12 12月

「「稲むらの火」の教方に就て」昭和15年

「「稲むらの火」の教方に就て」
震災予防評議会 昭和15年(再版)

はしがき 尋常小学第五学年用国語読本巻第十課に「稲むらの火」といふ文が載せてあるのは周知に事実である。 日没前後の二、三時間内に起つた事件を其の推移のままに簡潔に綴つた叙事文であるが、其の内容は五兵衛といふ老人が自己の財産を犠牲にして400人の村民の生命を救つたといふ感銘すべき物語である。事倉卒に属し、村と村人とは将に大津浪に一呑にされようとする危険が目睫に迫つてゐるのに、彼等は之を気づかずにゐる。他の方法では救はれない。彼は断然決意して、自家の稲叢に放火したのである。yまでらは早鐘を撞く。先づ駆けつけたのが壮丁で、之に続くは老幼婦女子。人々は気ちがひじみた庄屋の行動と、海面とを見較へ、事の推移に依つて始めて真相を掴むことが出来、期せずして老人の前に跪き彼を拝んだのであつた。此の間五兵衛の終始緊張した気分は其のまま紙面に躍出で、一言半句の緩みなく描き出されてゐる。一面には文学的価値の高い作品であり、他方、志士仁人は身を殺しても仁を成すことあるを教へる一大文章だと謂はねばならぬ。

此の一篇は、単に上記の二特色を注意して講ずるだけでも教科としての価値は十分であらう。併し乍ら、若しそれに添へるに、此の物語の出典と実話とを以てしたならば、効果は更に倍?すべく、教方の如何によつては児童をして終生忘れ難い感銘を覚えしめることも不可能ではあるまい。

我が震災予防評議会は此の後の点につき多大な関心を有ち、本教科の教方の実況を、曾て津浪に悩まされたことのある地方に就て調べて見たが、其の結果は余り思はしくなかつた。即ち最初に記した二特色を無視するやうなものは皆無であつたとはいへ、後に挙げた二点即ち物語の出典と実話とを加味するやうな教方は、吾々の乏しい経験に関する限り、遂に殆んど之に接することが出来なかつた。

これは寧ろ当然のことかも知れぬ。といふのは、教師方の身辺に近く適当な参考書がないからのことである。但し所謂参考書なるものが絶対に無かつた訳ではない。或る小学校には馬渕冷佐氏著尋常科用小学読方教科書(東洋図書会社出版定価参円)が備附けてあつた。恐らく国語教育学会編小学国語読本綜合研究(岩波書店出版、巻十上冊定価八拾銭)のある学校もあるであらう。唯吾々はそれを能く利用して居られる方に接触しなかつただけである。

斯ういふ事情の下に於て震災予防評議会が執つた手段は、会自身で然るべき小冊子を作り、之を要所に頒布しようではないかといふことであつた。さうして余は其の小冊子の現行作成方を命ぜられたのである。

原文並に其の註 順序として先づ原文を掲げる蛇足とは思つたが、随処に若干の軸の注釈(括弧内)を加へて置いた。

「これは、ただ事でない。」とつぶやきながら、五兵衛は家から出て来た。今の地震は、別に烈しいといふ程のものではなかつた。しかし、長いゆつたりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴り(大地を伝はつて来る音。此の音は一旦空気に伝はつてから人に感じる)とは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであつた。

五兵衛は、自分の上の庭から、心配げに下の村を見下した(家が台地にあることが、説明を加へずしてよくわかる)。村では、豊年を祝ふよひ祭(宵祭、夜宮又は宵宮ともいふ、本祭の前夜の祭)の支度に心を取られて、さつきの地震には一向気がつかないもののやうである。

村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸附けられてしまつた(目を動かさずに、じいつと視つめたことを強く言つたのである)。風とは反対に波が沖へ沖へ動いて、見る見る海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れて来た(斯様な海水の異常干退は津浪の先駆なので、風向きとは無関係なものである)。

