31 5月

ようこそ!カンボジアセンターへ「9.最後にちょっといい話」

タイの盤谷日本人商工会議所・所報(2007年8月号)にカンボジア日本人材開発センター(CJCC)のチーフアドバイザー中村三樹男さん(現在は、カイロの大エジプト博物館保存修復センター)が書かれた「ようこそ!カンボジア日本センターへ」の最後に「9.最後にちよっといい話」がありますので転載します。 「9.最後にちよっといい話」 タイやインドネシアなどに甚大な被害を及ぼしたスマトラ沖の大地震とインド洋津波については未だ記憶に新しいところですが、その地震のあった直後にCJCCの若い現地職員に、1854年(安政元年)に和歌山県(紀伊)広村で実際に起きた地震に大津波の襲来を察知して、庄屋の濱口五兵衛が山上の自分の田んぼに干してある稲むらに火をつけて村人を山上に誘導し村人の命を救ったと言う美談を話しました。 この話はラフカデイオ・ハ-ン(小泉八雲)が1897年にロンドンとボストンから出版した「仏の畠の落穂Gleanings in Buddha一Fields」の「生ける神様A... 続きを読む

09 4月

アラビア語訳 「稲むらの火」

「世界津波の日」制定とともに、海外からの注目も高まって来るかと思います。と云うことで、前JICA大エジプト博物館保存修復センタープロジェクト広報担当官であるエマン•レファットさんがアラビア語に訳された「稲むらの火」をご紹介させて頂きたいと思います。アラビア語圏の方々への物語の伝承のご参考になればと思います。尚、今回の転載には、訳者であるエマン•レファットさんにもご協力を頂きましたこと感謝致します。  稲むらの火 アラビア語訳  ... 続きを読む

10 3月

「濱口梧陵君伝」 -瀬川光行編「商海英傑伝」より-

「稲むらの火」の教科書掲載(昭和12年)に先駆けて梧陵さんの安政津波の際の行動に関して記された著書がいくつか存在することはご存知のことかと思います。その一つが、本サイトのトップページのメニューから閲覧できる「和歌山県郷土読本」です。ここでは、編者の調べでは最も古いと考えている瀬川光行編『商海英傑伝』(明治26年発行)に収められている「濱口梧陵君伝」を紹介させて頂きます。  「濱口梧陵伝」(国立国会図書館蔵)  瀬川光行編 『商海英傑伝』 奥付  -編集後記− 「商海英傑伝」発行年の明治26年には、広川町の八幡神社の裏山に勝海舟撰文の「濱口梧陵君碑」(4月)が建碑されている。編者の瀬川光行は、東京で議員などを歴任していることから、勝海舟との関係から梧陵さんのことを知ることになったのではと考えています。瀬川光行の出身地である、湯沢市(秋田)の市役所や地元紙の秋田魁新報社に瀬川光行に関すること、或は顕彰されている方などを紹介して頂けるようにメールを送りましたが、現時点では、その返信などは届いていません。ネット上での情報で、湯沢市にあった「麗澤舎」という塾の出身であることは分かっています。また、「商海英傑伝」以外にも、日本各地の名所などを写真集にしたものを瀬川は発行しています。紀州(和歌山)に関しては、広川町の隣町である由良町の興国寺の写真などが収められています。と云うことで、瀬川が実際に梧陵さんの生誕の地である広川町にも足を運んだ可能性もあります。写真集の序章には、耐久中学に来校した澤柳政太郎(東北大学総長、京都大学総長)が文をしたためていることから、梧陵さんのことを多方面からも聞いていたとも考えられます。 尚、ハーンが「生神」を書くきっかけになった明治三陸大津浪(明治29年)が発生したのは明治29年になります。従って、「商海英傑伝」は、それ以前に発行されていることになり、前述の和歌山県郷土読本(昭和7年発行)の中にある梧陵さんに関する伝記とは少し違った意味を持つ資料になると考えます。 また、その内容に関してですが、「安政2年10月2日夜」に有田郡を大きな地震が襲ったように記されていますが、ご存知のように有田郡を襲った地震、津波は「安政元年11月5日」に起こったものです。(「安政2年10月2日」と記されているのは、関東地方を襲った地震と著者が混同していたように思います。)他にも、梧陵さんが欧米視察に出国したのは、明治17年の5月で、その途中のニューヨークで客死したのは、その翌年の4月になりますので、日時の表記に於いて正確でない箇所があります。また、「於是君先つ人に命して巨砲を連発し人の向ふところを知らしめ」と記されていますが、梧陵さんが遺した手記に書かれている、津波の来襲に先立って、巨砲が連発されるような音が聞こえたことを、そのように表現したものと考えられます。 当サイトの閲覧者で、瀬川光生に関して、ご存知の方はご連絡頂ければ幸甚です。4年後には、梧陵さんの生誕200年を迎えることになりますので、多方面からの情報を募っています。ご協力宜しくお願い致します。 ... 続きを読む

09 3月

「311日本大地震的啟示:災不可測,務防範於未然」

東日本大震災からも早や5年の時が流れようとしています。また、少し前には、台湾でも大きな地震があり、建物の倒壊によって多数の犠牲者が出たことも記憶に新しいかと思いますが、台湾がいち早く東日本大震災の被災地支援を申し出たことも忘れてはならないと思います。先日、2012年になりますが、台湾の月刊誌に「稲むらの火」(「稻堆之火」)にも言及した東日本大震災に関する論文を掲載された陳卉瑄氏(小姐)から連絡を頂き、その掲載記事のPDFをお送り頂きましたので、ここに紹介させて頂きます。尚、「稻堆之火」は最後のページに、また本文中には以下のような「稲むらの火」に関する説明が加えられています。 Read More

05 3月

「地域遺産としての広村堤防の現状と地域社会の意識」

立正大学の片柳勉教授などが書かれた広村堤防に関する標題の論文「地球環境研究 Vol.11, pp 131-138, 2009 片柳 勉、田島 遥名、古川 恵(他)著」を紹介させて頂きます。同教授は、論文にも書かれている「津波祭」にも来町され、その時にご案内させて頂きました。広川町民の広村堤防に対する意識が、ご理解頂ける一つの参考資料としてお考え頂ければと思います。 Read More

03 3月

「安政元年のハザードマップ」-日本地理学会発表要旨集より-

2013年度日本地理学会春季学術大会に於いて、和歌山大学教育学部の島津俊之教授が発表された広川町に関わる要旨「安政元年のハザードマップ」を紹介させて頂きます。同教授には、広川町での古田庄右衛門(咏処)などに関する調査に何度か同行させて頂き、地元の安楽寺や養源寺での調査のお手伝いをさせて頂いた。(転載した古田庄右衛門の写真に関しては、島津教授と訪問した有田市の垣内勇氏のご好意で撮影させて頂いたものである。) Read More

10 2月

「濱口大明神縁起」 濱田康三郎

1903年(明治36年)5月13日夜のことであった −−− ロンドン市ハノヴァ•スクエア20番地の日本協会々館のホールでは、今し一日本紳士の『日本歴史上の顕著なる婦人』(Some... 続きを読む

1903年(明治36年)5月13日夜のことであった −−−

ロンドン市ハノヴァ•スクエア20番地の日本協会々館のホールでは、今し一日本紳士の『日本歴史上の顕著なる婦人』(Some striking Female Personalities in Japanese History)と題する長い講演が、満堂の盛んな拍手喝采の裡に終わって、吉例の随意討論が会員の間に社交はされているところであった。

