15 12月

「稲むらの火」は生きている

「稲むらの火」は生きている
「小説新潮」(1988年9月号掲載)
伊藤和明(NHK解説委員)

 104人の死者を出した「日本海中部地震」の災害から、五年の歳月が流れた。

1983年(昭和58年)5月26日の正午過ぎ、秋田県・青森県の沖合に当たる日本海の海底で起きたマグニチュード7.7の地震は、両県を中心に大きな被害をもたらしたのだが、わけても沿岸各地を襲った大津波による災害は甚大なものであった。死者104人のうち100人が津波の犠牲者だったのである。よく晴れた日の昼間であったため、海岸に出ていた磯釣りや行楽の客が津波に呑まれ、能代港では、護岸工事をしていた作業員34人がその犠牲になった。

中でも涙をさそったのは、男鹿半島の加茂青砂海岸で、遠足の児童13人が幼いいのちを失ったことである。秋田県合川町立合川南小学校の四、五年生で、生徒45人と引率の 先生二人が、二台のマイクロバスに分乗して男鹿半島に遠足に来ていた。ちょうど昼時になったので、海のよく見える所で弁当を食べようと、県道からバスを海岸へまわす途中で地震の揺れにあった。しかし、浜に着いた時は地震の揺れはおさまっていたし、海は何ごともなかったかのように静まりかえっていた。そこで子供たちは、思い思いに浜辺へ下りて弁当をひろげ始めた。そのとき、海面が突然盛り上がるようにして大津波が襲ってきたのである。地震が起きてから七、八分後のことであった。一瞬のうちに海へ流された子供や先生を、地元の漁民が船を出して懸命に助け上げたのだが、13人はついに帰らなかったのである。

この悲しい出来事のあと、「海岸で強い地震にあったら、まず津波を警戒するのが当然 ではないか」という声が聞かれた。また「日本海側には津波はこない」という誤った言い伝えが現地にはあって、それが被害を大きくしたのだという指摘もあった。
それと同時に、「もし『あの教材』がいまも教科書に残っていたなら、この悲劇は防げたかもしれないのに」という声が上がったのである。では、ここにいう『あの教材』とは 、いったい何を指しているのだろうか。

昭和ヒトケタ生まれの人の多くは、むかし習った小学校の国語教科書に「稲むらの火」という教材のあったことを記憶しておられるだろう。この教材は、戦時中から終戦直後にかけて使われていた国定教科書の尋常五年生用「小学国語読本巻十」と、その後の「初等科国語六」に載っていたもので、当時の子供たちの心を強くとらえたはずである。

「稲むらの火」の筋書きは、一人の老人が、地震のあと海水が沖へ向かって引いていくのを見て、津波の襲来を予感し、高台にある自分の家の稲むらに火を放って村人を集め、人々を津波から救ったという物語である。
以下にその全文を再録してみよう。

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「これはたヾ事でない」
とつぶやきながら、五兵衛は家から出て来た。
今の地震は、別に烈しいといふ程のものではなかつた。しかし、長いゆつたりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない無気味なものであつた。
五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下した。
村では、豊年を祝ふよひ祭の支度に心を取られて、さつきの地震には一向に気がつかないもののやうである。
村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸附けられてしまつた。風とは反對に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れて来た。
「大変だ。津波がやつてくるに違ひない」と、五兵衛は思つた。
此のまヽにしておいたら、四百の命が、村もろ共一のみにやられてしまふ。もう一刻も猶豫は出来ない。
「よし」
と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、松明を持つて飛出して来た。
そこには、取入れるばかりになつてゐるたくさんの稲束が積んである。
「もつたいないが、これで村中の命が救へるのだ」
と、五兵衛は、いきなり其の稲むらの一つに火を移した。風にあふられて、火の手がぱつと上った。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走つた。かうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したやうに、彼はそこに突立つたまゝ、沖の方を眺めてゐた。
日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなつて来た。稲むらの火は天をこがした。山寺では、此の火を見て早鐘をつき出した。
「火事だ。莊屋さんの家だ」
と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追ふやうにかけ出した。高台から見下してゐる五兵衛の目には、それが蟻の歩みのやうに、もどかしく思はれた。やつと二十人程の若者が、かけ上つて来た。彼等は、すぐ火を消しにかゝらうとする。五兵衛は大声に言つた。
「うつちやつておけ。ーー大変だ。村中の人に来てもらふんだ」
村中の人は、追々集つて来た。五兵衛は、後から後から上つて来る老幼男女を一人々々数へた。集つて来た人々は、もえてゐる稲むらと五兵衛の顔とを、代る代る見くらべた。
其の時、五兵衛は力一ぱいの声で叫んだ。
「見ろ。やつて来たぞ」
たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。其の線は見る見る太くなつた。広くなつた。非常な速さで押寄せて来た。
「津波だ」
と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のやうに目の前に迫つたと思ふと、山がのしかゝつて来たやうな重さと、百雷の一時に落ちたやうなとゞろきとを以て、陸にぶつかつた。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のやうに山手へ突進して来た水煙の外は、一時何物も見えなかつた。
人々は、自分等の村の上を荒狂つて通る白い恐しい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。
高台では、しばらく何の話し声もなかつた。一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなつた村を、たゞあきれて見下してゐた。
稲むらの火は、風にあふられて又もえ上り、夕やみに包まれたあたりを明かるくした。始めて我にかへつた村人は、此の火によつて救はれたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまつた。
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(筆者注:漢字は現代使用のものに改めた)
当時これを学んだ人の多くが、他の教材については忘れていても、この「稲むらの火」だけは鮮明に覚えているという。私自身も例外ではない。軍国調一辺倒であったあのころの教材の中で、この物語だけはきわめて印象的であり、子供たちの心に深い感銘を与えたのである。