「大変だ、津浪がやつてくるに違ひない。」と、五兵衛は思つた。此のままにしておいたら、四百の命(四百は村民の人口に当る。或は戸数の積りかも知れぬ)が、村もろ共(村と人命と共に全部)一のみ(一呑)にやられてしまふ。もう一刻も猶予は出来ない。

「よし。」と叫んで(僅か二字、断然たる決意の強さが表現されてゐる)。家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明を持つて、飛出して来た。そこには、取入れるばかりになつてゐる(稲から実をこき取つて倉の中に取入れるばかりになつてゐる)たくさんの稲束(いなつか)が積んである。

「もつたいないが、これで村中の命が救へるのだ。」と、五兵衛はいきなり其の稲むら(いなむら。稲束を積重ねたもの。通常丸小屋の形に積む)の一つに火を移した。風にあふられて(アオられてと発音する)、火の手(火の燃えあがつて立つ炎)がぱつと上つた。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走つた。かうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したやうに、彼はそこに突立つたまま、沖の方を眺めてゐた。

日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなつて来た。稲むらの火は天をこがした。山寺では、此の火を見て早鐘をつき出した(釣鐘を急調子で撞き始めた。火災などの時の鐘の撞きかたである)。「火事だ。庄屋さんの家だ。」と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追ふやうにかけ出した。高台から見下してゐる五兵衛の目には、それは蟻の歩みのやうに(誇張法を用ひて書いたもの)、もどかしく思はれた、やつと二十人程の若者が、かけ上つて来た。彼等は、すず火を消しにかからうとする。五兵衛は大声に言つた。

「うつちやつておけ。……大変だ(危急の際た。悠長に説明なんかしては居られぬ。訳があるのだ。消すな。消すなといふやうな意味が、此の二句で叫び出されてゐる)。村中の人に来てもらふんだ。」

村中の人は、追々集つて来た。五兵衛は、後から後から上つて来る老幼男女を一人一人数へた。集つて来た人々は、もえてゐる稲むらと五兵衛の顔とを、代る代る見くらべた。

其の時、五兵衛は力一ぱいの声で叫んだ。

「見ろ。やつて来たぞ。」

たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い(細く暗いと一つに纏めるよりも、細い、暗い、と離す方がはつきり印象づけられる言ひ方)、一筋の線が見えた。其の線は見る見る太くなつた。広くなつた(此処にも同じ筆法が用ひてある)。非常な速さで押寄せて来た。

「津波だ。」と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のやうに目の前に迫つたと思ふと、山がのしかかつて(伸びあがつて、おつかぶさるやうにやつてくること)来たやうな重さと、百雷の一時に落ちたやうなとどろきとを以て、陸にぶつかつた。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のやうに山手へ突進して来た水煙の外は、一時何物も見えなかつた。

人々は、自分等の村の上を荒れ狂つて通る白い恐ろしい海を見た(波といはずに海といつたのは事前に適つてゐる。地震津浪は海が陸地への移動なのである。怒涛といへば風津浪の特色になるので、地震津浪には言はぬ)。二度三度、村の上を海は進み又退いた。高台では、しばらく何の話し声もなかつた。一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなつた村(ゑぐり取られたとある為に、目を遮る何物もないのとは違つて、処々に大きな樹木など立つたまま取残されてゐさうに感じられる)を、ただあきらめて(ひどく驚いて、ものも言へずに)見下してゐた。

稲むらの火は、風にあふられて又もえ上り、夕やみに包まれたあたりを明るくした(今一度、稲むらの火を呼び起こして、村民の心に活を入れたので、併せて読者にもほつとさせる)。始めて我にかへつた村人(今まで夢中であつたことが知られる)は、此の火によつて救はれたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまつた(跪いたのは崇敬の極致)。

出典 「稲むらの火」は小泉八雲の撰んだ「生ける神」の抜粋である。此の「生ける神」には、後日、村民が五兵衛を敬慕の余り、常時猶ほ生存してゐた彼を、神として祀つたことまで語られてゐるのであるが、国語読本は此の後の部分を省略した為、本篇の通りに改題せざるを得なくなつたのであらう。

