14 12月

南海の義人 「濱口儀兵衛」 

講談社 月刊誌「キング」3月号
南海の義人
「濱口儀兵衛」  諏訪 彰 著

文豪小泉八雲がいみじくも生ける神と讃えた義人
物語り『稲むらの火』の五兵衛爺さんは今もなお生きている!

大津波襲来

『−−旦那、大変です!うちの井戸の水がグングン減っております。気味が悪いようです。』
『−−うちのも、そうです。旦那、ひとつ、来て見ていただけませんか。』
村一番の舊家で、徳望を一身に集めている濱口儀兵衛が、昨日の強震もどうやら無事におさまり、皆と一緒に避難した八幡山から村の高みにある自分の家に引き揚げてきて、遅い昼食をすませ、挨拶にきた二三の村人と話しこんでいる所へ、漁師の喜兵衛、寅右衛門の二人が、あわただしく駆け込んできた。
安政元年十一月五日のことである。
ここは、紀伊の國(いまの和歌山県)有田郡廣村、人口千四百。-紀州蜜柑の本場にも近く、海の彼方に阿波(四国)の山々が指呼され、海山の幸豊かに、眺望にも恵まれているが、しばしば地震のあとの津波の、激甚な被害に見舞われていた。
−−只事ではない!
儀兵衛は緊張し、急いで身支度を整え、二人と連れ立って家を出た。ちょうど下総銚子かた帰省中の儀兵衛は、この時、三十五歳の働き盛り、舊家という背景ばかりではなく、その世話好きで実行力に富んだ人柄からも、村人に尊敬され親しまれ、何事かあればすぐ彼に相談するならわしになっていたのだ。
儀兵衛は先ず二人の家に行ってみた。海岸近くの喜兵衛、寅右衛門の家のそう深くない井戸は、クッキリと一線をくつくして濡れた枠に減水のあとを示し、さらに水は眼に見えて下がっていくように感じられる・・・。海岸から奥へと、一軒一軒見て歩いたが、どの井戸も同様だった。たしかに大きな天変地異の前触れに違いなかった。
儀兵衛は率直に自分の感じた通りを述べて、村人たちの注意を喚起した。祖先からの言伝えもあり、儀兵衛の警告でもあり、村人たちは慌てて非常の準備をし、戦々兢々として待機した。
暮れようとする今の時間の五時頃―グラグラグラッと、不気味な鳴動を伴って、激しく揺れはじめた。(うわっ、昨日よりひどいぞっ!)と感じた時、ガラガラッと瓦は飛び、壁は崩れ、塀は倒れ、・・・震えはなかなか止まず、一寸小刻みになったと思うと、グラグラッ、ユサユサッと、さらに激しく揺り返しがきて、バタバタ家が倒れるー全壊、半壊、忽ち修羅の巷と化した。
黄昏の色よりも濃い黄塵だった。あらかじめ用心していたため、全員戸外に飛び出し、咽せっぽい埃を浴びながら、儀兵衛が沖合を眺めると、大砲のような轟きがきこえ、苅藻島のあたりには、妖しい黒雲が覆いかぶさり、パッと火の柱が立った。いけない!海嘯だ!大きな海嘯が襲ってくる前兆だ!儀兵衛は、妻まつに子供たちをつれて、八幡山に避難させ、番頭の茂兵衛、下男の元助には近所の人を助けて同様難を避けるように命じると、単身、海岸へ駆けだしていった。(海嘯がきそうだぞ!山へ逃げろ!)道々、呆然と佇んでいる村人達に急を告げ、儀兵衛は海岸に出ると、眼を皿のようにして、じっと沖を凝視した。
帯のように長く黒いものが西北の沖にある。生き物のように刻々と大きく高くなってくる!
もう、間違いない!大海嘯の襲来だった。
身を翻すと、儀兵衛は声を限りに、「津波だ、津波だ!すぐ逃げろ、山へ、八幡山へ逃げろ!」
道を縦に、横に、身の危険を忘れ、儀兵衛は村内を絶唱しながら駆け回った。

