13 12月

「稲むらの火」
-フィクションと実話から学ぶ津波防災 –

「稲むらの火」
-フィクションと実話から学ぶ津波防災-
「予防時報」((社)日本損害保険協会,2005年1月)より
津村建四朗*つむらけんしろう/財団法人日本気象協会参与

1.はじめに

1983年日本海中部地震に伴った大津波は、日本海沿岸各地を襲い、この地震による死者・行方不明者104名中100名は津波による犠牲者であった。中でも山間部の小学校から秋田県の海岸に遠足に来ていた児童13名が亡くなったニュースは、社会に衝撃を与えた。この後、戦前から終戦直後までの約10年間小学校で教えられでいた「稲むらの火」が今も教えられていたら、この惨事は防げたのではないか、という投書が新聞に載った。これを契機に、この教材が改めて注目されるようになり、防災関係の出版物や新聞、テレビ番組等で繰り返し紹介されている。
「稲むらの火」は、1896年の三陸大津波の直後にラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が執筆、翌年出版された作品「A Living God」に基づいて、中井常蔵が文部省の教材公募に応じて教材化し、5年生の国語読本に採択されたものである。八雲はこの作品を、1854年安政南海地震津波の際に、稲むらに火を放って暗夜に逃げ遅れた村人を避難誘導した紀州広村(硯和歌山県広川町)の浜口儀兵衛(梧陵)の逸話をヒントに創作したと考えられているが、実話とは多くの点で異なっており、フィクションである。一方、梧陵は津波の後、私財を投じて百年後の津波に備え海岸に堤防を築いた。この堤防は、1946年の南海地震津波から村の主要部の街並みを護ったが、それにもかかわらず村全体では22人という多くの死者が出てしまった。筆者もその村に生まれ育ち、この津波を体験した。これらのフィクションと実話から学ぶべき津波防災上の教訓について記してみたい。

2.「A Living God」と「稲むらの火」

フィクションである「A Iiving God」と「稲むらの火」に共通しているストーリーの概要は次のようである。
海辺の村を見下ろす高台に住む荘屋の五兵衛は、秋の日の夕方、うなるような地鳴りを伴い、ゆっくりした揺れが長く続く無気味な地震を感じた。続いて、浜辺に日を移した彼は、海水が風にさからって沖に向かって動き、みるみるうちに海底が露出してくるという異常な光景を発見した。彼は、これらの現象から津波が来襲することを予想した。この危険に気づかない海辺の村人達に危急を告げに行くには時間的余裕がないと判断した彼は、一計を案じ、家の傍の田に積まれていた取り入れたばかりの稲むら(稲の束を積み上げたもの)に次々に火を放った。荘屋さんの家が火事だと見た村人連は全員消火のために高台にかけつけたので、まもなくすさまじい勢いで村を襲い、跡形もなく流し去った津波から助かることができた。
この火によって救われたのだと気づいた村人達は無言のまま五兵衛の前にひざまずいてしまった。
この作品や教材については、既に多くの解説がなされているので、筆者が特に注意したい点を指摘するだけにとどめたい。

(1)「津波の前には潮が引く」とは限らない
「村から海に移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸い付けられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、みるみる海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れて来た。」という「稲むらの火」の津波の前の引き潮の描写は極めて印象的である。全国的に、津波の前には、必ずこのような引き潮が先行すると信じている人が極めて多い。その原因には、実際にそのような体験があったり、体験者の話や言い伝えを聞いたりした場合もあるかも知れないが、この教材を学んだ多数の児童達もそう信じ込んだに違いない。津波は海底下の地震により地下で急激な岩盤の食い違いが生じ、その影響で海底が隆起したり、沈降したりすることによって発生する。隆起した部分からの津波が最初に到達すると、始めから潮位が一気に上昇することもあるので、この誤解は時に生死を分けかねない。異常な引き潮は津波の前兆として直ちに避難しなければならないことは、この物語の通りであるが、逆は真でないことを、「稲むらの火」を教える際に注意する必要がある。

(2)共助の仕組みが村人の命を救った
「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ。」と五兵衛が点火した稲むらはたちまち燃え上がり、天をこがした。山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。「火事だ。荘家さんの家だ」と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。続いて老人も、女も、子供も、若者の後を追うようにかけ出した。
なぜ村人全てがいっせいにかけ出したのかは、八雲の原文を読むと分かる。八雲は、この物語の前に、日本のむかしの村では村内で火事があった場合には、村人全員が消火にかけつけるのがもっとも厳しい掟であった、と書いている。また、子供も水を運ぶことができるからとも書いている。つまり、最近の言葉で言うと「共助」の仕組みがあったということになる。この仕組みがあったればこそ、五兵衛は、火を点ければ村人全員がかけつけて来るに違いないと確信して実行したのであろう。また、村人はその掟を守ったことによって自らの命が救われたのだとも言える。共助の精神の薄れた現代では全員助かるのは無理かも知れない。なお、立ち上る煙をいち早く発見し、早鐘をついて全員に急を報せた山寺の僧の迅速な対応は、緊急情報を単純な形で瞬時に伝達するという、重要な役割を果たしたものとして見逃せない。