「稲むらの火」が教科書から消えたのは、戦後間もなくのことである。終戦直後のあの墨ぬり教科書の中でも、墨をぬられずに教材として使われていたのだが、昭和22年を最 後に姿を消してしまった。国語教材としては、わずか10年の寿命であった。

これほどの感動を呼んだ「稲むらの火」の物語は、けっして作り話ではない。そのモデルとなった実話が存在するのである。それは、1854年(安政元年)に起きた大地震のさいに、紀州和歌山藩広村(現在の和歌山県広川町)で実際にあった話がもとになっている。

この年の12月23日と24日(旧暦11月4日、5日)、東海以西の太平洋の海底で二つの巨大地震が相次いで発生した。のちにそれぞれ「安政東海地震」「安政南海地震」と名づけられた二つの地震が、32時間の間隔をおいて発生し、東海~近畿~四国を中心に、震害と津波により大災害をもたらした。

紀州広村は紀伊半島の西海岸にあるため、二番目の「安政南海地震」による津波被害が大きかった。広村では、399戸のうち125戸が流失し、36人の死者が出た。

当時この広村に、醤油の製造業を営む浜口儀兵衛という人物がいた。彼は名家の主人として、何かと村人の面倒を見、自分を犠牲にしてまで村のために尽くしたので、村人からたいへん慕われていた。このとき儀兵衛は34歳だったという。
儀兵衛の手記によれば、最初の地震つまり「安政東海地震」のとき、彼は老人や女子供を避難させたり、若者に村内の見まわりをさせて警戒に当たらせた。だがこの地震は、震源域がやや遠かったため、広村にほとんど被害は出なかった。

翌日の夕方、「安政南海地震」が発生した。前日の地震よりも揺れははるかに激しかった。やがて南西の方角から大砲のとどろくような音が聞こえ、大津波が襲ってきた。儀兵 衛自身も、多くの村人とともに流されたのだが、八幡神社のある小高い丘にすがりついて助かった。津波の第一波が引いたあと、儀兵衛はまだ下の村に多数の村民が残っていることを知り、若者に命じて、村から八幡神社の丘まで避難誘導をさせようとした。しかし、すでに日は暮れてあたりは真っ暗だったため、村人たちが方角を見失わないよう、道筋に当たる水田の稲むらに、松明で次々と火をつけさせたのである。その火に導かれて、人々は八幡神社へと無事避難してきた。

やがて津波の第二波が広村を襲った。一般に津波は、第二波の方が高いことが多い。だが、儀兵衛のこの機転によっていのちを助かった者は数知れなかった。この夜、津波は四回にわたって村を洗ったという。

かつては宝永の大地震(1707年)による津波で192人の死者を出し、このたびの地震でも、稲むらの火の機転があったとはいえ、36人のいのちが失われたことから、儀兵衛は、村を将来の津波から守るために、翌年から莫大な私財を投じて大堤防の築造に着手した。四年の歳月をかけて完成した堤防は、高さ4.5メートル、全長650メートル余りにも及ぶものであった。現実にこの堤防は、1946年(昭和21年)に起きた「南海地震」のさいに威力を発揮し、広村を大津波から守ったのである。

浜口儀兵衛は、こうして村人から生き神様として崇められるようになった。明治維新後は、県政そして国政へと活躍の場をひろげ、明治四年には、大久保利通の推挙により、現在の郵政大臣に当たる駅逓頭に任ぜられている。

いま広川町(かつての広村)を訪れてみると、大堤防の上に、浜口梧陵(儀兵衛が後に称した号)の遺徳を讃える「感恩碑」が建てられている。

いうまでもなく、教材「稲むらの火」の五兵衛のモデルは、この浜口儀兵衛のことである。ではこの儀兵衛の物語が、どんな経緯で小学校の国語教科書に載ることになったのだろうか。

実はそこに、明治の小説家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が介在しているのである 。ハーンは、1890年(明治23年)に来日し、松江中学や熊本の第五高等学校で教鞭をとったあと、神戸の新聞社で英字新聞の記者をしていた。日本女性と結婚し、のちに日本に帰化するほどこの国の風光や人情をこよなく愛していたハーンは、日本古来の文化や伝説に深い興味を抱いて、それを自身の作品に反映させていたことは、よく知られているところである。