燃える稲むら

・・・ひたひたと不気味に吹き抜けていく風、ゴォーと鳴り続く鳴動、ズズズッと津波の音。
山のような狂乱怒濤は、身近に迫っていた。もう、一刻の猶予もない。ギリギリの危険だった。
・・・駆け回った道々には、人影もなく、よく避難の行われることに安心すると、儀兵衛は韋駄天走りに八幡山に向かった。
この世の中とも思えぬ、名状し難いその音を背後に感じながら、また儀兵衛は、
(しまった! 逃げ遅れるかもしれない?)
駆けた、駆けた、無我夢中に駆けた、膝頭がガクガク鳴った。「あ!」と、儀兵衛は叫んだ。
行く手の江上川の橋が、墜ちているのである!川幅は六m、背よりも深く、急流だ。さすがの儀兵衛も、顔色を変えた。振り返ると、一飲みにしようと、小山のような海嘯が、もうそこに迫っている!
半ば観念して、見回すと、景示のように長い竹竿が、川岸に横たわってた。彼はとっさにその竹竿を手にすると、川の中に突き立て、渾身の力を込めて、向川岸へ、一か八かの棒高跳びだった。見事に決まって、儀兵衛の身体は高く空中へ踊り、ドサリと向川岸へ投げ出された。弾じかれたように起きあがり、ひた走りに駆けだした時、怒濤は猛烈な勢いで江上川に雪崩れ込み、その低みに阻まれて、勢いを殺がれた。(助かった!)
儀兵衛はホッとし、小高い丘に駆けつけ、山裾を縫って、八幡山に辿り着いた時には、もうとっぷりと日が暮れていた。
八幡山は、避難した村人が犇めき、暗い中で右往左往、親を呼ぶ子、子を訪ねる親、狼狽し混乱を極めていた。狼狽と混乱は、災害を二倍にも三倍にもする。彼はすぐに、松明をつくるように命じ、「儀兵衛は無事に戻ったぞ!落ち着け、落ち着け!」と、皆の間を呼び回って歩いた。
この偉大な指導者の声は、村人の落ち着きの大きな拠り所となり、やがて松明も配られて明るくなり、村人も一応落ち着き、儀兵衛も妻子と巡り合うことができた。
善後策を講ずるために、儀兵衛は休む間もなく、崇義団の連中を呼び集めた。崇義団というのは、次第に騒然となりつつある幕末の多事に備えて、働きのある者を選抜し、よんで字の如く、正義を尊び、郷土を守ろうという儀兵衛を中心に組織された団体だった。一瞬にして、大多数の者は家も職も奪い去られ、明日の職さえ見当つかぬ不安と恐怖の夜が更ける。静かになると、村の方から、
「−−く、苦しい」
「−−助けてくれ」
身を切られるような、助けを求める悲痛な声が、微かに伝わってきた。相談を続けていた儀兵衛は、きくと、
「−−こうしちゃいられない。まだ、逃げ残った者がいる。あの方が先だ。みんな、手伝ってくれ!」と、立ち上がった。
手に手に松明を持った団員が後に続き、村人の声援に送られながら、第二第三の海嘯が押し寄せてくる危険の十分にある闇に消えていった。
散乱した柱や、棟や、梁や、屋根を踏み越えて、乗り越えて、助けを求める声を頼りに、何人かを助けて後送し、ちょうど儀兵衛の田圃の辺りまで来ると、まるで流木が砦のように山積して、動きがとれなくなった。松明を見ていよいよ激しい救いを求める悲鳴は、前方の闇に続いている!一段高くなった田圃の所々に方言でススキと呼ばれる稲むらが、積み重ねられていた。
