16 12月

和歌山県有田郡廣村堤防及び防風林の由来

和歌山県有田郡廣村堤防及び防風林の由来
「和歌山県廣町 津波略史と防災施設」 
和歌山県有田郡廣町役場篇 昭和27年12月21日発行 
濱口 梧洞(10代目儀兵衛)の手紙より

 謹んで和歌山県有田郡廣村防波堤及び防波林の由来を言上いたします。
 廣村は当和歌山市を南に至る十里の農漁村で御座います。昔時は地方の小都市であったようで御座いますが度々津波の被害がありまして歴史的に能く分って居りますのは慶長九年に大津波が御座いまして多大の被害がありました。其れから百二年後の寛永四年にも大津波に見舞われまして人家の大部分が破壊せられ192人の人命を失ふと言う惨事を蒙りました為村勢は漸次衰退いたしました。寛永から百五十三年後の安政大地震の時には戸数339戸の内181戸の人家を破壊流失致しまして三十人の人命を失ひました。其様な状態で御座いましたので私の祖父濱口梧陵が将来廣村の安全を企画致しまして築造致しましたものは廣村の防波堤で御座います。就きましては津波と梧陵の関係を簡単に申し上げさして頂きたいと存じます。
 梧陵の先祖は古くからこの廣村に居住して居りましたが家業として千葉県銚子に醤油醸造業を営んで居ります。昨年の行幸の栄に浴しましたヤマサ醤油工場は其の先祖の残した仕事で御座います。そして家長は代々儀兵衛を名乗って居りまして、年の半分は銚子で暮らすのが慣わしで御座いましたが、安政地震当時業を継いで居りましたのは七代目の儀兵衛で御座いまして号を梧陵と申しまして三十五歳の壮年で御座いました。
 安政元年十一月地震の起きました時、梧陵は丁度廣村に帰って居りました。地震には津波がつき物だと豫々聞いて居りました梧陵は直ちに村民を安全地帯に避難させましたが幸い其の日は海岸の小舟を破損した位で大した事はなく済みましたので村民は多く我家へ立ち戻りました。処が其の翌日の夕刻一層激しい地震が起こりまして家屋の倒壊するものが出来叉沖合から海嘯のするのが聞こえて参りましたので、梧陵は之は容易ならぬ事だと思ひまして再び村民に避難を促しましたが年寄りや子供や足弱の者ら等逃げ足が遅く泣き叫ぶ者がしきりで混乱をました。第一回の津波は幾分軽く御座いましたので、梧陵は農道にかけ上がり其の場に踏み留まり波の引け期を見て更に村内をふれ廻り逃げ遅れた者の収容に努めました。其の内日が暮れまして逃げ道が分からなくなりましたので、梧陵は避難致しまする途々で田に積まれてありました沢山の稲藁に火を点じつつ逃げ後れた人の為に道を知らせました。そうして入る内に第二回目の波が押し寄せて来た為梧陵は半身を潮流に没し浮きつつ沈みつつ辛うじて高台に辿りつきました。津波は五回襲来しましたが幸ひに全村の避難を完うして居た為めそれによる犠牲者は少なかった事は幸せな事で御座いました。
 不測の事変の為に住家は勿論差当りの食糧にも窮する者が多かったので梧陵は其の救済に当たりましたが何分にも猛威を揮ふ天災に対する村民の恐怖心は熾烈でありまして旁々家財田畑を失う事による生活不安も深刻でありました為め村民の中には村を離れて他郷へ行かうと云う者が続出する傾向でありました。斯くては廣村は衰退の一途を辿る外ないと 梧陵は痛く憂へたので御座います。
 そこで梧陵は村民の安泰と失業救済の二つの目的を以て、其の翌安政二年私財を投じて廣村海岸に防波堤を築造する事に致しました。そして農閑期を利用して工をを進め、農繁期には中止すると云う仕組みで四十七ヶ月を費し、安政五年竣工を見るに至りました。之が現在廣村に残る防波堤でありますが堤の敷地巾を十一間、高さ二間半、全長三百五十間に致し廣村を包囲する形に致しました。叉此の防波堤と同時に其の外側に堤防の土留と防波を兼ね数千本の松を植えましたがそれが今日では鬱蒼たる老樹大木となって居るので御座います。梧陵の残しました記録にも之で百年後に津波あるも廣村を安全に護る事が出来ると記しております。此の防波堤は今村明恒博士の調査によると我国最初のものであるとの事で御座います。
 昭和十三年文部省より防波堤防波林及び梧陵の墓所が史跡に指定されました。
 安政の津波から九十に年を経まして昨年十二月関西地方に大地震が起きまして前例に違はず廣村にも津波が襲来致しました。ところが廣村は右の防波堤と防波林の為民家はホンの一部に浸水をみました丈で完全に保護されました。唯だ安政以来村は再び繁栄に赴きまして人家が殖え土地が狭隘なりました為め余儀なく堤防外にも建築物が設けられ中学校や紡績工場や若干の民家が出来て居りましたが、夫等の大部分が破壊され二十二名の死者を出すと云う惨事を蒙りました事は何とも残念の至りで御座います。
 梧陵が安政の大津波に活躍した事及び其の後の救済事業を起した話は英国人で日本に帰化致しました文豪小泉八雲氏に取り上げられ「生ける神」と云う標題で海外にも紹介されました。叉其の文中から小学校五年の教科書に「稲むらの火」と云う題目で採録されて居りますがそれ等には儀兵衛と云う名が五兵衛と云う名前に書き換えられて居ります。
 以上言上させて頂きました事は地下に於いて祖父梧陵は如何ばかり喜んで居るかと存じまして感謝感激の至りで御座います。
 不束なる言葉づかい誠に恐縮に堪えません。