小泉八雲とは世界的文豪ラフカヂオ・ハーン(Lafcadio Hearn)のことである。ハーンは日本を愛し、日本のローマンスを愛し、大和民族の美しきかずかずの物語を綴る為に、殆んど其の一生を之に捧げた人。此の点に於てハーンは我が日本の恩人である。彼の父は愛蘭人である。彼は母の生国希*に生れ、英仏で学んて北米に遊び、後日本に移住して日本婦人を娶り、帰化して名を小泉八雲と改め、日本を謳へる文学界の第一人者として其の名声を世界に馳せた後、遂に日本の土となつて逝いたのである。彼が西紀1897年に著した「佛陀の畑の落穂拾ひ」(Cleanning in Buddha-Fields)の冒頭に現れて来る文章「生ける神」(A Living God)は即ち本篇に取扱つてゐる「稲むらの火」の全文である。ハーンの此の「生ける神」といふ物語は、安政元年十一月五日紀州沿岸に襲来した大津浪に際し、濱口儀兵衛が村民を救ふ為に献身的に努力した実話に基づいたものであるが、物語と実話との間には多少の相違がある。此は話が次々に伝はる間に次第に事実を遠ざかつて行く関係にも基因したであらうが、著者が自己の作品を一層芸術的ならしめる為に故らに事実を誇張したり、或は歪めたりしたことが全然無いとは言へない。例へば「生ける神」の方に有つて「稲むらの火」には現れない事項の中に、事件を百余年前(実際は出版年次1897年を遡ること43年)としたるが如き、又村民が生ける五兵衛を神として祀つた(神社建立の企あるを聞いて、儀兵衛は其の蛮行を中止せしめた)が如き、是れである。其の他「稲むらの火」に就て、事実と遠ざかつた部分を摘録して見ると、次の諮点が挙げられる。

1)五兵衛といふ人物。濱口といふ姓は「生ける神」の方にも正しく出てゐるが;五兵衛は儀兵衛でなければならぬ。濱口家は土地の豪族ではあるが、庄屋ではなく、又老人となつてゐるけれども、常時儀兵衛は三十五歳の働き盛りであつた。

2)物語内の地震は別に烈しいといふ程のものにはなつてゐないけれども、実際は相当に烈しくて、界隈に潰れ家も生じた位であつた。

3)五兵衛の家は台地にあることになつてゐるけれども、実際は低い平地の集落の中にあつた。

4)村の人口は400ではなく1400であつて、一層精確に言へば1323であつた。

5)稲叢に放火したのは事実だが、稲叢の場所や所有者と放火の動機とが相違してゐる。特に実を採つた後の藁だけの稲叢であつたらしい。

斯様な詮議立をすると、作品の価値に対して疑惑を起す人があるかも知れぬ。併し物語の文学的価値は、事実とはさ程の関係は無いものであつて、寧ろ事実を多少歪めた為に其の価値を高めた節があるともいへよう。或は又、五兵衛の崇高な行為に対する尊敬の念が薄らぐやうに懸念する人があるかも知れぬが、併し事実は物語とりも更なる奇なる点があり、儀兵衛の実際の行動は一層崇高で、英雄的に、献身的で、波瀾に富んでゐる。之を要するに、ハーンは儀兵衛の偉大さの片鱗しか伝へなかつたと言へる。実話の一読を要する所以である。

実話其一:安政地震 安政年間、我国は五回の大地震に見舞われた。其の中、最初の三回は本物語の舞台である紀州有田郡広村に於ても大地震として感じた。第一は安政元年六月十五日の伊賀・伊勢・大和大地震、第二は同年十一月四日東海道沖大地震津浪、第三は同十一月五日南海道沖大地震津浪である。斯くて此の第三の大津浪は、広村に取り、必ずしも不意打ではなかつたのである。