つかつかと側に歩み寄った儀兵衛は、その藁に触ってみた。濡れていない。儀兵衛は頷くと、躊躇なく手にした松明の火を藁に移した。ぱっと燃えて明るく火の手が上がる。
「−−ススキに火をつけろ。みんな、ススキを燃やせ!」
儀兵衛が叫ぶと、団員の中に混じっていた番頭の茂兵衛が、あわてて駆けつけ、
「−−旦那、このススキの中には、まだ穫り残りが交じってます!」
「−−構わぬ! 燃やせ、みんな燃やせ!」
現然と儀兵衛は命じた。背く事のできぬ権威ある命令に、団員は涙ぐみながら、それぞれ身近な稲むらに火を放った。炎々と稲むらは燃え、昼のように明るくなり、救助作業は目に見えて捗った。
稲むらの火で、新たな九名の男女が、救い出された。
もう、叫び声も、呻き声も、きこえなかった。と同時に、不気味な鳴動が高くなった。第二の海嘯の襲来を予感した儀兵衛は、
「−−さあ、急いで、退却だ!」
助け出された者を背に負い、叉手をひいて、崇義団の連中が、小高い一本松のあたりまで引き揚げた時、ひたひたと風を呼び、ズズズッと背後に迫った海嘯は、最初よりさらに大きく、その高さ五六米にも及び−−大轟音と共に砕け、牙のような尖端は一本松の根元まで噛んだ。
ふり返ると、点々明るかった稲むらの余燼も全く消されて、狂いながら引いてゆく潮の音ばかりで、しんの闇だった。
身震いしながら、綿のように疲れた崇義団の一行は、やっとの思いで八幡山へ引き揚げてきた。
あちらにひと塊り、こちらにひと塊りになって脅えている避難民に、今度は、飢えと寒さが襲ってきた。一夜乞食である。休む暇もなく、儀兵衛は団員を指図し、畳や、 筵や、藁を集めて敷き、同じように戸や障子を集めて囲い、俄造りの仮の宿に、老人、女子供を収容した。
一方、近くの法蔵寺へ行き、老住職白蓮を説いて、その貯蔵米全部を借り出し、炊き出しを開始した。だが、一時凌ぎにも足りなかった。
深夜、儀兵衛は、隣村中野村の庄屋の門をたたき、年貢米を一時融通してくれるように頼んだ。が、庄屋は廣村の惨状に同情しながらも、年貢米はお上のものということを楯にとって、なかなか応じようとしなかった。儀兵衛はねばり抜いた揚げ句、
「−−いかに、お上のものとは云え、適宜の処置よろしからず、そのため多数の領民が飢え死んだと公儀にきこえたら、御藩はお咎めがあった蒙られるやも計られませぬ。−− 萬一、年貢米に手をつけたお咎めがあった場合、この儀兵衛が腹かつ切って、お詫び致しましょう」
それでも拒否しつづけたら、目の前で腹を切りかねまじき儀兵衛の気迫に押されて、庄屋は漸く五十石の年貢米を貸し渡すことを承知したのだった。
これで七八日は飢えずにすむ! −−午からの奔命にクタクタになっていた儀兵衛は、この安心も手伝って、朗報を一時も早く皆に伝えようと八幡山へ急ぐ山道を、歩きながら眠って、何度も倒れようとした。
・・・不気味な海嘯の鳴動は、ひと晩中つづいていた。