(3)義務教育段階での防災教育の重要性
津波防災の知識は海岸の住民だけが知っていればよいというものではない。津波に出会う機会は、海岸に住む住民の方が多いが、日本海中部地震で犠牲となった学童達のように、内陸部の住民が仕事や行楽などでたまたま海岸に行っていた時津波に遭遇しないとは限らない。海岸の住民は、普段から津波についての多少の知識を持ち、避難経路などの土地勘もあるから、いざとなった時各人が迅速な避難行動をとりやすい。一方、普段津波など考えたこともない来訪者は、逃げ遅れになりやすい。
「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉で知られる寺田寅彦や関東大震災の警告、南海地震の予知研究と防災啓発に尽力した今村明恒は、義務教育段階における防災教育の必要性を強く主張していた。国民のほとんどが学ぶ義務教育の教材として「稲むらの火」が採択されたことによって、10年間で全国で千数百万人という膨大な数の児童がこの印象深い教材を学んだことになる。おそらく他の手段では到底このような多数にもれなく防災意識を伝えることは不可能であろう。市民向けの防災講演会や各種メディアを通じた防災啓発活動も勿論有意義ではあるが、これらを通じて知識が広まる範囲は、義務教育に比べればはるかに限られている。義務教育段階での防災教育を継続することによって、やがて全ての国民に防災の基礎知識を身につけさせることが、長期的には国全体の防災力を着実に高めるという認識で取り組む必要があろう。
この際、教える教師自身が正しい防災知識を持っていることが必要である。今村は、この教材がより有意義に教えられるよう、『「稲むらの火」の教方に就て』という教師用の手引書を書き、震災予防評議会発行の小冊子として広く配布した。この中で、今村は、この教材の原典が八雲の作品であり、実話とは多くの点で違っていることを指摘した上、「斯様な詮議立てをすると、作品の価値について疑惑を起こす人があるかも知れぬ。併し物語の文学的価値は、事実とはさ程の関係は無いものであって、寧ろ事実を多少歪めた為に其の価値を高めた節があると言えよう。あるいは又、五兵衛の崇高な行為に対する尊敬の念が薄らぐように懸念する人があるかも知れないが、併し事実は物語より更に奇なる点があり、儀兵衛の実際の行動は一層崇高で、英雄的で、献身的で、波潤に富んでいる。之を要するに、ハーンは儀兵衛の偉大さの片鱗しか伝えなかったと言える。」と延べ、以下に述べる実話を詳しく紹介している。なお、この冊子には、津波と高潮の違いなども解説されているが、残念ながら「津波の前には必ず潮が引くとは限らない」という注意は書かれていない。