元来、津浪には地震津浪と風津浪との区別があり、別に、支那銭塘江等の川口に於て大潮の頃に起る海嘯といふのもある。

風津浪は或は高潮ともいひ、之に対して地震津浪を単に津浪とも呼んでゐる。兩つ乍ら、海水が陸上に漲り溢れる点に於ては同じであるが、其の原因と海水漲溢の緩急・大小とに於て著しい相違がある。津浪は主に海底に於ける大規模の地変に基づき、高潮は著しい気圧低下や風力等の気象異常に因て起る。高潮の場合には浸水の高さは平水上数米に過ぎないが、津浪の場合は数十米に達することもある。高潮は低気圧の中心の移動に伴つて増水し、其の通過後次第に減水する関係上、海水の漲溢は概して一回に止まり、潮の差引も比較的に緩慢であるが、津浪は海水の一体としての振動なる為、潮の差引は稍急に且つ幾度も繰返され、其の週期は数十分或は一二時間にも達することがある。

津浪の高さは外洋では余り大きくなく、僅に数米に過ぎないけれども、浅海に近づくに従ひ、又漏斗形の港湾に侵入するとき、高さは次第に増大して、其の数倍又は数十倍にもなるのである。津波或は津浪と呼ばれる所以である。

安政元年十一月五日南海道沿岸を襲つた津浪は、発生の場所が潮岬や室戸岬の沖合百粁内外の辺にあつたのである。地震津浪の特徴として、先づ其処の洋底の広い区域に上下変動が起つたのであらう。それが一方では大地震となつて一二分間で陸地に波及し、他方、其の区域の直上に於て海水面の狂ひが起つて、それが津浪として数十分乃至一二時間かかつて海岸に押寄せたと解される。斯様な場合の地震の性質としては、陸上では稍緩慢な大揺れとなり、比較的長く続く特徴を具へてゐる。此の時、広村では瓦飛び、壁割れ、塀割れ(梧陵手記)たといひ、其の南東方約40粁にある田辺町では全町の三分の一程潰れ、大火災を起した。

広村では大地震を感じたのが午後五時頃であつて、それから津浪の襲来するまでに凡そ一時間はかかつたらう。其の間に、沖の方に遠雷か或は巨砲を連発するやうな響を聞くこと数回(此中には最初の地震に伴つて生じた音もあるかも知れぬが、寧ろ全部が、陸地或は浅瀬に来た津浪の破浪に因つて生じた音であると解したい)。さうして往々経験される通り海水の小干退が始まつたかも知れぬが、併しそれは確認されてゐない。但し、「生ける神」には其の事が書かれてゐること上記の通りであるが、此はハーンが明治廿九年三陸大津浪により其の示唆を得たものらしい。凡て此の事に限らず、津浪の大きさに比べて、地震の軽かつたこと、或は「生ける神」の津浪記事を全巻の冒頭に掲げた動機など、著書上梓の直前に起つた此の三陸大惨事に糸を引いてゐるやうには思はれる。

斯くして時を移さず(数分乃至十数分の後、本格的の津浪襲来となつたのであるが、此の時、広村では第二番(田辺では第三番)の浪が最も高く、俗稱一本松(第1図;八幡神社社殿から北北東約400米、丁字路の角、図に一つの独立針葉樹の記号のあるのがそれ)の根元まで来たと言はれてゐるから、平水上約8米の高さにまで上つたことになる(寛永年度の津浪は同14米の高さまで上つた)。恐らく海岸では5米乃至6米の高さであつたらう。尚ほ三番浪も二番浪に劣らず大きく、五番浪も稍大きかつたと言はれてゐる。