沸々たぎる郷土愛

暁方まで、七回の海嘯が、来襲した。
次第に判明した地震と海嘯の被害は 全戸数三三九のうち、家屋流失一二五、全潰一0、半潰四六、浸水破損一五八という惨憺たるもので、何等かの被害を受けない家は一軒もなく、叉、田地、橋、船の大半が流失してしまったのである。
これだけの大被害にもかかわらず、人命の損失は、儀兵衛及び崇義団の働きによって、わずか三十余名に喰いとめることができた。
しかし、きのうに變るこの浅間しい村の姿を見て、村人は呆然自失した。余震は頻々としてつづき、何から手をつけてよいか判らない。寄る邊のある者は、近くの町や村に引きとられて行ったが、それは僅かな数で、凶悪な天災は、村民の大多数を住む家なく食うに食なき境涯に追いやってしまったのだ。 この惨状を前にして、儀兵衛の郷土愛、人間愛は、沸々とたぎった。(−−どんなことがあっても、昔の、いや、より以上の廣村にしなければならない! できる、皆が力を協早稲さえすれば、この困難も乗り切れるし、叉、研究と工夫さえ完全だったら、天災も最小限度に喰いとめることができる。きっと、できる!)
彼は幸いにして無事だった自分の倉庫から、手持米二百俵を全部供出した。その上で、村内はもとより、近隣の湯浅、中野等各村の金持、物持を説いて金や米穀の助力を仰ぐために、東奔西走した。
同時に、崇義団は云うまでもなく、庄屋雁野仁兵衛、村役人竹中助太郎等を激励して、治安の維持、羅災地の取り片づけ、救助米の申請等を行うと共に、難民を収容する藁小屋の建設に全力を挙げた。
しかし、時恰も徳川末期で、崩壊に瀕した武家政治は、その政治力を失い、御三家の一つの紀州藩でありながら、その領土内のこの大災害に対して、何等積極的な救済策を講じようとしなかった。
−−自力、ただ自力! 自力更生あるのみ!
支配階級の無力を見せつけられるにつけ、この儀兵衛の信念は、益々燃えさかった。
漁師の喜兵衛、寅右衛門等には、船と漁具が与えられた。百姓の亀右衛門、平吉等には、新しい鍬や鋤が与えられた。商人のの八十助、良作等には、その商う物資が与えられた。
これらはすべて儀兵衛の私費である。私費と云えば、話は前後するが、彼が私財を投じて建てた村内の仮小屋は、安政二年正月から同三年正月までの一年間に、じつに五十棟にも及び、そこへ資力のない者は無料で、多少の資力ある者は十年間の月賦で住まわせた。
漁師は海へ、百姓は田畑へ、商人は巷へ、さしもに打ちひしがれた廣村も、生身の摩擦のような儀兵衛の陣頭指揮によって、少しずつ息を吹き返して行った。
が、焦眉の危機は脱しても、根本の不安は色濃く村民の心に残った。それは、営々と再建しても、いつ叉不慮の天災によって、一夜乞食に突き落とされはしないだろうかという不安だった。
この根本的な不安を一掃しなければ、いかに復興と再建を急いでも、佛作って魂いれず、ほんとうの平和郷の建設は望めない。あの大海嘯と同時にこのことを感じていた儀兵衛は、復興に着手して以来、いよいよこの考え方を深うし、寸暇も惜しんで繰り返し破壊されたあとを見て廻った。
廣村海岸の波除け石垣も、和田崎のそれも、無惨に打ち砕かれて、あの大海嘯には殆ど役に立っていなかった。
この南海の一隅廣村に繰り返された破壊と建設の歴史は−−
古くは平安朝の初め、桓武天皇の御代になった織日本紀に、「天平三年(西暦七三一年)有田郡海水突如血色」とあるのに始まり、その後も繰り返された災害に対して、室町時代の初め、足利義満が金閣寺を造った應永年間(一四○○年頃)時の領主北畠氏によって、波除けの石垣が築かれ、これは高さ三米、頂上の幅二米弱、底幅五米で、長さ七百餘米に及ぶ堅固なものであったが、徳川家康が幕府を江戸に移した翌年、つまり慶長九年(一六○四年)の大海嘯で破壊された。四代将軍家綱の治世、寛文年間(一六六五年頃)領主紀州徳川家によって、長さ三百二十米の石垣が、和田岬に築かれたが、それは四十年後の寶永四年(一七○七年)の大海嘯で打ち砕かれた。そうして、松平定信が老中の頃、つまり寛政年間(一八○○年)頃、徹底的に改修されたが、いまや、この安政元年の大海嘯によって、このように無惨に破壊され、一村全滅の悲境に立ち至ったのである。
−−まるで、塞の河原の小石つみのようであった。
(−−この石をつみ上げては、無慈悲な鬼の棒に突き崩される哀れな子供達を、守り咜う菩薩の大きな袖はなんだろう?)
儀兵衛はあらゆる古文書をあさり、口碑伝説を調べ、その綿密な研究と工夫の結果、さうだ、未曾有の堅牢な一大防浪提を築こう!これこそ、その菩薩の袖の解答だ。この解答の基礎を、「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」と昔から云われているように、先ず何よりも全村民の協力一致の和におくこと、そうして時間と物資のムダを省き、勤労と科學におくこと等に思い至り、その構想は次第に堅実にふくらんで行って、
(−−そうだ、この大防浪提さえ築き上げれば、未来永劫この廣村を安泰におくことができる!どんなことがあっても、これは成就しなければならぬ!)
と、不屈の信念と不撓の決意をかためるのだった。

一大防浪提成る!