 演題が演題であったからであろう、今晩の講演会は近頃に珍しい大入で、婦人会員の出席の何時になく多かったのが誰の目にもすぐついた。

東西両洋の同盟島国間の交情を、相互の国民性を一層深く研究、理解してますます親密にしようとする大きい理想をもった。ロンドン在住の日本人とイギリス人との集団であるこの協会の会員同志には、堅苦しい遠慮はあまりなかった。思い思いの質問や論議がそれからそれへと、主としてイギリス人会員の側からとび出した。自分自身ではひとかどの日本通をもって任じてはいても、さて実際にその国を訪ねたこともあるものはそう沢山ある筈はなく、その大部分は或は自分の職業の関係から、或は少数の在留日本人との交際から、或はお伽噺のような物語を通しての好奇心から、日本に関する知識と興味とを比較的多く持っているという程度の好事家たるに過ぎなかった、それら会員の講演者に対する質問や議論は、自然、ともすると正しい的を外れた、見当ちがいの、それも現代に関わるものになりがちで、同席の日本人会員の苦笑をそそった。然し、それでも年若い講演者は飽くまでも真面目な態度で、その都度々々親切な答弁をした。ただその説くところの現代日本婦人は、主として上流社会の新時代的な女性であって、質問者の多数の興味の中心となっているように見えた『ムスメ』や『ゲイシャ•ガール』などに言及しなければならない場合に、彼は内気な少年のように両の頬を赤らめた。

ホールの前の方に数人の同性の友達と肩を並べて席をとり、講演の最初から熱心に傾聴していた一人の年若い婦人があった。聡明らしい顔付をした彼女は、そうしながらも絶えず探るが如き眼附をして講演者の顔をじっと見守っていた。講演が終わって随意討論に移ってからも、彼女の眼は相変わらず彼の一挙一動の上に注がれていた。彼女は外の会員達の提出した本題から梢離れた質問に彼が丁寧な説明をする度に、幾度かそのすぐあとについて自分も何事かを問い質さとうとしかけれは、強いて自分を制して、腰をもぢつかせていた。

質問及び討論の合間が段々長引いて来て、今宵の清興も終わりに近づいたのを覚えさせた時、司会者は懐中時計を取り出して四方をながめ廻した。その様子を目ざとく認めた瞬間に、彼女は遂に我を忘れてすっくと座を立ち上がった。

『ミス•ロレッツ−−』

司会者の反射的な呼声に、やや草臥れ気味になっていた一同は、期せずして身體を婦人の方にふり向けた。彼女は顔を火照らせて、二三度口をもぐもぐさせた後、早目に言葉を続けた。

『−−私は、先程の御講演の主題については彼是と論議する丈(だけ)の能力を持って居りませんので、只今までわざと差控えていたのでございますが、皆様の御討論も大體(体)おすみのようですから、最後に一寸講演者にお尋ね致したいと存じます。••••実は、私は今日の講演者のお名前をうかがった最初から、或るロマンティックな質問を頭の中から取り去ることが出来ず、それで先刻来皆様が想いをあの耳新しい日本の女性の上にお馳せになっていられる間にも、自分ひとりで色々限りのない空想に耽って居ったのでした。というのは、外でもございません。皆様もよく御存知の、先年(1897年)当地のコンステーブル会社から出版になりましたラフカディオ•ハーン氏(Lafcadio Hearn)の「仏陀の畑の落穂拾い」(Gleanings in Buddha-Fields)。あの書物の巻頭を飾っている「生ける神」(A Living God)と題する日本の老長者の涙ぐましい尊い犠牲の物語の主人公は、キシュウ•アリタのハマグチ•ゴヘイでございます。今日の講演者のお名前も濱口様と承ります。子供らしい想像でありますが、私には何とはなしに此のお二人の間には浅からざるご関係がおありになるのではないか、とそんな気がしてならないのです。いかがでしょう、それは私自身の愚かな幻想に過ぎないのでございましょうか。』

そう云い終わって、婦人は何事か異常な返答を楽しみ期待していたかのように、緊張し切って座に復した。

あまりにも突飛な彼女の質問は、司会者アーサー•ディオシィをはじめ会衆全部をして、あっけにとられさせた。

それに何の不思議があったろう。どれ程に彼が、日本の風物を絵のように写したその名文をもって、最近めきめきと売り出して来たハーンであり、彼等が日本協会の会員達であったにしても、多忙な日々の務に追われ勝ちな彼等の皆が皆、彼の著書に一々目を通している筈はなかった。彼等の大多数は、事実、ミス•ロレッツの質問を了解することさえ出来なかったのであった。

『何だね、あの婦人の尋ねているのは。』

『ハマグチ•ゴヘイって、どんなことをした人間か、君は知っているか。』

『キシュウというのは、トクガワ•ショウグンの親族のダイミョウの領土だったのだよ。』などと囁き交わすものもあった。

しかもその一方に、婦人の意味を推察し得た少数の人々は、それだけにまた。彼女の向う見ずな不躾な質問に、他人事ならず肝を冷やさずにいられなかった。何故かなれば、どれ程に小さい島国であると云っても、とにかくに四千万からもの人口を有する日本の国なのである。ハマグチなる姓をもてる人間は何千、何万人とあるにちがいない。それを大隈を名乗る人を誰も重信伯の甥であり、安藤と呼ぶ男を悉く広重の子孫の絵師であるかのように早合点して、こうした会場の真ん中で、薮から棒に、真正面から問いただすなどは、あまりに常識を失した行為と称せねばならなったから。

司会者はややあって講演者の方を顧み、彼が突然の思いがけない質問に驚愕して、気抜けしたように呆然としているのを見て、近くの二三の役員達を何事かを耳話し合うた後、婦人の方に向き直って、わざと座談のように打ちとけた口調で話かけた。

『ミス•ロレッツ。お話の様子では、ハマグチ•ゴヘイというのは、日本で余程有名な長者のように思われますが、打見たところ、淑女紳士諸君のうちには、まだハーン氏をお読みになっていられない方がかなりおありのようです。お差し支えがなければ、「生ける神」の物語の大畧(略)をそれらの方々のためにお話下さいませんか。ご質問の通りの濱口氏がゴヘイ氏と何等の関係をお持ちであれば、諸君の興味も一層深くあるでありましょうし、そうでなかったにしても、ほかならない我々日本協会の会員にとっては、今日の講演の思いがけない余分の利益となるに違いないでしょうから。』

『ヒヤ、ヒヤ。賛成。』

謹深い呼声と同時に、催促がましい拍手がそこそこに鳴り響いた。

ミス•ステラ•ロレッツは暫し躊躇の末、元気よく身を起こし、

『司会者様のお言葉でございますが、私は−−−もう幾度も繰り返して読んでいる僻に−−−あの物語の全文を今正確に宙に覚えて居りません。それで、ほんのあらましだけを紹介させて頂きます。詳しくはどうか是非共にハーン氏の原文におつき下さいませ。あの名文をお読みになれば、どなたにしてもハマグチ•ゴヘイの尊い犠牲的精神に心を打たれずにいられないでありましょう。私は日本協会の会員である皆様は、一人も残らずもう疾くにあの書物を御覧になっておいでだ。とばかり信じていました。』