第2図は広村に於ける津浪遭難者の一人たる古田正三郎致恭の筆「広村に於ける安政津浪図」の模写(友田陽国書伯*)である。湯浅町の北西にある102.3高地から見下した図と仮定すれば大きな誤はないであらう。津浪が陸地へ侵入するときは、低地特に川筋を伝つて、勢鋭く、先廻りをするから、之が為、避難者は往々逃げ後れることがある。書面の左方に見える川筋は広川であつて、其の上手に当り、丘(高城山)の麓に、二三の船が打ち上げられてゐる。右手の山(天皇山)の陰に江上川がある訳だが、水柱が揚がつてゐる辺が其れであらう。中央部には十箇余の稲叢から火の手が上がつて居り、避難者が点々八幡神社の台地を指して駈けて行く所を見ると、二番浪が丁度侵入しつつある模様を示したものであらう。或は其の人数の中には、濱口梧陵と其の随員がゐるかも知れぬ。元来津浪の図といへば、風津浪のものに墜し易いのだが、此の図は、それに反して、能く地震津浪の真相を掴んでゐる。

広村に於ける寛永及び安政の津浪の損害は次の通りであつた。

寛永年度 戸数850の中700流失、150破損、土蔵90中70流失、20破損、船12・橋3流失、死者男女192人。

安政年度 戸数339の中125流失、全潰10、半潰46、汐込大小破損158、人口1323の内死者39人、船13、橋3流失。

実話其二:儀兵衛の活躍 醤油*号を以て名高い銚子の濱口家は、南紀広村の豪族である。初代儀兵衛元禄年間銚子に出店して醤油醸造業を創め、爾来歴代の努力に依つて其の名声を高め、或は海内一を以て評せられるに至つた。物語の主人公たる五兵衛は実に七代目儀兵衛に当り、晩年梧陵と号した偉人である。

梧陵六十六年の生涯は義勇奉公の絵巻物であり、世務公益開広の歴史である、特に安政大津浪に対する彼の文字通りの献身的奉仕は、実に感銘に堪へないものがある。彼は当時三十五歳、偶々帰省中に此の難に遭つたのである。此の時、彼は村人を逃す為に活躍して唯一人最後まで危地に踏止まり、将に其の犠牲とならんとして、辛うじて江上川を躍越えて奇蹟的に助かつたのであるが、山裾を伝つて村人の避難所たる八幡の丘に辿りつき、人数の不足を確かめるや否や、奮然、壮者十数名(彼は予ねて義勇奉公を誓ひ合つた村の青年達を指導して崇義団といふのを組織してゐた)を率ゐて、人命救助の為に再び虎穴に入つたのである。時に日は全く暮れてゐたから、壮者には手に手に松明を携へしめた所、之を目標に這上つて来た避難者が数多くあつた。彼は之に力を得て、何の躊躇もなく路傍の稲叢に幾多の人命(実数男女9名)が救はれたのは断るまでもない。斯くて救へるだけは救つたと見て、一本松の辺まで引取つてゐると、第二の津浪が押寄せて来て、燃盛つてゐる稲叢まで流して仕舞つた。

これで人命救助の序幕第一場は終つたのであるが、之に続く第二場第三場があつた。宝蔵寺に交渉して当夜の焚出しをしたこと、更に深夜、隣村たる中野村の里正の家を叩いて、年貢米に充ててあつた米50石(或は十数石ともいふ)を借出して(里正が年貢米の故を以て貸興を断ると、全責任は此の濱口が負ふと稱して数日間1400キロを糊したこと、是れである。

村民救助の第二幕は翌朝から幾週間が続いた。即ち彼は、悲観のどん底に落ちた村民を鼓舞激励して、村の復興に努めしめたのである。先づ同族の有福者を語らつて寄附を募り、自身は率先範を示して米200俵を寄附したのを手初めに、村役人を鞭撻して流氓の整理と治安の維持とに当らしめ、自力を以て藁葺の仮小屋を建設すること50棟、其の他失業者へ農具、漁舟、漁具、商人へ小資本等を給興するなど、連日、寝食を忘れて活躍したのであつた。