・・・高さ四米半、頂上の幅三米、底幅十七米、高さも幅も長さも、かつて見なかった堅牢な一大防浪提が、廣村を包園するように築かれている。防浪提は堅密に芝生に覆われ、その外側には数百株の松が二列に植えられ、内側には同じように檀が植えられて、それらの根は深く堤防の土に錯綜し、松風はさつさつと村人の平和と幸福を奏で、櫨は風情ばかりでなく莫大な蝋の生産によって村人をより豊かにしている。…もう、どんな大海嘯が襲ってきても、この堤防は毀れない。廣村はビクともしない…
頭の中で幾度も築き、幾度も毀して、ゆるぎのないこの築堤の構想ができ上がると、儀兵衛は先ず、廣村で儀兵衛についでの有力者、同族の濱口吉右衛門をたずねた。儀兵衛は自分の信念と決意を打ち明け、
「−−わしは裸になっても、全身をこの事業に捧げる覚悟だ。しかし、どんなにわし一人が頑張ってみても、村の衆全部がわしと同じ気になってくれねば成就し難いこと、そこで先ず第一、あんたに賛成し、協力して貰いたいと思ってやってきたんだが・・・?」
いまや村人全體から生神様のように尊敬され、信頼されている儀兵衛を、人後に落ちず信頼し尊敬してる吉右衛門も、事業が餘りに大きく、困難の多いことを思って、
「素晴らしい計画だが、しかし・・・」
と、口をつぐんで、すぐには賛成しなかった。説得の困難を十分覚悟してきた儀兵衛は、
「・・・こんな不安な處へは住めないと、離村者も相次いでおる。このまま放っておけば、この廣村は亡んでしまう! 自分たちの代にこの村を潰したとあっては、何千百年の間苦労して守り続けてきた祖先にどうしてお詫びをするか? 叉、決して仕合せではない流離の子孫に、なんとして合わせる顔があるか? 村が潰れるか、叉、より以上栄えるかの瀬戸際だ。吉右衛門さん、よく考えてくれ。・・・このとおりにすれば、村は立派に生き返るのだ。決して夢ではない。皆が力さえ協せれば、必ず出来るのだ!」
郷土愛の熱誠、涙さえうかべ、説き去り説き下る儀兵衛の舌は、火を吐くようであった。打ちのめされた村民の救済も、今迄のような、ただ場當りに金や物を恵むという、慈蕃的なやり方では駄目だ。この方法は、いつか村人を他力本願にし、心を緩ませ腐らせる。難民をこの工事に動員し、生産のよろこびを知らせ、天は自ら救けるものを救ける道を実践させたら、まさに一石二鳥にも三鳥にもなり、この空前の一大防浪提を築くことは、同時に人の心も併せて築くことにもなるのだ。−−
その熱誠と、綿密な科學的な計算と数字は、ついに相手を動かさずにはおかなかった。吉右衛門も涙を流し、かたく儀兵衛の手を握りながら、
「−−儀兵衛さん、よくわかった! やりましょう。及ばずながらわしもあんたの片腕になって、必ずやり遂げましょう!」
こうして挙村一致の基礎は成りーー安政二年二月、工事の第一歩は踏み出された。この時、儀兵衛から紀州藩に差出された上申書にも、(右工費ハ乍恐私如何様ニモ勘弁仕リ)云々とあるように自分達で賄うという強烈な自力達成の意気がうかがわれるが、同時に、荒廃した田地を堤防の敷地として、免税にして貰う政治的工作も忘れなかった。
難民は蟻の甘きにつくように、この工事に集まってきた。もとより、この工費には先ず儀兵衛の財産が投じられたが、いたずら盛りの子供から、腰の曲がった老婆まで、進んで働こうとする者を彼は喜んで受け入れ、その能力に応じて仕事を興えた。千四百の廣村の人口で、一時は毎月四五百の人数を動員したのだから、いかに彼の労力動員の方法が巧妙を極め、圧倒的に成功したかが判ろう。金がはいって、自分達の愛する村が安泰になる!自ずと勤労と協力の美風が興り、村全体に溌剌とした元気が溢れてきた・・・
しまいには、一旦村を見限った者まで、前非を悔いて帰ってきた。
「−−御苦労さま。今日もしっかりやってくれ!」
儀兵衛は激務の傍ら、必ず毎日現場を見廻って、働く一人々々に、笑顔で激励の言葉をかけて歩いた。全員嬉々としていそしむ工事は、眼に見えて捗った。村には昔から、宇田組、北組、南組、濱組の組があり、それぞれ庄屋を持って、組毎の争いが絶えなかったが、工事が進むにつれ、この共同の一大目的のために、その縄張り争いをやめるようになった。
農緊期になると、叉すぐ工事を継続した。村人は忙しく、愚痴や不平をこぼす暇がなかった。その忙しさだけ、収入もふえた。稼ぐに追いつく貧乏なしだ。
−−かくて、工事は意外に早く進み、起工してから満四年の後、安政五年十二月、全村民の感激の嵐と、感謝の涙のうちに、最初儀兵衛が胸に描いた第一期計画の一大防浪提が、殆どその原案と変わりなく、自然の暴威を尻目にかけるように、巨大な雄姿を完成したのである!
その対面に松を植える時、
「−−松を掘る時、赤い布を北向きの枝に結んでおいて、植える時、その赤い布の枝を北向きにして貰いたい。」と、松のつきがよいように、細心の注意を忘れない儀兵衛であった。
この工事に動員された人夫は延五千七百三十六人、儀兵衛の投じた私財は銀九十四貫三百四十四匁。
後年−−明治になってから、儀兵衛の親友福沢諭吉が、あなたはどのくらい社会公共のために金を使われたか、と質問した時、元禄年間銚子にヤマサ醤油を創め、莫大な財をつんでいた濱口家。この南海の名家の七代目に當るこの物語の主人公の儀兵衛は、
「−−そうですなあ。私の財産は、維新の前と後の今と同じで、現在では物価が約十倍になっておりますから、つまり九割位は使ったことになりましょうかなあ。」と、笑って答えたという。
大防浪提完成のあと、廣村では(濱口大明神)建立の議を一決したが、儀兵衛は絶対に許さなかった。