と、そう梢不平らしく皮肉を云って、ここで一寸息を継ぎ、首をかしげて記憶を整理して、語り進めた。

『ハーン氏の「生ける神」は三節に分かれて居ります。第一節には日本の神道の社の神秘的な様子や神々の特性抔を述べて、日本には現在生存中の人間の霊魂をも神として崇め祭る風習がある。紀州有田郡のハマグチ•ゴヘイの如きもその一例であると記し、第二節には明治以前の時代に於いて多くの村の団体を支配していた或る法律、というより、もっと適切に云えば、法律と同じだけのあらゆる力をもっていた風俗、について簡単な解説をなし、いよいよ第三節に入ってハマグチ•ゴヘイの事績を詳細に叙述し、最後に、どうして百姓達はハマグチの生存中に彼の霊魂だけを祭って、それで何の矛盾をも感ぜずにいられたのであろうか。云々、という風に意味深い数段をつけ加えています。』

『第三節に書かれてあるハマグチ•ゴヘイの事績は、次の通りであります−−−−』

 

遠い太古の時代から、日本の海岸には幾百年の不規則的な合間々々を置いて、非常に大きい海嘯−−−地震だとか海底火山の爆発だとかによって引き起こされる海嘯が、襲って来ます。此の恐ろしい海水の不意の暴溢を、日本人は『つなみ』と呼んでいます。つい最近の例としては、1896年(明治29年)6月17日の夕方、長さ約二百哩もある巨浪が、宮崎、岩手、青森の東北地方諸県を襲い、幾十かの町々村々を全滅させ、各地を隈なく破壊し、約三万の人命を奪いました。ハマグチ•ゴヘイの物語は明治をずっと以前に遡った時代に、日本の他の海岸地方に起こった大津浪についての物語であります。

彼は彼を有名にした此の事件の起こった時には、既に老人でした。彼はその住村では最も有力な人物で、年久しくムラオサ即ち村長を勤め、村の人々の尊敬と愛情とを一身に集めていました。人々は彼をおじいさん−−−即ち祖父と呼びました。然し、村内切っての富豪であったので、彼は時々長者と公に呼ばれました。彼はいつも村の小百姓達に色々有益な注意をしてやったり、争論を仲裁してやったり、必用(要)な場合には金銭を立替えてやったり、彼等の米を出来る丈(だけ)よい値段で売り捌いてやったりしました。

ハマグチの大きな藁葦の家は、入江を見下す小さい臺(台)地の縁にありました。此の台地は、大部分は稲田に切り開かれ、三方は鬱蒼と樹木の生え繁った峰々にとり囲まれていました。土地はその外側の縁から、さながら刳(えぐ)り取られたように、水際までずっと大きい縁の中窪になって傾斜し、そしてこの斜面の全体は、かれこれ四分の三哩もの間、段々になっていて、遥かの沖合から見ると、真中のところに細い白い雁木形の筋−−−山道のうねり−−−の入った、大きい緑色の階段そっくりでした。村の中心をなす九十軒の藁葦の人家と一坐の神社とが、入江の曲線に沿って立ち、そしてそれ以外の家々は長者の家へ通じる狭い道路の両側にちらほらと、斜面を上の方へ、数町の間散在していました。

或る秋の日の夕方、ハマグチ•ゴヘイは自分の家の縁側から、下の村のお祭の色々な準備を見下していました。その年は米の出来が非常によかったので、百姓達は氏神の広庭でお祝いの豊年踊をする筈になっていたのです。老人は一本筋の大通りの屋根々々の上にはためくお祭の幟や、竹の竿と竿との間に吊し連ねた紙提灯の列や、お社の様々な装飾や、若い衆達の派手な衣装をつけた集団を見ることが出来ました。彼はその晩は今年十歳になる小さい孫息子一人とだけでの留守番で、家中の外の者達は皆早くから村へ行っていました。彼自身も、常より少し気分が悪いのでなかったなれば、一緒に出かけてあるところでした。

その日はいやに重苦しい日でした。そして軽い微風の立っているにも拘らず、なお空気には、日本の農夫の経験によると、ある季節によく地震の前触れをする、あのむっとするむせ暑さがありました。果然、間もなく一揺れの地震が来ました。それは人を驚かせる程に大したものではなかったけれでも、今迄に何百度となく地震の経験をしたハマグチには、これはちとけたい(懈怠)だわいと思われました−−−長い、ゆるやかな、ふわふわする揺れ方だったのでした。多分それはずっと遠くの何処かの激震の余波に過ぎなかったのでしょう。家はきしきしと音を立てて数回ゆるやかに揺れて、それからそれ切り元通りに収まりました。

地震が止むと、ハマグチは鋭い老眼を上げて、気遣わし気に村の方を見返しました。人間というものは、或る特別な地点なり事物を凝と見詰めているうちに、ふと眼にそれとは少しも見ていない或るものの意識に曵かれて−−−視界の彼方に横たわっている、かの無意識的の知覚ともいう可き朦朧たる範囲の中の、極めて漠然とした変だなと思う感情に曳かれて、注意を伝ぜしめられることが、よくあるものです。ハマグチも此の時、ふとそうして、沖合の或る徒(ただ)事ならぬものの気配に気が付いたのでした。彼は、と、座を立ち上がって、海を眺めました。それは全く不意に暗くなって、そして奇妙な動作をしていました。それは風に逆ろうて動いているように思えました。正しく陸からずんずん引退いているのでした。

ほんの暫くのうちに、村中の人々も此の現象に気づきました。打見た所、彼等の中には一人として先程の地震を感じたものは無かったようでしたが、海の此の動き方には誰も明らかに驚愕していました。彼等は浜辺に走り出で、なおそのさきへまで飛び出して、様子を見守りました。ここらの海岸で汐のこれ程に引いたことは、今の人間の誰の記憶にもありませんでした。ついぞ今日迄に見たことのない様々のものが、段々を現れて来ました。見馴れぬ広々として畝立つに砂地や、海草のからみついた岩の角々抔が、ハマグチの眺めている間にも続々とむき出しに残されました。しかも下の人々の中には誰一人として、その異常な引汐の何を意味しているかを推察するものが無い様子でした。

ハマグチ•ゴヘイ自身にしても、彼はまだこれ迄にこうしたことを見た経験はありませんでした。然し、彼は子供の時分に彼の父の父に聞かせて貰った色々な事柄を覚えてい(て)、また海岸の伝説を悉く知っていました。彼は海がこれから何をせんとしているかを了解しました。恐らくは彼は村へ使者を送るか、或は小山の上の寺の坊様に大釣鐘を撞かせるかの為に要する時間を、無胸算用したでありましょう••••然し、彼が心に思いついた時間よりも、思いついただけの事を口に出して云う時間の方が、ずっと余計にかかったに違いありません。で、彼はただ彼の孫に、

『タダ!−−−早く−−−−大急ぎだ!•••松明をつけておくれ。』と呼びかけました。

松明は、暴風雨の夜の用意に、また或る神道の祭礼の用意に、多くの海辺の家に常から備え付けてあります。タダが直座に松明に火を点けると、老人はそれを受け取って急いで田圃へとんで出ました。そこには彼の家の投資の大部分ともいうべき幾百とも知れぬ稲藁が、取り入れを待って立っていました。斜面の縁に最も近い稲藁に近寄ると共に、彼は松明をそれに差付けました−−−次から次へと、老人の手足に身を運ばせ得るだけ迅速に。太陽に乾き切った藁は火口(ほくち)のように燃えつき、煽る海風は炎を陸の方へ吹きつけました。見る見る、一列また一列と、稲藁は紅蓮の舌を挙げ、空ざまに渦巻き上がる黒煙の柱は、合うて縺れて一つの巨大な雲の竜巻となりました。タダは肝潰れ心怯え、祖父の後を追いかけて、

