17 12月

「稲むらの火」の教訓

「稲むらの火」の教訓
「防災教育研究資料」1985年3月10日より
統計数理研究所 第六研究部 室長 水野 欽司

 
 1、防災教材の名作
 地震防災とか防災教育とかが話題になるとき,ある年代の人たちが,必ずといって思い出す一つの話がある。それが.「稲むらの火」である。ひとりの年寄りが津波の来るのを知り,稲むらに火を放って村人を集め,多くの人命を救った,という内容である。
 この短い話は,戦前の小学校の国定教科書にのっていた。くわしくいえば,昭和12年から17年まで使用された小学国語読本巻十と,昭和18年から敗戦まで使われた国民学校初等科国語六で、いずれも小学5年後期用の教材であった。したがって,昭和12年から敗戦までの間に小学5年生を迎えた世代は,これを学習したはずである。いわゆる昭和ひとケタ世代であり,現在の50歳台に当たっている。最近では「稲むらの火」の話は有名になっているので,直接学んでいない世代にも,知っている人は多いと思う。
 「稲むらの火」の全文は別掲のとおりである。(現在とは用字・用語が異なるが,ここでは漢字は現在のものに変え,送りがなは当時のままに残してある。また,ここでは横書きだが,原本は縦書きである。)

 2.徳目提示の巧みさ
 今回,特に「稲むらの火」を問題にするのは,現状の学童防災教育を考えるうえで,実際にあった話をモデルにしたという,この古い物語が他の多くのものに優って,貴重な示唆をわれわれに与えていると思われるからである。
 字数にして,わずか約1,400字の物語が,なぜ今日まで追億され,語り継がれたのかは,話の内容と表現の巧みさにあるといえる。この話は,一言でいえば,”人命の尊さ”を強く訴えることに尽きているが,細かくみると,種々の徳目・教訓が随所に含まれている。

 気がついた点をいくつか挙げよう。

 ○異常事態では,人生経験の豊富な年長老の判断が貴重であること。
五兵衛は,いままで体験したことのない揺れ方を異常と感じて津波の到来を予知する。これによって、年寄りの長い人生で培った経験が,いかに優れたものであるかを暗に示している。

 ○人命は,他の何物にも優って尊いこと。
「もったいないが,これで大勢の命が救われるのだ」と,五兵衛にいわせる。稲むらは貴重な財貨である。当時は米一粒も粗末にするな,という時代であった。それを灰にすることで、人命がなによりも優ることを、あざやかな対比として強調する。

 ○災害時には,とっさの機転,発想の転換がいかに重要であるか,ということ。
貴重な財貨に間髪を入れず火を放つなどは,通常なら重大犯罪である。五兵衛が、とっさにこの固定観念を突き破ってみせることで、発想の転換の重要性を説いている。

 ○危機場面では、体力に優る若者は率先して事に当たるべきこと。
五兵衛が放った火をみて,20人ほどの青年が真先に駆けつけることで、危機に臨んで青年の取るべき役割を示唆している。彼らは,伝令として再び駆け下ったにちがいない。

 ○冷静に情況を把握して,所期の目的の徹底を図るべきこと。 
混乱の中で,五兵衛が山に登ってくる人たちを数えて,もれがないかどうかをチェックすることで、それを教えている。”計算”で沈着と合理性を連想させる。

 ○互功の精神,感謝の心が大切であること。
五兵衛の前にひざまずいた村人は頭を下げる。それは感謝の心の大切さが強く伝わる光景である。

 この物語の巧みさは,多くの徳目・教訓を含みながら、直接には語らずに、ただ暗示にとどめていることだ。まさしく「国語」であって,「道徳」の教科書ではないのである。作者の意図のあり・なしは別にしても、まことに見事といわなければならない。