第三幕は津浪除け堤防の建設である。これには三つの偉大な目的が含まれてゐた。其一は、言ふまでもなく、村を未来永劫津浪の災厄から免れしめる為、其二は、村民がこれまでの恩恵に慣れて、動もすれば他力に依頼しようとする風が生じたので、此の緩み勝ちな民心を緊張せしめて、勤勉自粛の良風を作る為、其三は、これまで重税に悩んだ土地を以後堤防の敷地として重斂を免れしめる為であつて、三つ乍ら相当な成果を収めたのである。尤も、之が為に彼が払つた代償は並大抵ではなかつた。彼が藩に堤出した防浪堤建設許可願に「右工費は乍恐私如何様にも勘弁仕り、己来萬一洪浪御座候ても人命は勿論、田宅器財無慈凌ぎ候見留の主法相立候上にて人心安堵為致・・・・・・」としてあり、さうして彼が支出した工費は銀94,344匁の多額に上り、今日なら十萬円乃至二十萬円に相当する工事である。防浪堤の延長652.3米、高さ3乃至3.4米、平均海水面上約4.5米、幅底面17乃至17.4米、上面2.5乃至3米、更に外側には樹齢20年乃至30年の松樹を二列に植ゑて防潮林とし、上面と内側とには櫨を植ゑつけた。工を起したのが安政二年二月、竣工したのが同五年十二月、斯くて長い期日を要したのは、村の窮民への援職の意味があつた為であつて、日々使役する老幼男女の数幾百人、延人員計56,736人、重に農閑の季節を選んで工を進め、労銀は其日其日に給したから、村民も自ら勤勉ならざるを得なくなつた次第である。

安政大津浪に際し、村民救済の為、梧陵が献身的に活躍した事蹟を斯様に検討して見ると、前に述べた「事実は物語よりも更に奇なる点があり、儀兵衛の実際の行動は一層崇高で、英雄的で、献身的であつた」といふのが、過褒ではないと了得されるであらう。

実話其三:其の後の梧陵と村民 梧陵が村並に村民の為に盡力したことは以上で盡された訳ではない。広村の橋梁架設、青年子弟の教育等、到底此の小冊子に盡し難いものがある。代官から藩への具状書には、合計凡そ銀二百七八十貫程救合し、其の外に吹聴せぬものも多き旨を述べてゐる。

以上は梧陵の安政大津浪に関する活躍振りの一端を叙したに過ぎないが、玆に彼の人柄をも瞥見して置きたい。上記具状書に「当時身上宣敷候得共、儀兵衛儀は家宅衣服共諸事質素にて、篤実なる上に慈悲深く。兼て困窮之者共を救ひ遣し候に付、自然同村之者共都て尊敬致し候由」とあるので、村人が彼を神仏のやうに崇敬したのも偶然ではないことが首肯かれる。事件の翌年、彼等は神社濱口大明神を建立しようと議を纏め、材木まで調へて建設に取掛つた処を、梧陵が聞きつけて、村人に「我等儀神にも仏にも成りたき了簡にては決して無之、唯此度の大難救済、併せて村への奉仕は藩公への忠勤とも成ることと心得たまでの事、神社建立のことは藩公へも恐れあり。斯くては今後村や村民の世話は出来難くなる」と説得したので、神社建立は中止となつたが、併し純真な村人はそれで引下つたのではない。終に彼の承諾を得て、爾来彼を大明神様と呼ぶことにした。成程、形の上では神社建立は中止になつたけれども、精神的には濱口大明神が村民の脳裡に立派に築き上げられたものであつた。

濱口梧陵は其後に於ても幾多の輝かしい業績を残し(和歌山藩の要職、中央政府の駅逓頭などに歴任した)、明治十八年四月廿一日享年六十六歳を以て紐育で客死した。遺骸は厳重に防腐して鉄棺に収め、郷里広村先塋の傍に葬られた。彼は代官具状書の推奨により、安政三年十二月二十日、藩主から独体格(単独拝謁の資格)の優遇を蒙り、没後30年に当る大正四年には朝廷から従五位の御贈位を忝うし、更に23年後即ち昭和十三年には、梧陵の墓所並に彼が生前心血を注いだ防浪堤は史蹟として文部省から指定せられた。斯様に由緒新たな墓所が史蹟として指定されたことは、外には類例が無いさうである。