『おじいさん!どうしたの?おじいさん!どうしたの?−−−どうしたの?』と呼び立てました。

けれどもハマグチは答えませんでした。彼には説明する時間が無かったのでした。彼は唯危急に追われる四百の人命のことばかりを思っていたのでした。ややしばしタダは興奮して燃え立つ稲藁を見守って、やがてわっと泣き出し、祖父さんは気が狂ったのだと信じて、家へ走り帰りました、ハマグチは尚も稲藁から稲藁へと火をつけ続けて、自分の田の端まで来て松明を投げ捨て、待ち構えました。山寺の小坊主は燃え盛る火の手を見て、大釣鐘をごうんごうんと撞き立て、人々は火の手と早鐘とに応えました。ハマグチは彼等が砂地を退き、浜辺を超え、村を出て、蟻の群れのように−−−今は寸秒の時間も千秋も思いがされた彼の焦立たしい眼には、殆ど蟻の群れ同様の鈍い足取りをして−−−急ぎ登って来る姿を見守りました。太陽は将に没しようとし、そして入江の皺(しぼ)んだ砂地と、そのまださきに広く土色の斑点をつけて広がった海底とは、残んの橙色の光の中にまざまざと露出していました。しかも海は依然地平線の方へ続々と退いているのでした。

が、実際はハマグチは左迄長く待つ必要がなかったのでした。やがて救援の先頭部隊が到着して−−−二十人許りのはしこい若者達が、矢庭に火の手を消しにかかろうとしました。然し、長者は両の腕をさし拡げて一同を止め、

『おい、燃やしておいてくれ!』と命じました。−−−『燃やしておいてくれ!わしは村中の人に来てもらいたいのだ。えらいことがあるのだ。−−−大変だ!』

村中の者共は次から次へと押し寄せて来たので、ハマグチは彼等の数を勘定しました。若者や少年は全部間もなくその場に揃い、元気のよい女子や娘達もかなり多く集まりました。引き続いて中老の人々の大部分、それから背中に赤ん坊を負うた母親達、それに子供達までが−−−子供達は水を運ぶ手伝が出来ました−−−来ました。皆の者について来られなかった足弱の長老達の険しい坂道を登って来る姿までが、はきっり見えました。殖えまされるこれらの人々は、まだ訳のわからぬままに、物悲しい気な訝りの裡に、燃えさかる田圃と長者の落ち着き払った顔とを交じる交じる見比べました。太陽は没しました。

『おじいさんは気が狂ったのだ−−−こわいよう!』と、皆の者から問いかけられて、タダはすすり泣きながら答えました。『おじいさんは気狂になったのだ。自分で態と稲叢へ火をつけたんだ。私は見ていたんだよ!』

『稲叢へ火をつけたのは、』と、ハマグチは叫びました。『子供の云う通りだ。わしが火をつけたのだ。•••もうみんな集まったか?』

組長と家々の主人達は自分達の周囲を顧み、小山を見下ろして答えました。『みんな来ています。いや、ぢきに来て了います。•••一体これはどうしたのですか。』

『来たツ!』と、老人はありったけの声を絞って、沖の方を指しつつ叫びました。『どうだ、これでもわしは気が狂っていたのか!』

黄昏の中を東の方に人々は眼を向けました。そして薄暗い地平線の縁に、長い、細い、微かな、曾て見かけたこともなかった海岸の影のような線を−−−見詰めている間にも次第に太さの増して近寄る人の眼に海岸線のひろがるように、しかもしれとは比較にならぬ位に早く広がって来る線を、見ました。というのは、その長い暗がりこそは、絶壁のようにそそり立ち、鳶の飛ぶよりも疾く押し寄せて来る、海の揺返しなのでした。

『津波だ!』と、人々は絶叫しました。そしてその途端に、あらゆる絶叫も、あらゆる物音も、あらゆる物音を聞く力も、山なす怒濤の、四辺の小山を揺り動かした程の重壓(圧)をもって、幕電の炎にも似た飛沫の雨を降らせて岸を打つ、どんな雷よりも烈しい、名伏すべからざる衝撃のために打ち消されて了いました。とばかりの間、眼に入るものとは雲のように斜面を立ち昇って来るしぶきの嵐ばかり。人々はただその有様のみで、我勝ちに悲鳴を挙げて後に逃散りました。漸くにして彼等が再び振り返った時、彼等は白く沸き立ちかえる海が、彼等の家のあった場所の上を狂奔しているのを見ました。それは物凄しい轟きを立てて、道々地面の臓腑を引裂きながら退きました。二度、三度、五度と海は寄せては返しました。然し、その都度浪は次第に小さくなりまさり、やがて平常の岸辺にまで引き退き、そこに止まりました。−−−然し、それでも尚台風の後のように荒れながら。

台地の上では、暫しの程は物一つ云うものがありませんでした。ありとしあらゆる人々は言葉とてもなく、唯眼下に横たわっている荒涼たる様を−−−物凄い投げ上げられた岩々や、姿あさましく引きちぎられた崖や、無慙にも刳り出された深海の漂流物や、民家や寺院の空しい跡にまき散らされた砂礫抔を見守りました。叢は跡形もなくなり、田畑の大部分は勿論、台地さえも姿を消して了っていました。入江の畔に立ち並んであった家々のうち、今それとおぼしきものは、遥かの沖合に物狂はしく浮きつ沈みつしている二つの藁屋根以外に、何一つ残って居りませんでした。危機一髪にして脱れ得た死の後の恐怖と、余りに烈しい損害の打撃とのために、唇を動かすものとてありませんでした。ようようのことでハマグチは穏やかな声で云いました。

『これだからわしは稲藁に火をつけたのだ。』

彼等の長者ハマグチは、今や最も貧しいものと同じ程貧しくなっていました。何故かといえば、彼の財産は全部無くなったからです−−−けれども彼は此の犠牲によって四百の生命を救ったのでした。小さいタダは彼の側に走り寄って、彼の手を執り、失礼なことを云って済みませんでした。御免なさい、と云いました。それを見て、人々は始めて自分達の命拾いをなし得た理由に気がつき、そして自分達を救ってくれたハマグチの無造作な、献身的な先見に驚嘆しはじめました。組長達がハマグチ•ゴヘイの前に平伏して地面に頭をすりつけると、人々も皆彼等の例にならいました。

その時老人は少し泣きました。一つには抑えきれない嬉しさの為に、一つには年老い力衰えた身に受けた試練のあまりの辛さの為に。

『わしの家は残っている、』と、彼はものが云えるようになると同時に、無意識にタダの鳶色の頬を撫でながら云いました。『随分入れるぞ。それに山の上にはお寺もある。此方へ入れ切れない人はあちらへ行って貰えばよい。』

