14 12月

「稲むらの火」の文化史 

府川源一郎著 「稲むらの火」の文化史
日本児童文化史業書23 久山社刊 1999年11月25日 発行
P58-P63 抜粋

IV ハーンの翻案とその受容

応募者・中井常蔵
さて「稲むらの火」を投稿した中井常蔵とは、どのような人物であったのだろうか。
彼は、五兵衛ゆかりの地である和歌山県の訓導で、公募に応じた当時、二八歳の青年教師だった。中井が、「稲むらの火」を、文部省に送稿した経緯については、彼自身の証言があり、二冊の冊子となってまとめられている。その二冊の小冊子とは、次の二点である。

①『写本稲むらの火』
中井の小学校時代の教え子が、彼の還暦祝いに作製し、中井に贈った冊子。一九六八(昭和四十三)年十一月三日刊行の日付がある。内容は、昔、中井が『小学国語読本』(サクラ読本)に書いた教材文「稲むらの火」と、郷土読本に載せられた教材文「浜口儀兵衛」と、英語の副読本に掲載されたラフカディオ・ハーンの A Living God (英文)を、複写したもの。巻末に「お礼にかえて憶い出を」と題した中井自身の文章があり、そこに、文部省の公募に応じて、ハーンの文章に拠って教材文を作成した経緯が書かれている。

②『特集稲むらの火』
総計六十四ぺージの冊子。「昭和六十二年九月国土庁より受彰記念・編者中井常蔵」と表紙にある。中井の喜寿を祝って刊行されたもの。内容は、①『写本稲むらの火』の内容すべてと、それを一九八〇(昭和五十五)年に再版した際に中井自身が記した文章と今回あらためて、初版・再版後の世間の反響などを綴つた文章とが集成されている。中井常蔵と「稲むらの火」に関する総集編、総合版とでもいうべき冊子。
これらの資料によると、中井常蔵は、一九〇七(明治四十)年、和歌山県有田郡湯浅町生まれ。県立耐久中学校から、和歌山師範学校本科第二部へ進む。生まれ故郷の湯浅小学校の訓導一年つとめた後、和歌山師範学校専攻科を卒業、和歌山師範附属小学校訓導を経て、一九三二(昭和七)年、日高郡南部小学校訓導。一九四五(昭和二十)年 日高郡切目小学校校長になるが、敗戦直後に、教職への責任を感じて依願退職。以後、家業(酒販業)に専念という経歴である。
ところで「稲むらの火」は、中井による全くの創作ではなく、原拠があった。それは、ラフカディオ・ハーン(帰化名.小泉八雲)の作晶集 Gleanings in Buddha-Fields 『仏陀の畠の落穂拾ひ』(一八九七(明治三〇)年刊)の冒頭に置かれている A Living God (邦題「生神)という作品である。彼が、ハーンの作品に触れたのは、和歌山師範の専攻科に在籍していたときだった。英語学習のテキストに、ラフカデオ・ハーン集が使われ、そのなかに A Living Godが載せられていたのである。それを読んで、郷土の偉人の言動に深く打たれたらしい。
その後中井は、南部小学校に勤務していたとき、文部省が教材資料を募集していることを知り、ハーンの英文をもとに、教材文を作成して、それを投稿した。したがって。「稲むらの火」はハーンの原文の翻訳だということになる。もっとも、「翻訳」とはいうものの、ハーンの原作そのままではない。というより、原作をかなり縮約してあり、また部分的な改変も多いから、むしろ「翻作・翻案」といった方がいい。 どこが中井のオリジナルなのか、またハーンの原作はどのようにいかされているのか、それを知るためには両者を比較してみる必要がある。