そのハーンが、東京帝国大学の講師に招かれて神戸から東京へ移った1896年(明治29年)、東北の三陸沿岸を大津波が襲い、2万2000人もの死者を出す大災害が発生した。この悲惨なニュースを知ったハーンが、たぶん神戸時代に伝え聞いていた和歌山県広村での浜口儀兵衛の美談を思い起こし、儀兵衛を主人公に仕立てた“A Living God”(生ける神)という名の短編を書き上げたのである。

この短編の中で、「儀兵衛」の名を「五兵衛」に改め、年老いた村の有力者であるとしている。家は高台にあり、地震のあと海水の引いていくのを見たとき、五兵衛は祖父から 聞かされていた話を思い起こす。津波の襲来を予感した五兵衛は、取り入れて積み上げられ、納屋へ運びこまれるばかりになっていた数百の稲むらに、松明で次々と火をつけていく—。1854年の広村での実話とは、いささか異なる設定になっているが、この筋書きこそ、のちの教材「稲むらの火」の原形となったのである。

時代は下って1934年(昭和9年)、文部省は第四期国定教科書の制作にあたり、国語と修身の教材を全国に公募した。そのころ、和歌山県で小学校の教員をしていた一青年 が、この“A Living God”をもとに、教材用に書き直して応募したところ、見事に入選を果たした。これが「稲むらの火」として、昭和12年からの国定教科書に載ることになったのである。

その青年教師の名は中井常蔵といった。彼は、広村の隣の湯浅町に生まれ、かつて浜口儀兵衛が創立した広村の耐久中学(創立当時は耐久舎)に入学、毎日家から学校まで二里半の道を五年間かよいつづけた。彼は、往きか帰りにかならず儀兵衛が築造したあの大堤防の上を歩いた。もちろん、この堤防が村を津波から守るために造られたものであることは聞かされていたので、「よくもこれだけのものを造れたものだ」と子供心にも不思議に感じながらかよっていたという。

長じて師範学校に入った彼は、英文の教材としてラフカディオ・ハーンの選集を学ぶことになる。その中に“A Living God”があった。この短編に出遭ったとき、これこそ自分の故郷に語り伝えられているあの物語だと直感し、大きな感動を覚えたという。

やがて教壇に立つことになった彼は、儀兵衛(五兵衛)の心を、何とか子供たちに植えつけたいと願った。そこへ文部省
からの公募である。かねてから子供に愛される教材、子供の心に何かを刻みつける教材をと願っていた彼は、“A Living God”の感動を、そのまま子供たちに伝えようと、「稲むらの火」を書き上げ応募したという。そしてその感動は、彼の願いどおり、教材を通じて全国の幼な心に浸透し、当時これを習った子供たちが、50代の大人になった今も、鮮烈な記憶として脳裏に焼きついているのである。

中井さんは、80歳になった今もなお健在で、和歌山県の南部町に住んでおられる。終戦とともに校長の職を辞し、教壇を去った中井さんは、この町で酒屋を営んできた。今は息子さんがそのあとを継いでいる。今年の春、私ははじめて中井さんをお訪ねする機会をもつことができた。少年時代の心を揺り動かした「稲むらの火」の作者は、淡々と昔を語る一老人として、いま静かな余生を過ごしておられる。

昨年の「防災の日」、中井さんは「防災功績者」として国土庁から大臣表彰を受けた。50年以上も前の功績が、このような形で表彰されるのは、きわめて異例のことである。というのも、五年前の「日本海中部地震」での悲劇を契機にして、「稲むらの火」の物語が再認識されつつあるからにほかならない。

「稲むらの火」は、いま振り返ってみれば、防災教育の不朽の名作だったということができよう。
そこには、私財を捨てても人命の救助に当たった五兵衛の人間愛の物語を通して、人のいのちの尊さを教える防災の基本理念が盛りこまれている。そしてまた、海水の異常な動きから津波の襲来を予見した五兵衛の自然認識を通して、先人からの伝承がいかに大切なものであるかをも教えている。

それは、百の説法よりも、一つの感動的な物語を通じて人の心を打つ教育、情緒・情感 に訴える教育の方が、はるかにまさっていることを意味しているのではないだろうか。

災害列島日本に住んでいる以上、私たちは、いつどこでどのような災害に遭遇するかわからない。災害のタイプが多様化、複雑化してゆく現代であるだけに、「稲むらの火」のような、いわば防災の原点を示した魅力的な物語が、いまあらためて見直されていることは、たいへん大きな意義をもっているように思われる。

「日本海中部地震」の悲しい出来事を二度と繰り返さないためにも、地域の伝承を重んじ、それに根ざした学習を通して、自然現象に対する正しい理解と、災害環境の深い認識を進めておくことが、いま求められているように思えてならない。
〔原文の字句を一部修正〕

1988年5月、NHK解説委員伊藤和明氏がNHKのTV番組「視点」で、「稲むらの火」を取り上げるために広川町の現地を取材し、中井常蔵先生にインタビューしたものです。