そうして彼は自分の家の方へ先頭に立って歩き出しました。一同は叫んだり喚(わめ)いたりしました。

苦難の時期は長く続きました。何故かと云えば、その時代には地方と地方との間には迅速な交通の方法もなく、しかも必要な救護は遠くの方から送らねばならなかったからです。然し、よりよき時節の来た時、人々はハマグチ•ゴヘイに対する彼等の債務を忘れませんでした。彼等は彼を富ませることは出来ませんでした。いや、よし出来てあったにしても、彼は彼等にはそんなことをさせはしなかったでありましょう。況してや物質上の贈物の如きは、彼等の彼に対する敬虔な感情を現すに足り得なかったでありましょう。彼等は彼の内に存する精霊を神界に属するものと信じたのですから。で、彼等は彼を呼ぶに神を以てし、爾後彼を濱口『大明神』と称しました。彼等はこうしてこれ以上の名誉を彼に授けることは出来ないだろうと考えたのでありますが−−−事実、世界の何処の国へ行けばとて、これ以上の名誉が人間の身に授けられ得ましょうか。村が再興せられた時、彼等は彼の霊魂のために一字のお宮を建立し、その正面の上に金の漢字で彼の名前を書いた扁額を掲げました。そして人々は其処に祈りと供物とを捧げて彼を祭りました。私は彼がこの事柄に就いて如何なる感じを抱いたかを述べることは出来ません。ただ私の知るところでは、彼の心霊は下の神社の中に祭られながら、その後も相変わらず人間らしく又素朴に、彼の子供達や子供達の子供達と一緒に、小山の上の古ぼけた藁葦の家に住み続けたそうであります。彼が死んでから百年以上の年月が経過しています。けれども彼のお宮は、聞けば、尚現存していて、人々は今に心配事や憂い事がある度毎に、此の善良な老農夫の精霊に救いを求めるとの由であります。

 

ミス•ステラ•ラ•ロレッツはこう語り終わって、ここで息を継いだ。ホールの中には咳一つするものも無かった。人々は−−−ハーンを読んだこともないものはいうまでもなかった。読んだことのあるものはあるだけに、古い記憶を新しく呼び起こされてまたひとしおに−−−いずれも宛らに魔法にでもかけられたように呼吸を凝らして、長話に梢汗ばんだ婦人の顔を見つめた。例えようのない厳粛さが会場内を支配した。感情の高まりやすい婦人達のうちには、感激の涙をハンケチに隠しきれないでいるのも少なくなかった。

『ハーン氏の「生ける神」のハマグチ•ゴヘイに関する部分は、大そう拙い紹介ですが、まず只今申し上げた通りでございます。私はこの文章を一読して、何とはなしに身体中の血潮の沸き立つ気がしてなりませんでした。そしてその時以来、ハマグチの尊い犠牲に心からの敬意を捧げ、一日として彼の名を忘れた日はございません。この席には私の親しいお友達もおいでで、それらの方々はよく御存知ですが、私は大分以前から自分の楽しみのために、自分の心で定めた世界的聖人の目録を作って居ります。その中にはキリスト教徒もあり、仏教徒もあり、又ペルシャ教徒もあります。自ら文明人を以て誇る人々が「野蛮人」と呼んでいる人々もあります。然し、私の信ずる聖人は、いずれも美しい徳を有する点に於いて一致しています。それはたとえば貨幣のようなもので、鑄造の相違こそあれ、その実質が黄金−−−四海同胞という黄金−−−たる点に於いて少しの差異もないのであります。未だ見ぬ遠い国に生まれ、その血統においても、その風習においても、またその信仰−−−神学者達が区別しつつある信仰−−−においても、我々とは全く異なった人種に属するハマグチ•ゴヘイの名前は、私の聖人目録んお中にも私の最も頌揚しようとするものでございます。あまりの慕わしさに、私は実蔵の或る錦繪の中の可憐な一少年に、戯れに「小濱口」なる名を与え、私の部屋の中に揚げて、朝夕言葉をかけています。それで今では私をお訪ね下さる親しい方々も、いつしか同じようにこの少年をその名でお呼びになります。私は私の一生のうちにいつか機会を得て日本を訪問することが出来たなれば、是非共にハマグチの神社へ参詣したいと熱望し、そしてそれ迄の間に、どなたか日本の紀州のお方に、彼はかの事件の後どういう風な生活をしていたか、どんな死を死んだか、彼の神社は現在どんな状態になっているのか、というふうな事柄を委しく承りたいと、心中にふかく願っていました。たまたま今日の講演者のお名前が濱口様とうかがった折りの私の感情は、どんなであったでしょう。私はここ数日の間は、今宵のこの会合を指折り数えて待ちわびたのでした。私の空想は余りにロマンティックでございましょう。けれども、さき程からご様子を拝見して居れば居る程、何故かは知らず、私はただもう一途に、日本の何処のお方とも存じませぬこの濱口様が、あの紀州有田の尊敬すべき老長者の何代かの御子孫でおありに違いない、という確信を起さずにいられないのでございます。こんな失礼なことをお尋ねしてとんだご迷惑をおかけするのか存知ませんが−−−濱口様はハーン氏の物語の主人公とは、何かの関係をお持ちなのではございませんでしょうか。』

云い終わって彼女は静かに腰を下ろし、再び青年の方をじっと見守った。

会衆の好奇心に満ちた眼は、期せずして司会者の傍らに席をとっていた講演者の上に注がれた。

婦人の質問の最初から妙に落ち着きの無いそわそわした態度をしていた青年紳士は、婦人の話の進むに連れて、いよいよ抑えきれない心の興奮に、人目を避けつつ幾度かハンケチを取り出して、さり気ない風を装っては、拭いても拭いても拭き切れぬ熱い涙の湧いて来る目蓋をこすっていた。そして彼女の質問の言葉を半ば空に聞きのがしたかのように、やや長い間そのまま呆然としていたが、漸く自分で自分を励まし、身体をぶるぶると小さく戦わせながらよろめき立って、息忙しい枯れた声で、

『ミス•ロレッツ−−−お尋ねのハマグチ•ゴヘイは、私の実の父でございます。』

と云い捨てたまま、へたへたと椅子の上に倒れかかり、顔を両手の中に埋めた。

『実のお父様−−−?』

ホールの中は一度にどよめき渡った。遠くの方には態々立ち上がって物珍しい気に講演者の姿をのぞき込むものさえあり、静まりかえっていた場内の其処此処には私語が頻りにとり交わされた。

司会者は驚いて青年の背後に進みより、彼の肩に手をかけ顔をのぞき込んで、小声で何事かを頻りに囁いた。青年はすねてでもいるように、ただ頷いたりかぶりを振ったりするだけで、ハンケチをいよいよ強く両の眼を上におしつけた。

幾分かの息づまるような無言劇——と、会衆の眼には映じた−−−の後、司会者ディオシィは、異常な興奮に顔を光らせて、講演者をかばい隠すように一二歩前に進み出で、聴衆に向かって口を開いた。

『淑女紳士諸君。御覧の通り、濱口氏はミス•ロレッツの思いもかけぬ質問の為にあまりに感激せられて、詳しい答弁を直ぐには致しかねるとのことであります。それに何の無理がありましょう。先程嬢によって紹介せられましたかの尊敬すべき日本の老長者は、わが濱口氏の実のお父様であるのだそうであります。何という不思議な因縁でありましょう。こうした小説的な事実は、一種の奇跡めいた感じさえされます。もし我々が濱口氏であるとしても、恐らくは我々は感極まって一語をも発し得られないでありましょう。然しながら、我々は濱口氏の心情を思えば思うだけ、我々として、どうでもして、極く簡単にでも、この席上で親しく同氏の口から、かの主人公に関するお話をうかがわずにはいられないという、自分勝手な欲望を起こさずにいられません。どうか皆様は暫しの間、出来るだけ静かに濱口氏の興奮の少し収まるのをお待ちになって、かの「生ける神」の後日談を、「生ける神」の愛子その人からお聞きなされますようお願い致します。』