3.広村を襲った安政南海地震津波

既に述べたように、八雲の作品や「稲むらの火」と実話は、大変違っている。実話の主人公濱口儀兵衛(梧陵)は老人ではなく、35歳の壮年であった。また、家は高台ではなく低地の集落の中にあった。揺れは激しいものであったし、顕著な引き潮が先行したという記録もない。稲むらに火を放った状況も違っている。この時の実況は、梧陵自身の手記などに記録されている。
1854年12月23日(旧暦安改元年11月4日)午前10時頃激しい地震(安政東海地震)があり、村人は津波を恐れて、高台にある八幡神社などに避難して一夜を過ごした。実際津波は来たが陸上に被害を生ずるほどのものではなかった。翌日は、穏やかな天気で海も静まったので、皆安心して家に帰った。ところが、16時頃、前日よりも格段に激しい地震(安政南海地震)が襲い、瓦は飛び、壁は崩れ、塀が倒れるという状況となった。また、巨砲の連発するような響きが聞こえた。このため、梧陵は壮者を励まして村民を立ち退かせるよう努力しているうちに、早くも怒涛のような津波が押し寄せた。逃げ遅れた者を避難させるため暫く踏み留まったのち、彼自身も激浪の中をようやく高台に逃れついた。まもなく日が暮れたので、壮者をうながして引き返し、たいまつを点じ、田の畔に積んであった稲むらに火を放った。この明かりによって、闇夜に路を失っていた多くの人々(梧陵の手記には、男女9名とある)が救われた。ついで、約1,400人の避難民の飢えをしのぐため、寺に炊きだしを頼み、隣村から年貢米の借用の交渉を行うなど、緊急の対応に奔走した。
この地震と津波による広村の被害は、流失158軒、全壊10軒、半壊46軒、浸水破損158軒で村中で害を受けなかった家は1軒もなく、死者は36人に達した。また、多くの田畑も流失した。このため、村は離散の危機に見舞われた。梧陵は、家屋50軒を新築して無料あるいは長期の年賦で貸し与え、農民には農具を、漁民には舟と漁具を買い与えるなど、救済に奔走した。さらに、将来の津波の害から村を護るとともに、職を失った村人に働く場を与えるため、私財を投じて大防波堤を建設する計画を立て、領主の許可を得た。この堤防建設には、荒廃しても重税のかかる田畑を堤防敷地として使用し、廃田免租を図るという目的もあったようである。工事は、津波の翌年安政2年の2月から始まり、同5年12月までのべ人員5万6,730人を投じて続けられた。このための費用は銀94貫344匁を要したという。こうして築かれた高さ約5m、長さ約600mの土盛りの「広村堤防」は後に国の史跡に指定され、現存する。
なお、八雲の原文では、五兵衛は村人達によって生きながら神として祀られたことになっているが、実話の梧陵は、そのような企てを聞き、強く固辞して、実際には祀られなかった。しかし、安政地震津波の50周年を機に梧陵をはじめ村の先覚者達の偉業に感謝し、海の平穏を祈る「津波祭り」が行われるようになり、現在でも、小、中学生も参加して堤防を補修する行事とともに、毎年続けられている。

4.水泡に帰した今村明恒の南海地震の 予知と防災への努力

関東地震の前に、大地震の可能性とその際の火災による大災害の危険性を警告した東京帝国大学教授今村明恒は、1933年に南海道沖で比較的近い将来、巨大地震が発生する可能性を指摘し、防災対策の強化の必要性を訴えた論文(「南海道沖地震の謎」)を発表した。今村は退官後も紀伊半島や四国東部に私設の地震観測網を展開、この地震を予知するための研究を続けるとともに、過去の南海地震・津波の各地の被害記録を調査し、これに基づいて、具体的な防災啓発活動を続けた。今村の長期予知の根拠は、この海域における大地震が約100年から150年位の間隔で繰り返し発生していること、紀伊半島南部や室戸岬では、ゆっくり南下がりの傾動(沈下)を続けているが、過去の記録や関東地震前後の際の類似の変動から見て、いずれそれが限界に達し、大地震が発生して突然隆起すると予想されることであった。時期については、さらに、規模の小さい地震の方が、大きい地震に比べて次の地震までの間隔が短い傾向があるように見えることを指摘し、「最後の安政地震は第二流に属するものであるから、最悪の場合を仮想することが災害防止上の立場から見て寧ろ得策であろう。特に安政元年以来既に79年を経過した今日であるから。」と警告している。この予測は、現在のようにプレート・テクトニクスという理論的背景を持ってはいないが、その根拠となる事実関係の認識においては同じである。
今村が予想した大地震の一つは、まず1944年12月7日に紀伊半島の東側を震源域として発生した。東南海地震である。今村はこれに続いて、その西側で南海地震が発生するのは必至と見ていたが、戦時中は勿論、戦後の混乱の中では、その警告が社会に伝わらないまま、1946年12月21日に南海地震が発生してしまった。今村の観測は戦争末期には、消耗品の不足などで休止してしまい、これらの大地震が前兆を伴ったかどうかを確かめるためのデータは得られなかった。僅かに、今村の依頼で軍の陸地測量部が東南海地震の当日掛川付近で行っていた水準測量で前兆かも知れない僅かな傾斜変化を観測しただけである。
今村は、彼の努力が実らず大被害が発生してしまったこと、特に、「稲むらの火」の地元であり、自ら訪れて助言したこともある広村でも多くの死者が出たことを知り、「昭和の南海道大地震津波につき広村の人々に寄す」という文書を同村に送っている、(「和歌山県広町津波略史と防災施設」広町役場、1952、に収録)。それには次のように書かれている。
「……かくて余が後援者の下に払った十数万円の研究費も、18年間の努力も、無為に終わったようであるが、併し全くの水の泡であったとは思っていない。余は府県別町村別将た港湾別に、宝永安政両度の震火波の三災を調べ上げ、将来の変異を災禍たらしめないよう、当局に進言し勧誘していたのである。成果が期待ほどに挙がらなかったのは、余の微力に由るこというまでもないが、従来吾が国民の災害予防に対する関心の薄かったことも指摘せざるを得ない。
南紀の広村についてもそうである。浜口梧陵心尽くしの防波堤も、二ケ所の切り通しの為にその実効の薄らぐのを惜しみ、せめて鉄扉の働きだけでも有効にしたいと考え、村役場に突如闖入して其の付け替え方を薦めたこともある。又防波堤の出現は、広川と江上川とを津波進入の主要な地帯となさしめ、従って津波の主力は逸早くこの地帯に沿うて進入するから、建造物を他に移すか、避難道路は之を避けて計画すべきである等の注意を、小学校の職員室においても陳述したことがある。特に耐久中学校の位置の危険なるは屡々県当局の注意を促し、余と同県の出身たる学務部長に殊にこれを力説したこともあった。余は考えた。若し余が物した「稲むらの火の教え方に就て」という一編が、災害予防に関心を持つ人達に読まれたら波災は大いに軽減されるであろう。況や、この小編は浜口家の好意に依って、村には多数寄贈されたではないかと。然し事実は果たしてどうであったろう。鉄扉はすらすら自動的に閉じたか。耐久中学校は如何。江上川には水難者は無かったか。これらは今更余が問うまでもなく、村の人達が熟知している事実である。」
実際におこったことは、次のようであった。