実話其四:外人の梧陵崇拝 最後に外人の梧陵崇拝に関する一幕を加へて、梧陵劇の大詰としたい。

梧陵の末子濱口擔氏が英国剣橋大学に留学中のこと、在倫敦の日本協会に招かれて、日本の女性と題する講演を試みたことがある。時は1903年5月13日、「佛陀の畑の落穂拾ひ」が出版されてから六年後のことである。

此日、婦人の聴講者が殊に多かつた。講演は喝采裡に終り、質問討議も一巡して、座長アーサー・デオシー氏が将に閉会を宣しようとする刹那、後列の一婦人から意外な質問が提出された。婦人名はステラ・ラ・ロレツ嬢、彼女が徐に語り出すを聞くに、

「私は今日の御講演に対して何等質問討議する能力を有たないものであります。さうして皆様が此の耳新しい日本の女性といふ問題につき感興しておいでの間、私は別に今一つの問題に捉はれて胸一杯であつたのであります。併しそれは日本の女性と直接関係がない為、皆様の御質問討議の終るのをお待ちしてゐたのであります。」と句切りながら、今度は聴衆一同へ向き直つて、

「皆様はハーンの「佛陀の畑の落穂拾ひ」の第一課に「生ける神」の美談があつたことを御記憶だらうと思ひます。其れは今から100年程前に紀州沿岸に大津浪が襲来したとき、身を以て村民を救つたといふ濱口五兵衛の事蹟を物語つたものであります。爾来、私は五兵衛の仁勇に推服すること多年、一日として五兵衛の名を忘れたことがありません。現に私の家に蔵してゐる一幅のペン書の中に書かれた日本児童を小濱口と名づけて之を愛好してゐる位であります。」

此時、若し彼女が、自分の質問の価値の重大さを知つてゐたなら、次のやうなことまで附加へたに相違ない。即ち「平生私は、私の心に定めた世界的聖人の目録を作つてゐます。其中には基督教徒もあり、仏教徒も、回教徒もあります。又其中には、文明人と自称してゐる人々が野蛮人と目してゐる族に属するのもあります。併し私の信じてゐる聖人は、唯今の御講演にも述べられた通り、何れも美しい徳を以てゐることに共通な点があるのでありまして、卑近な譬ではありますが、世界各国最高貨幣の鋳型は一一違つてゐても、其の資質が黄金である点に於ては相一致してゐるやうなものであります。さうして此の聖人目録中、濱口五兵衛は私の最も頌揚したい一人であります。私は、若し他日、日本観光の機会でもありましたなら、其の濱口神社に参詣したい位に思つてゐるものであります」・・・・・(擔氏に宛てたロレツ嬢の書簡から抄出。)

ロレツ嬢は更に語りつづける。

「斯くまで濱口の名に憧れてゐるのですもの、今日の御講演の濱口といふ名前に感興を催さずには居られません。講演者の濱口さんと私の崇拝してゐる濱口五兵衛との間に何の関係もないのでせうか。是非それを伺はせて下さい。」と言ひ終つて着席すると、衆目は期せずして壇上の講演者に集まつた。と見ると、擔氏は激越な感動に捉はれて、うなだれたまま一言も発することが出来なかつた。止むを得ず、司会者が彼に近づいて事由を問ひつ、質しつ、之を綴り合せて会場に報告するや、拍手と歡呼とは一時に百雷の轟くやうに場内を圧倒して仕舞つた。斯様な感動を興へた場面は日本協会に於ては空前であつたが、恐らく絶後かも知れぬと言はれてゐる。

ロレツ嬢は尋いで擔氏から詳細な真相を聴取して、事実は物語よりも更に神秘的であり、行為は更に崇高であつて、彼女が五兵衛景仰の念は一層深まる許りであつた旨を語つてゐる。事実は物語以上だとの吾々の断案は果して独断ではなかつたのである。