『ヒヤ、ヒヤ。』

遠慮深い掛声が三つ四つ、どこからともなく聞こえた。

『そしてその間に、私は今同氏から聞いたばかりの一二の事実を、とりあえず諸君にお伝えする義務があるのを感じます。−−−ハーン氏のハマグチ•ゴヘイは、実は濱口儀兵衛の誤りであり、そうしてわが濱口擔氏は、彼の唯一の令息であるのだそうであります。』

我を忘れた会衆の拍手はホール中に高く鳴り響いた。

青年濱口はこの拍手の音を耳にして、涙に打ちぬれた顔をあげて会衆を見回した。そして殆ど超人的な勇気を奮い起こして、卓子を頼りに身体を立ち上がらせ、沈痛な声をふりしぼって呼びかけた。

『淑女紳士諸君−−−』

会衆は一瞬にざわめきをひたと止め、聞き耳を聳てて、じっと青年を仰ぎ見た。

『司会者ディオシィ氏は、極めて同情ある言葉をもって、私のために弁解して下さいました。申す迄もなく、私は只今興奮のあまり、落ち着いてものを云うだけの余裕を持って居りません。皆様にしても、私が現在どんな複雑な感情の渦巻の中にあるかを十分に理解して下さるでありましょう。事実、私は先刻来、ロレッツ嬢のお話も途中からは殆ど大部分聞きとることが出来なかったくらい、そんなに心の平静を失っていたのでした。私の申しますところのが順序を巓倒し断片的になるであろうをお咎め下さらないように、予めお願い致します。』

『ディオシィ氏の申された通り、ハーン氏のハマグチ•ゴヘイと私とは、正しく父子の関係にあるのであります。ハマグチ•ゴヘイは、正確には父濱口儀兵衛であります。聞くところによれば、ハーン氏は父の事績を記した文章を新聞紙上で読み、それに暗示を得て、氏一流の麗筆を揮ってあの物語を創作せられたのだとか。従って儀兵衛の名をゴヘイと改めたのは、作者としての常套手段によったのであり、大津浪の折の出来事の大部分も、ハーン氏自身の想像に基づいているのであります。然し、それだからと云って、私はハーン氏に対して不平がましいものを毛頭抱いているのではありません。いや、それどころか、氏がかの名文をもって、事実そのものに多くの潤色を施しながら、精神は少しも変えずに、父の小さい功績を世界中に紹介して下さった労苦に対し、衷心感謝しているのであります』

『ロレッツ嬢のご質問もありましたし、ディオシィ氏は、この席上で私の口から直接皆様に、父のあの折の活動ぶりをお伝えするようにと、たっての御勧めであります。が、それは私にとっては絶対的に不可能であります。実際、私が今こうしてこのことろに立っているのでさえ、あり得べからざる事柄なので、私の現在成し得る精一杯のことは、抑えきれない感激の涙を抑えながら、皆様の前に無言のお辞儀をして引き退くことなのであります。』

此処で彼は口を閉じて、幾度となく両の目蓋を拭い、乱れた心を無理に取り鎮めて、

『けれども、淑女紳士諸君。それにしては、私には気がかり千万な事柄が一つあります。それは−−−ハーン氏の物がありの主人公は、今から百年以上も昔の人物となっているのです。もしそれを事実とするなれば、私の言葉に偽りのあるのでない限り、どうして彼のような年若い息子を持ち得る訳がありましょうか。皆様が第一番にお超しになる疑問は、これであろうと存じます。私は皆様が私をお疑いになるであろうを、何よりも掛念致します。それで私はとにかくハーン氏の物語と実際の事実との相違点その他を−−−詳細は、何分にも私の誕生以前に起こった事柄ではあり、私自身に知っている筈がありませんから、さし当り父の生前の談話に聞いたところをもととして−−−思いつくまま簡単にお話することに決心致しました。』

彼は少年の日の古い記憶を呼び起こそうと時々小首を傾げては、適切な外国語の表現の咄嗟の場合に考えつき難いのを焦だちながら、語り進んだ。

私の父はハマグチ•ゴヘイでなくて、濱口儀兵衛(第七代)と申しました。然し、父は晩年に改めた梧陵という名前での方が、よりよく知られています。紀州有田広村と呼ぶ、大阪の直南約五十哩の、日本の太平洋沿岸にある小さい村の産であります。私共の一家は同村に三百有余年の間住居を定めている 舊(旧)家の一で、父は村長ではなかったけれども、最も有力な長者の一人として、早くから村のために蓋すところが多かったそうであります。

ハーン氏の物語に記されている大津浪は、1854年(安政元年)11月5日の出来事でした。この大津浪については、父の委しい手記が残って居ります。それによると、事実はハーン氏の筆にせられたのより遥かに惨憺たるものでした。

この1854年の大津浪は、その11月4日の畿内及び東海、東山両道の諸国にあったそれに引き続いて、翌5日南海、西海、山陽、山陰四道の諸国に起こった大地震のために、海潮が幕溢して、瀕海の町々村々に多大の災害を被らせたものであります。広村でも四日の午前10時頃強震があり、人々は津波の襲来を案じて村を立退き、近在に避難をしたのですが、翌5夕刻に至り又しても烈しい大地震があって、歴史的な大津浪を したのでした。

その日は朝からどんよりとした花曇りの空でした。日没近く−−−午後4時頃になって、突如として激しい大地震がありました。それは前日のものの比ではなく、家々の屋根の瓦は忽ちに飛び散り、壁は崩れ、塀は倒れ、塵烟は濛々として空を覆い、海の彼方からは轟々たる巨砲の如き響が物凄く聞こえて来ました。そして村中の井戸は悉く一時に涸れきり、入江の前面によこたわっている小島(苅藻島)の方向に太い火の柱が立ち、西北の空は暗黒色に帯びて、陰々粛殺の気が天地を圧しました。これは徒事ではない。村の人々を至急何処かへ避難させねばならないぞ、と考えついて、父が配下の若者達を指図して手配をしている最中に、早くも山なす怒濤はすさまじい勢をもって−−−広村は全戸海沿いの平地に立ち列んで居るので、ハーン氏の記していられるように、父の家だけが臺地の上にあるのではありません−−−押し寄せたのでした。