英京ロンドンの感激

明治三十六年(一九○三年)
五月十三日のこと−−
ケンブリッジ大學に留学中の、儀兵衛の末子濱口擔氏が、ロンドンの日本協會に招かれて、一夕「日本の女性」なる演題で講演し、終わって司會者デオシイ氏が、まさに閉會を宣しようとした時、数多い婦人の聴衆中の、うら若い一人が立ち上がって、ステヲ・ラ・ロレッツと名乗り、司會者の許可を受けたあとで、擔氏に、
「−−今日のお話に、私はなんの質問をする能力もありません。けれども、講演者のお名前が、ハマグチということに、限りない憧れと興味をつないでいた者でございます。」
といって、今度は聴衆に向かい、
「−−皆様は、ラフカディオ・ハーンの(佛の畠の落穂拾い)の冒頭の(生神)と題した美しい物語をごらんになったことがございましょうか?」
と、紀伊國廣村を襲った大海嘯と、挺身してその災害から村民を救った濱口儀兵衛の、その「生神」に綴られた物語を述べて、
「−−私は(生神)をよんで以来、この儀兵衛の慈愛としんの勇気に対し、心からの尊敬と愛慕を捧げております。私は一幅のペン畫を秘蔵していますが、それに描かれた可憐な日本の少年に、(小ハマグチ)と名づけているくらいでございます。」
ロレッツ嬢は、さらに又擔氏に向かい、
「−−今日の講演者のハマグチ氏と、私の崇拝しているギヘイ・ハマグチとの間には、なんの関係もないのでございましょうか? このことをお尋ね致しとうございます。」
彼女が着席すると、堂に溢れた聴衆の視線は、期せずして壇上の擔氏に注がれた。が、擔氏はうなだれたまま一言も発しようとしない。−−
儀兵衛は村を興したばかりではなかった。この傑出した人材を國家が要求しない筈はなく、維新後、和歌山県の小参事へ、明治四年には中央政府に入り、逓信大臣に相當する駅逓頭へ榮進、郵便事業を画期的に改良し、同十三年には和歌山縣會議長へ、さらに老いて益々盛んな彼は、同十七年海外視察の旅に上り、翌十八年四月ニューヨークで客死するまで、その六十六年の一生は、一刻として休む暇のない、公共へ奉仕することに終始した偉大な生涯であった。
わが父ながら、擔氏は儀兵衛に、人知れず傾倒していた。その敬愛措く能わざる父が、はからずも故國を遙かに隔てた英京ロンドンで、しかもうら若い異邦の婦人によって、かくも認識され、絶賛されていようとは!
・・・感動に口がきけなかったのである。司會者デオシイ氏が歩みよって、二言三言、擔氏と囁きを交わした。そうして、デオシイ氏が、ロレッツ嬢並びに聴衆に向かい、
「−−小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの(生神)に描かれた濱口儀兵衛は、このミスター・ハマグチの御尊父であります!」
と紹介すると、場内は忽ち、湧き返る歓呼と、急霰の拍手に包まれてしまった。・・・