5.広村を襲った昭和南海地震津波

昭和南海地震は、夜明け前の4時20分頃に発生した。筆者も広村生まれで、この時、梧陵が幕末に創設した耐久舎の流れを汲む耐久中学の1年生であった。激しい揺れがかなりの時間続いたが、やがて収まり、家屋にも被害は無かった。停電して暗闇となった中、静かな時間がしばらく(多分20分位か)続いていたが、やがて海の方角から長い貨物列車が通過するような音響が聞こえてきた。それと同時に、近所で誰かが「津波だ」と叫ぶのが聞こえた。小学生の頃から、津波祭りにも参列し、津波のこわさと、津波の際には八幡様のある丘に逃げることを教えられていたので、すぐに独りで最短コースをたどって必死で逃げた。途中に今村も危険性を指摘している江上川の細い支流があり、それにかかる小橋を渡った頃には既に津波が路上を流れ始めていたが、これを突っ切って丘にたどりつき、九死に一生を得た。堤防外の江上川沿いには、中学校と大きい紡績工場があり、特にその社宅はもっとも危険な立地条件のところに建ち並んでいた。広村の津波による死者22人のうち18人は工場関係者でこの付近で亡くなった。県外出身者が多く、津波の知識もなかったためと言われる。一方、地元の住民にも津波の恐れは感じながら逃げ遅れて、津波に追いつかれ、危うく難を逃れた者も多かった。その原因の一つは、津波の前には引き潮があるはずと思い込んでいたことにあった。地震直後、広村堤防の上には、付近の漁師が集まって、海を眺め、「異常がないから津波は来ないだろう」と話し合っていたそうである。結果的には、この時の津波は海岸での高さが4~5m程度で、広村堤防によって防がれ、市街地の大部分は浸水をまぬがれた。広村堤防は、梧陵の意図した通り村を護ったのである。ただし、堤防中央部の赤門と呼ばれる鉄扉はさび付いていて、付近の住民が迫り来る大波を物ともせず、重い掛け矢を振りかざして閉門したので、市街地中心部への浸水を防がれたのであった。
結局、稲むらの火の地元であり、毎年津波祭りを行って、津波のことを決して忘れていなかったはずのこの村でも、堤防外の川沿いの危険な地域への開発と、「大地震があれば、直ちに避難する」という基本に忠実な行動をとらなかったために、大きい人的被害が発生してしまったのである。

6.むすび

八雲の「A Living God」も「稲むらの火」も、実話よりもはるかに簡潔に、防災上何が重要であるかを教える名文である。莫大な私財を投じて百年後の津波から村を護るために堤防を築き、村人の離散を防いだ梧陵の偉業とともに、今後も語りつがれ、防災意識を高める上で、大きく貢献するに違いない。しかし、実際の防災には、ただ抽象的にそれらを忘れないというだけではなく、その意識を土台に、自分自身の問題として具体的に災害に備えるという努力が必要であることを、昭和南海地震津波の広村の事例が教えている。今村の文書も、「凡そ天災は忘れた頃に来ると言われている。併し忘れないだけで天災は防げるものでもなく、避けられるものでもない。要は、これを防備することである。」という言葉で結ばれている。東南海地震.南海地震対策が急がれている中、これらのフィクションと実話から学ぶべき教訓は多い。なお、「稲むらの火」やここに引用した今村の文書の原文など、多くの関連資料は、民間の有志(代表者:嘉納毅人氏)が作っている「稲むらの火」のホームページ(http://www.inamuranohi.jp/)で、読むことができる。

損害保険協会の承諾を得て掲載しております。