父はあわてて自分の家に馳け戻って家族を避難させ、それから番頭と二人だけ踏み止まって、人々を全部急ぎ立ち退かせ、最後に殿をして村を出ようとしますと、第二の大津浪は既にその踵に迫りました。狂者のように野を走り抜け、小川を跳ね越して、漸く村のずっと後方にある小高い岡辺に辿り着き、村民達の寄り合っていた小山(八幡山)まで来た時には、短い冬の日はもうとっぷりと暮れ果てて、月の無い夜は鳥羽玉の暗闇に成っていました。耳に響き聞こゆるはけたたましい人々の阿鼻叫喚と、物凄い怒濤の水音ばかり。あやめもわかぬ真の闇の中に、恐怖に心潰れて方向を失しているものも少なくあるまいと思って、父はとりあえず手下の者共に松明を点けさせましたが、それ位では到底物の役に立ちそうでありません。で、咄嗟の機転で、路傍に積み重ねてあった十数堆の稲叢に火を放たしめました。このあかりを便り(頼り)にして辛く父の側へ集まったものが、9名に及んだと申します。ハーン氏の稲叢に対する記事は、この事実を潤色せられたのでありましょう。然し、稲叢の火も暫時の役立ちに過ぎませんでした。再び襲って来た、それ迄のどれよりもずっとずっと大きく烈しい大津浪が、遠くこのあたりまで氾濫して、一瞬の間にそれらの稲叢をはじめ百余軒の人家を根こそぎ引掠って行ったからでした。津浪はこの日七回寄せては返しましたが、この時の第五番目のが最も大きく且つ猛烈であったのです。

その晩小山(八幡山)と隣村の寺(南広村法蔵寺)とに集まった避難民は、合計千四百名以上に及びました。しかも夕食前からの不意の大混雑の為に早くも極度の空腹を訴えた彼等には、差し当つての食物が何よりも緊急な必要でした。それで父はとりあえず寺(法蔵寺)の貯蔵米を借り受けて炊き出しをなし、更に深夜隣村(中野村)の庄屋を訪ねて、無理矢理に年貢米五十石を父一人の全責任に於いて借出し、村民達の食料に充てました。

翌日になって村の損害の大要を調査してみますと、田畑その他の分は別として、流出家屋百二十余戸、全潰、半潰、汐入、大小破家屋は二百戸余戸に上り、流死人は男女合わせて三十名の多きを数えました。前後七回打ち寄せた大津浪が、数時間にしてこれだけの大損害を四百余戸のこの村に与えたのでした。父をはじめ村中の人々はあまりにも恐ろしい自然の暴威に、今更の如く唖然たらざるを得なかった、と申しますのは、誠にさもありなんと思います。

以上は1854年の広村の大津浪そのものの大体の輪廓でありますが−−−話の序ではあり、ハーン氏の省略せられたその後日談を若干付け加えさせて頂きましょう。何故かと云えば、打ち明けて申せば、大津浪の当夜のこともことながら、父としては、村の人々のためにその全力を尽したのは、皆様も容易にご推察下さるであろう通りに、大災害直後の村民の救済とそしてそれからの村の復興とであったからであります。

大津浪の翌日の6日、翌々日の7日にも、余震は止まず、人々はその恐怖に戦くと共に、眼前の災害を するばかりで、村の後始末にとりかかろうとする元気も出ませんでした。それで父は、その後毎日罹災者の間を駆け回って、或は慰め或は諭し或は励まし、同族の者達と協力して百方当面の救護に努めました。先ず假小屋を設けて罹災者の一部を収容し、自ら救護米二十俵を出して近隣の村々の義捐を乞い、人々に命じて村内の大整理をさせ、そしてそれから、住むに家なく耕すに田畑なく漁するに舟も漁具もなくなって、明日の生計を立てる術を失った窮民達のために、急いで五十軒の住家を新築してこれを提供し、農漁夫には農漁具、商人には身分に応じた資金を、それそれ貸与して、自立の途を講ぜしめました。

けれども、それ程にまでしてなお村民の間には、あまりにも凶暴であった大津浪の打撃に凝り果てて、この土地を恐れ厭い、他郷へ移住しようとするものが次ぎ次ぎに現れました。もともと紀州のこの地方は日本の有名な地震地帯の一であり、従ってその海辺に位(置)するこの付近一帯は、昔から屢々これら海底の地震によって引き起こされる津浪の来襲を受けて居たのでありますが、地勢の関係上、広村の被害は常にどの隣村に較べでも遥かにより甚大であったのです。それが又しても今度のこの徹底的な大災害なのでした。村民の多数が村に見切りをつけ、他郷へ移住を志したのは、強ちに無理でなく、そうでもないものも、誰一人としてこの儘の村の住居に心を安じ得ませんでした。村の衰微、滅亡のきざしは日一日と顕著になりました。

父はこの様子を見て、村民の安全と幸福とを永久に保証(保證)するためには、是非とも将来の如何なる大津浪に対しても十分にその能力を発揮し得る堅固な大堤防−−−古くからある高さ一間半程のものだけで安心のならないのは、既に証明済みとなったのであります−−−を完成しなければならないと、考えつきました。そして祖先以来の郷土を熱愛する一念から、莫大な費用を要す可きを覚悟の上、敢然独力でこの大事業を計画し、同族の一人(濱口吉右衛門)を説いてその賛成を得、官に乞うて許可を受けた後、翌55年(安政2年)2月からいよいよその工を起こしました。

父がこうして性急に築堤工事に着手したのは、工事そのものが急を要したからではありませんでした。津浪の来襲ということは、古来の経験によっても、踵を接してあるものでありません故、これに対する築堤工事も、十年乃至二十年計画をもって徐ろに進行させても、あながちに遅いとはしない筈なのです。が、父はこの工事の着手によって村民に仕事を与え、生産的に窮民救済の実を挙げると共に、村の将来の安全を保証し得るであろうという、父一流の見解を持ったのでした。即ちこの工事は、父の考えでは、工事のための工事ではなく、救済のための工事であったのです。従ってその進行も甚だ不規則的であり、村民の農漁業その他の暇々を選んで、慌てず焦らず、徐々に継続されました。

この堤防は父の古来の伝説を参照し、且つ現前の災害の実況について潮汐の度を量って設計したもので、高さ二間半、根幅十一間、上幅四間、長さは最初の予定では約五百間でありました。然し、御存知の通り、50年代の日本は建国以来の多事の秋であって、異国船の渡来、攘夷論の沸騰などという大事件がそれからそれへと突発して、転嫁の風雲が急となり、自然父も意を築堤工事にのみ専らにする訳に行かなくなりましたので、遂に58年(安政5年)12月ひと先ず中止の止むなきに至りました。出来上がった堤防は延長三百五十間、予定の計画には大分不足でしたが、それでも年月を閲すること47ヶ月、約4カ年に及び、これだけあれば今後の大津浪に対しては、防禦(御)の見込みはほぼ十分と思われました。

堤防が完成した時、父はその外面の土手の脚部に松を数千本、土手の内部及び上部櫨を数百本植え、更にこの堤防を新築するに至った理由と工事の敬意を略記した記念碑を建てました。

これらの堤防、樹木、及び記念碑は、今に広村の海辺で父の当時の苦心を物語って居ります。

凡そこの大津浪以後に於いて父が村の救護のために支払った費用は、表向きの記録に書かれてあるところだけで、銀270、80貫(約4700両)に及んでいます。

ハーン氏によれば、村の人々は後年父の生前の霊魂を祭った『濱口大明神』を創建したことになっていますが、それは事実ではありません。さればとて、全然無根というのでもありません。報恩の念に厚い村の人々は大津浪当時及びそれ以後に受けた父の苦労に対して深甚な謝意を表し、父をさながらの神仏の如く尊敬し、父の霊魂を祭ろうと決議して、そのために建築材料まで集めてくれました。父はその事実を伝え聞いて、以ての外となし、早速主立った発起人達を呼び集めて、『私がこれ迄に色々出来るだけの尽力したのは、神や仏に祀られたいからではなく、ただ私の祖先以来の郷土であるこの村を愛する一念に、お上への忠義のため、自分自身の冥加のため、広村をもとの広村に復興したいと願ったからであった。それだのに私を祭る神社を建てて呉れたりしては、志はうれしいけれども、お上へ対して恐れ多くもある。今後村のお世話は一切お断りしなければならない。』