 3.情緒的ゆさぶり
 「稲むらの火」の巧みさは,徳目の提示だけではない。これらの徳目を子どもたちに印象づける,優れた情景描写がある。これが,子どもたちの情緒を強烈にゆさぶる、いわば舞台照明の効果となっていることだ。
 物語の発端から,黄昏(たそがれ)の暗い海の無気味な海鳴りが聞こえるような,重苦しい情景。一転して,宵空を焦がし,あかあかと燃える火。山寺の早鐘の音。それは,赤と黒の絵具で画いた恐ろしいサイケデリックな世界である。不安と興奮が交叉する緊張の情景を子どもの心に刻み込む。それは,実景以上に視覚的だ。津波が去り,唖然とする村人に静寂が戻って,五兵衛に頭を下げるラストシーンでは,作者は,再び火を燃えあがらせて,舞台を盛り上げる。心憎い気配りである。
 このような,映像的効果と,少々重古しい文体という膳立てがあって,はじめて物語の主題が子どもの心をゆさぶるのだといえる。いくら,子どもが欲するからといっても,マンガでは,こうはいかない。卓越した物語の構成,情緒に訴える強烈な情景描写…。これらが,子どもの心をとらえたのが「稲むらの火」であった。試みに,昔,これを学んだ数人の友人に回想してもらうと,同じ初等科国語六にのっていた「姿なき入城」,「敵前上陸」,「十二月八日」などは,すっかり忘れていても,「稲むらの火」だけは,よく記憶していて,当時の印象の深さを異口同音に証言してくれた。
 これだけの周到な配慮・工夫があって,子どもたちに”人命の尊さ”を印象づけ,津波の怖さを教え,”地震即津波”という固い結合を,終生忘れられないものにしたのである。また,幼年期を過ぎて,少年期の入口に立つ5年生のみずみずしい感受性が,それを助けたことも指摘しなければならない。

 4.名作から学ぶもの
「稲むらの火」が,われわれに教えるものは,防災教育の核心である高次の徳目を、もっと前面に出すべきことの重要性であろう。防災訓練に”高次の徳目”を掲げようという提案は、いささか飛躍が過ぎる印象を与えるかも知れない。しかし,単なる理想論ではなく、むしろ現実的に有効な方策であるといえるのではないか。
 被災場面のハウ・ツー的知識の伝授や練習は,もちろん不可欠である。しかし、子どもたちは、災害の恐ろしさを大なり小なり理解し得る大人とは異なる。子どもたちの側に立てば、実際に起きるのかどうかもわからない出来事のハウ・ツー的訓練に身が入らないのは当然である。
 それに対して,”高次の徳目”の明示は,平時であれ災害時であれ、人が努力すべき最終的な目的を教えることである。子どもの情感をゆさぶり,防災の意義を明確にして、訓練への動機づけを高めることが迂遠なようで、実は近道ではないだろうか。
 目頃行う個々の技術的訓練が,災害時に,そのままの形で役立つものではない。いざというとき習ったことと異なる行動が最も適切であるような場面は,いくらでもある。また、平常ならば、物を壊したりすることは”悪”であるが,災害時には,ドアを蹴破って脱出しなければならないこともある。そこでは、平時の”悪”が”善”に変っている。情況に応じて適切な判断ができる応用能力を養うのが防災教育であるとすれば,各場合でどう対応するかの判断の最終基準は”高次の徳目”を除いて,ほかにはないのである。もちろん,観念的な徳目だけを子どもに説いても,効き目はないだろう。それゆえ,子どもの心に浸透する入念な工夫は欠かせない。「稲むらの火」は、まさにそのことを、われわれに教えているのである。
 NHK記者の柳川喜郎氏の談によれば,この物語が国語教科書に登場したのは,関東大震災の発生を,かなり以前に予想していたという,東大地震学教室の亡き今村明恒氏らが文部省に働きかけたことによるという。
 先人が生み出した知恵を,われわれはあらためて考え直すべきではないか,と思う。

(初等科国語六より)
            −「稲むらの火」 本文 省略−