらの火の教え方に就て」の執筆・配布もその一つの表われ。ここで言う「教養」は、いわゆる知識人を想像させる「教養」ではなく、国民総てがそういう基礎知識をもつことを意味すると思われる。

注15:地元では、「津波祭り」と呼び、戦前からの行事で、当時は安政地震津波の記念日に子供を含め村人総出で堤防の補修を行った後、「感恩碑」の前で「先覚者の偉業に感謝し、海の平穏を祈る」神事が行われていた。それには小学生も参列した。従って、このような行事を通じて、子供にも大地震の後には津波が来るという知識は伝えられていた。津波祭りは現在も続けられている。