A Living God と「稲むらの火」
原拠になった A Living God というハーンの作品は、現在、『小泉八雲作品集第八巻』(平丼呈一訳 恒文社 一九六四(昭和三十九)年 そのほかで容易に見ることができる。そこでの邦訳題は「生神」あるいは「生神様」となっている。文種はエッセイで、作品全体が大きく三つの章からなっている。
初めの章では、日本における神の様態の特徴が語られている。日本の神は「自然」と一体化しており、また存命中の人が祀られる場合もあるということが指摘される。さらに次の章では、日本の村落の相互扶助の規約について述べられ、とりわけ出火の際には、全員が応援に駆けつけるのが義務であったことが強調される。ここまでは、五兵衛の話を引き出すための布石だといっていい。
いよいよ最後の章で、浜口五兵衛のエピソードが語られることになる。その大筋は「稲むらの火」とほぼ同じであるが、分量は教材文のおおよそ五倍ほどある。教材文で切り捨てられた主な部分として、次のような記述があげられる。まず、日本における津波被害についての説明である。これは日本人の読み手がよく知っていることだから、教材文には不必要だと判断してカットしたのだろう。さらに、そのとき家にいたのは五兵衛と孫の二人で、実際に稲むらに火をつけたのは孫であるという部分が、五兵衛一人の行動に書きあらためられた。当然のことながら二人の間に交わされる会話も捨てられた。また、情景や人々の言動の描写やその説明も、原文の方が詳しい。「稲むらの火」では、これらがかなり簡略化されている。
以上のようにいうと教材文は、骨だけになってしまったように聞こえるかもしれないが、むしろ教材文は、原文をうまく焦点化して、要領よく、また感動の質を落とさないで刈り込んであるともいえる。かえってハーンの原文の方に、冗漫な解説が目に付くほどである。浜口五兵衛のエピソードだけを伝えるということなら、教材「稲むらの火」の方が、文章表現としても、簡潔ですぐれた仕上がりになっているという言い方をしていいかもしれない。
ハーンの原文では、さらにこの事件の後日謂も語られている。つまり、稲むら焼却事件のあった後、五兵衛は「浜口大明神」として祀られ、五兵衛神社が建立されたという事実が披歴されるのだ。実は、ハーンがこのエッセイで一番書きたかったのは、このことだった。だからこそ、その前置きとして、第一章で西欧とは異なった日本の神のあり方について述べておいたのである。ハーンの文章のタイトルが A Living God となっているのも、それを証拠立てている。
五兵衛は、この事件によって生きながら神となり、神社に祀られた。ということは、五兵衛という実在の人物の魂(精神)と、神社に勧請されて祀られた霊魂とが、分離して同時に存在するということになる。エツセイのなかで、どちらが本物の魂なのかと問いかけるハーンに対して、「日本の友人」は次のように答えたという。「百姓たちは、人間の心霊や魂というものは、その人が生きている間も、同時に方々にいることのできるものだと考えている」、と。ハーンによれば、それこそが、西欧世界とは異なる日本の特殊な精神文化なのだ、ということになる。これが、浜口五兵衛のエピソードに対するハーンの解釈であり、意味付けである。いうならば、このエッセイは「霊魂」あるいは「神」をめぐるハーンの日本文化論なのであり、その典型的な事例として浜口五兵衛のエピソードが引用紹介されたのである。
もっとも、中井が典拠にしたハーンの原文、すなわち英語学習で使ったテキストには、この A Living God の全文が載っていたわけではないようだ。今みたように、元の文章は大きく三章に分かれているが、一章、二章と、五兵衛の話を中心にした三章とはそれほど緊密な関係にはない。つまり、一、二章をカツトしても、十分に五兵衛のエピソードは理解できるのである。また、最後に付けられた東西の霊魂のありようについてのハーンの意見も、五兵衛のエピソードを際立たせることを第一に考えれば、無くてもいい部分だといっていいかもしれない。実際多くの英語のテキストは、五兵衛のエピソードを中心に編集されているようである。したがって、その時中井が使用した英文の A Living God も、すでにハーンの原作を離れ、単純に五兵衛のエピソードを中心に編集された文章になっていた可能性が大きい。

郷土の偉人の顕彰
ところで、なぜ中井常蔵は、ハーンの作品をもとに、国定読本に載せるための教材文を作成しようと考えたのか。それを推測してみよう。
単純にいえば、郷土の偉人を世のなかの人に知ってもらいたい、という愛郷意識が彼を衝き動かしたのではないかということが考えられる。「稲むらの火」のモデルとなった浜口儀兵衛は、和歌山県の出身で、この津波の話は、紀州有田郡広村での出来事だからである。おまけに浜口は、中井の出身校である県立耐久中学校の前身の耐久学舎を創設した人物でもある。こうした愛郷心に起因する教材文応募行動は、ほかの地方在住の教員たちにとっても、共通した感情だったかもしれない。というのは、国定教科書に特定の地域に関する教材が掲載されれば、地方限定の話が自然に全国版になるからだ。そうした動機から公募に参加した応募者も、かなりいたはずである。このときの応募作のなかでは、熊本の「通潤橋」、静岡の「名人元日を知らず」(豊田佐吉)などが、同じような志向を持っていたと思われる。
こうした愛郷意識は、いつの時代にも存在する。が、とりわけこの時期に、各地で郷土の事跡や郷土の人物が掘り起こされて、独自の副読本などが作られていたことを思い起こしておく必要もある。昭和初期に盛んになった「郷土教育」と呼ばれるこのような運動は、次第に愛郷精神がそのまま愛国精神と重なっていくようになり、太平洋戦争の進行とともに、戦争遂行を支える柱になっていく。もちろん、そうした時代の文脈がなくとも、純粋に五兵衛(儀兵衛)の英雄的な行為を顕彰し、それを教育の場に持ち込みたいという中井の思いも強かったにちがいない。無私の精神に立って、人命を救った五兵衛の姿を、多くの子どもたちに紹介したい、という願いである。さらに「稲むらの火」の場合に限っていうなら、それを後押しする格好の条件があった。それは、中井の教材文の背後に隠れている、原作者ハーンの存在である。
このときハーンは、日本人の間で、広くその作品が読まれる作家になっていた。もともとハーンは、自分の文章の読み手として、日本人一般を想定していたわけではない。ハーンの作品は、英文によって書かれ、主としてアメリカやヨーロッパの読書人を想定して出版された。いうまでもないことだが、ハーンは、英米文学作家なのである。その英米文学作家ハーンの最初の邦訳全集が日本で発売され始めたのは、1926(大正十五)年、第一書房からであった。全集が編まれ、それが読者によって購入されるということは、作品の受容という点から見れば、大きな出来事である。なぜなら、個々の作品の紹介ならともかく、個人全集が出版されるということは、その作家がメインの作家として社会的に認められたということだからである。では、どうしてこの時期、英米文学作家であるハーンの作品が邦訳されて、多くの日本の読者を獲得したのか。それには、日本におけるハーンの受け止め方についての、概観が必要になる。

以下

ハーン受容の姿勢、脚色された五兵衛像 省略