と、強いて辞退したので、沙汰止みとなりました。しかしながら、私は今に良く覚えていますが、ずっと後年になっても、人々は父を時に『濱口大明神』−−−文字通りの意味では『大きく明らかなる神濱口』と呼びました。神社は、つまり比喩的に、彼等の心の中に、彼等の唇の上にだけ建てられたものであります。

父はその後数年して江戸———後の東京———に出て、国事に奔走し、明治の維新政府が起こると共に身を官界に投じ、初代の駅逓頭(逓信大臣)となって多少の功績をのこし、閑地に退いてからは力を専ら地方自治のことに致し、教育の振興を計り、地方議員制度の行わるるに及んで郷里の県会議員に選挙せられました。1884年(明治17年)諸外国の政治制度を視察しようと志して世界漫遊の途につき、先ずアメリカ合衆国に渡り、そこで病を獲、翌85年4月、ニュウ•ヨーク市で客死しました。享年は日本風に数えて66歳でありました。

申し遅れましたが、あの大津浪の折には、父は35歳でありました。ハーン氏のタダが私であったのなれば甚だご愛嬌になるのでありますが、私は父の53歳の時の息子であります。大津浪の当時、父は私の二人の姉達、即ち7歳のたき女と2歳のみち女とも持っているだけでした。

青年濱口はここで額ににじみ出た汗を押しぬぐい、数分の間息を休めて、一層感慨深げに結びの言葉をつけ足した。

『•••が。それにはしても、ハーン氏のあの「生ける神」の一篇は、何という立派な、力のこもった名文でしょう。父のこととは思いつつも、私はあの物語を繰り返して読む度に、ハマグチ•ゴヘイの尊い同情と犠牲とに、はなり知れない感激の沸き立つのを禁じ得ません。然し、考えてみれば、それの何の不思議がありましょう。ハマグチ•ゴヘイは、結局は濱口儀兵衛であるというよりも、むしろより多くラフカディオ•ハーンなのであります。作者ハーン氏の同情と犠牲とが、ハマグチ•ゴヘイを通して、そのままの物語に現れているのであります。即ち、ハマグチ•ゴヘイはやがてハーン氏その人に外ならないのである、とそう私は信じて居ります。』

『父は−−−私の父濱口儀兵衛は、多分、皆様からそれほどの賞賛をお受けする程に特別な犠牲を成したとは、自分では夢にもおもいがけていなかったのでありましょう。何故かと云えば、おこがましいようですが、父は村の長者と呼ばれるものの一人でありました。父は非常の際に於ける長者の義務を果たしたに過ぎなかったのであります。』

『皆様は父が生きるながら「濱口大明神」として神に祭られた−−−事実は、祭られようとした−−−とお聞きになって、驚異の眼をお開きになります。が、いうところの「大明神」が、皆様のGod Almighty(全智全霊の神)ではないことは、よくご推察なされるでありましょう。村民のいわゆる「大明神」は、平たく申せば、果たすべきことを果たした人間———つまりは皆様のtrue Gentlemen(真の紳士)に外ならないのではないか、と私は考えます。事柄の形式が東洋的であるが故に、皆様の眼には怪奇に映じるでありましょうが、所詮は村民は父をTrue Gentlemenとし、最高の尊敬を払ってくれた、というべきであろうと存じます。』

『しかも、思うに、この果たすべき義務を果たした True Gentlemanなるものは、決して世に稀でありません。恐らくは父より遥かにより尊敬すべきTrue Gentlemen −−−英雄でも偉人でもないただのTrue Gentlemen は、世界のどの隅々へ行っても、必ず数多くあったでありましょう。また現在より、将来もあるのであろうに違いありません。ただそれらの方々の功績の殆ど全部が、世にあらわされていないがために、ほんの狭い地方地方に云い伝えられるに過ぎないのに、これは何という僥倖であったのでしょう、ハーン氏の霊 筆に上せられたばかりに、日本紀州有田郡の片田舎に於ける父の小さい犠牲は、世界中に紹介せられのであります。父としては、まことに分に過ぎた光栄でありました。父が若しし生前にあの文章を見たなれば、恐らくはハーン氏に対しても、「あまりに恐れ多いから」と申して、発表をお控え下さるようにお願いしたでありましょう。』

『が、それはそれとして、淑女紳士諸君−−−浅学非才の私が、只今ここにこうして皆様の前に立って、父の事績をお話する光栄を得たのをよろこぶにつけ、私の心中には実際何と言葉に表してよいかわからない感激を受けると同時に、忘れようとして忘れられないに相違ない尊い教訓を、深く深く刻みつけられるのであります。』

『私は今私の瞼に、18年以前異郷で病没した父の面影をありありと見る心地が致します。そして今更の如く父をなつかしむ情を抑えきれないと共に、父の子としての私の責任のいよいよ重且つ大なるを痛感せずにいられません。せめては父の名を辱しめぬだけの人間にならなければならない、とそう誓わずには居られません。』

『私は、皆様もご承知の如く、日本から遥々と当国に遊学し、ケンブリッジのペンブローク大学で経済学を修めているものであります。けれども、私が当国へ参って学び得た、また学び得るであろう最も大きい−−−いや、私の一生の間に学び得る最も大きい、最も重要な教訓は、今夜この会場に於いて得たこの感銘でなければなりません。それは正しく私の生涯の真の進路に関する天啓であります。この意味で、私はミス•ステラ•ラ•ロレッツの予期しなかったご質問に対し満腔の謝意を表します』

『私は私の不可能事を敢えてして、あまりに長々とお喋り致しました。私の心中の感情はどれ程に申しても申しきれようはありません。然し、私はもうこの上に話す気力を有しません。余は賢明なる皆様の同情あるご推察にお任せ致します••••』

こう云い終わって、彼は座に復する早々、溢れる涙をせきあえず、声を放って泣きじゃくった。

深淵の如き沈黙の裡に聞き惚れていた会衆一同は、尚も久しくそのまま身動きさえしなかった。が、そのうちに誰かの

『濱口君万歳!』

と叫んだ一声が、忽ちに魔法の呪を破った。津浪のような、大津浪のような拍手と喝采とかホール中に爆発した。そして人々は−−−ステラ•ラ•ロレッツ嬢が狂人のようになって真っ先に立っていたのは、云う迄もなかった−−−この『生ける神』の子との握手を求めるために、青年紳士濱口擔の方に向かって雪崩れかかった。

 

 

上記は、昭和15年9月1日に紀伊郷土社から発行された濱田康三郎著「父母状由来記」に収められた「濱口大明神縁起」のテキストを書き写したものだが、表現は出来る限り現在のものに書き換えている。尚、一部の頁をサムネイルとして参考に表示しているが、必ずしも頁順になっているものではない。写真は、梧陵さんの子息の濱口擔氏である。

著者である濱田康三郎氏に関しては、資料が極めて少ない為、詳細は分からないが、神戸で貿易商として活躍をしていた濱田篤三郎氏の関係者であると思われる。「濱口大明神縁起」の他にも、梧陵さんに関係する『広村 「生ける神」の郷地』などの著書がある。