世界聖人目録

その後、濱口擔氏はハーンのかいた物語の誤りを正し、さらにその全貌を追加して、くわしくロレッツ嬢にかき送った。
事実は物語よりも奇―、その全貌を知ったロレッツ嬢が、さらにどんなに深く感動したか、それは擔氏にあてられたその返事が、何よりも雄癖に語っている。
その返事には―−(前略)
「・・・じつは、正直に申し上げますと、私はあなたのお手紙を拝見するのを躊躇したのでございます。それは、お手紙を拝見することによって、ハーンの(生神)から私の受けた感動、それは憧憬と信仰にまで高まってる私の幻像が、或いは毀され弱められはしないかということを恐れたからです。ところが、思い切ってお手紙を拝見し、事実は全く私の危惧を裏切り、より感動すべき数々の新しい事実を知って、光り輝く一幅の彩色畫を見せて頂いたような気がしました。(略)
・・・日頃、私は心の中に、世界的聖人の目録を作っております。その中には、キリスト教も、佛教徒も、叉、ペルシャ教徒もございます。その中の或者は、自ら文明人をもって誇りつつある人々が、野蛮人と呼んでいる人々の中にもあるのです。けれども、私の信じております聖人は、いずれも美しい徳を持っている點で一致し、例えば金貨のようなもので、鑑造の相違こそあれ、その実質が黄金―四海同胞という黄金である點では、少しも變りがありません。
まだ見ぬ遠い國に生まれ、その血統、その風習、その信仰―神學者達が区別しつつあるその信仰においても、私達と全く異なる人種に属するギヘイ・ハマグチの名は、私の聖人目録中でも、最も讃めたたえる人のご令息とじっさいに握手することができましたことは、私にとってなんという喜びでございましょう!」
ロレッツ嬢は、ここでハーンが、濱口神社がたてられたとかき、叉、海嘯来襲の年代を間違って傳えたことに遺憾の意を表し、その訂正方を日本協會會長デオシイ氏に依頼した手紙をかいたことを述べ、
「・・・こんなに遠く離れた異境で、公衆の面前で話されている物語の主人公が、他ならぬ御尊父であるとお判りになりました時、激越な感情のトリコになられたあなたの御気持は、十分お察しすることができます。けれども、あの晩、會衆はどんなに感動致しましたことでしょう! 拍手喝采は、ほんとに割れるようでございました。―−私も日本協會で、あんなに嬉しかったことはございませんし、あれに似よりのことさえ、未だかつて見聞したことがございません。実際、小説の一齣でございました。」云々(下略)
この國籍と人種を超えた感動の手紙は、―儀兵衛の物語をきくほどの人は、その例に對して必ず深い尊崇と愛慕の情を抱くであろうことを繰り返して述べ、擔氏の手紙への謝意をもって結んであった。

X              X

安政五年、儀兵衛によって南海の一隅廣村に、わが國見曾有の本格的な大防浪提が築かれてから、幾十星霜―
その後、廣村は時々海嘯に見舞われたが、ビクともしなかった。
昭和二十一年(一九四六年)十二月二十一日未明、南海道に起こった地震は、その規模、震度に於て、近来稀に見る大きな、激烈なものだった。と同時に、形影相伴う如く来襲した大海嘯。南海道、四國では、その波の高さ六米に及んだ處が多く、その甚大な被害は、われわれの記憶に新たなところ。
が、その安政五年の大海嘯にまさる猛威にもかかわらず、老松鬱蒼としてそびえる大防浪提は、平然として廣村を守り、その被害は江上川にそのハケ口を見出した波によって、わずかにその川沿いの建物若干にかすり傷を興えた程度に過ぎなかった。
南海の義人濱口儀兵衛は、今日なお生きている。今後も永く生きるであろう。いみじくも小泉八雲(ハーン)は「生神」と表現したが、厳然たるこの事実と、さらに廣村で十一月五日を儀兵衛への感謝記念日に定め、各人二三荷の土を運び、その補強工作を行っていることを、もし健在のロレッツさんに傳えることができるならば、その世界聖人目録の一頁は、さらに輝きを増すであろうに・・・。 (おわり)

さしえ 斉藤後百枝

講談社承認の元転載